6話 仙波の喉

作業場の中は、外より暗かった。

窓が少ない。壁際の高窓から差し込む光も、海霧に濾されて青白い。工具箱、錆びたメジャー、使い込まれた万力。棚の一番上には、造船所時代の工程表が丸めたまま置かれていた。機械油と濡れた鉄の匂いが混ざり、喉の奥に薄い膜を作る。

仙波俊介は、作業台の前に立った。

「そこへ座れ」

古い丸椅子を顎で示す。自分は座らず、工具箱の蓋へ手を置いた。蓋の隅に、白く擦れた作業帽の跡が残っている。

久保田が入口近くの壁を見た。そこには、撤去された機械の跡だけが四角く残っていた。誰かが置いていたものを、別の誰かが持ち去った後の形だった。

私は椅子に腰を下ろさず、作業台の向かいに立った。

「三十年前の十一月二十日。夜の十時過ぎ、お前は造船所の裏手にいた」

「いたかもしれねえ」

「いた」

「証拠は」

「お前の聴取記録だ」

「三十年前の紙切れを、証拠だと言うか」

「紙切れにしたのは俺だ」

仙波の目が、初めて私の顔へ上がった。

ほんの一瞬だった。すぐに視線は私の手元へ落ちる。私が手帳を開いていることを見ている。

「お前は昔から、紙を持つと偉くなるな」

「紙を持っているから聞くんじゃない。お前が話したことを、今度は削らずに残すためだ」

「削ったのは俺じゃねえ」

「俺だ」

「だったら、俺に聞くな。自分で書け」

「自分で書ける部分は、もう書いた。書けなかった部分を、お前に聞いている」

仙波は口を閉じた。

作業場の奥で、古いラジオが雑音を吐いている。電波が届かないのか、低い唸りの中に、時折誰かの声の断片が混ざった。言葉にはならず、音だけがほどけて消える。

久保田は端末を開き、仙波の正面ではなく、少し斜めの位置に立った。相手の顔を正面から押さえつけるのではなく、手元と足元を同時に見られる場所を選んだのだろう。

「防波堤側は見ていない」

私は言った。

「当時のお前の証言だ」

「見てねえものは、見てねえ」

「だが、裏道から資材を運ぶ音を聞いたと言っている」

「聞いた」

「当夜、造船所に夜間搬出の予定はなかった」

「予定がなけりゃ、物が動かねえのか」

「誰が動かした」

「知らねえ」

「何を運んだ」

「知らねえ」

「音は、何時頃だ」

「忘れた」

「忘れたにしては、足場と潮位はよく覚えている」

仙波の指が、工具箱の蓋を二度叩いた。

「現場のことは覚えてる。人間のことは忘れる」

「人間が資材を運ぶ」

「だから、音だけ聞いたって言ってる」

「見ていないのに、裏道の足場を説明できるのか」

仙波は腕を組んだ。大きな肩がわずかに上がり、作業着の布が擦れる。

「昔の港を知ってりゃ、あの程度は分かる。防波堤から下へ降りるなら、十四―三の電柱の脇を抜ける。雨が降った後は排水が悪い。右側のコンクリートが沈んで、左に寄らねえと足を取られる。下まで行けば、手すりの根元が錆びてる。あそこに体重をかけたら折れる」

言葉が、急に増えた。

質問に答えているというより、現場の図面を口から吐き出しているようだった。久保田の指が端末の上を動く。

「具体的ですね」

彼女が言った。

「何がだ」

「見ていない場所について話しているのに、危険箇所だけは正確です。十四―三の脇、排水の沈み、手すりの腐食。作業員なら知っていても不思議ではありません。でも、証言では防波堤側を見ていないと言っている」

「見てねえ。行ったことがあるだけだ」

「その夜に?」

「昔の話だ」

「夜の話を聞いています」

「夜に何度も行った。仕事だ」

「仕事で?」

「港の現場は昼間だけ動いてるんじゃねえ」

久保田は画面を見たまま、声の調子を変えなかった。

「当夜、仙波さんは何の仕事で裏道へ行ったんですか」

仙波の喉が動いた。

答える前に、彼は唇を舐めた。乾いているわけではない。口の中に残った言葉を、飲み込むための仕草に見えた。

「見回りだ」

「誰に頼まれて」

「俺が現場監督だったからだ」

「夜間作業の予定はありませんでした」

「予定がなくても見回りはする」

「誰かが無断で作業していないか、確認するためですか」

「そうだ」

「では、何かを運んでいる音を聞いたとき、止めなかったんですか」

「音を聞いただけだ。誰が何をやってるか、いちいち見て回れるか」

「現場監督なのに?」

仙波の顔から、わずかに笑いが消えた。

「現場監督ってのは、何でも見張る役じゃねえ。事故が起きたときに、どこを止めて、どこを動かすか決める役だ」

「その夜、止めるべきものがあった」

「久保田」

私は彼女の名を呼んだ。

制止するためではなかった。仙波の反応を見たかった。

彼女は頷き、質問を重ねなかった。仙波の沈黙が、まだ崩れる途中にあると分かっている。

「事故は、起きたんですか」

私が聞いた。

「起きてねえ」

「人が消えた」

「事故じゃねえ」

「では、何だ」

仙波は顔を背けた。高窓の向こうで、海霧が白く揺れている。作業場の中へ、遠い波の音が入り込んできた。

「言葉を選べ」

「お前が選んでいる間に、三十年経った」

「三十年経ったから、何でも言えると思うな。言葉にしたものは戻せねえ。現場で一度口に出したら、誰かが切られる。作業員か、監督か、上の連中か。最後に残るのは、切りやすい奴だけだ」

「澪を切ったのか」

仙波の手が工具箱から離れた。

久保田がこちらを見た。私は仙波の顔ではなく、手を見ていた。大きな指がゆっくり握られ、爪の際に黒い汚れが残っている。

「相沢の嬢ちゃんは、現場の人間じゃねえ」

「だから切られなかった?」

「逆だ。現場の人間じゃねえから、守る順番の外に置かれた」

「誰がそうした」

「お前ら警察が、先に置いたんだろうが」

声が荒くなった。

それでも仙波は怒鳴らなかった。怒鳴りそうになると、語尾だけを強く切る。感情を吐き出す代わりに、言葉の最後を叩きつけて終わらせる。

「俺たちは、何も見てねえ。お前らは、何も分からねえ。そういう形にした。だから、全員が助かった」

「全員ではない」

「相沢は助からなかった」

仙波の喉が、また大きく動いた。

そのとき、私は確信した。男は澪の死を知っている。少なくとも、失踪として処理されたあとも、彼女が戻らない理由を知っている。

だが、そこへ飛びつくのは早かった。

久保田の言葉が、手帳の中で蘇る。

並べる。決めつけない。

「澪は、どこへ行った」

仙波は答えなかった。

「防波堤の下か」

「知らねえ」

「白波アパートの裏道か」

「知らねえ」

「誰かに追われていた」

「知らねえ」

「誰かが追っていた」

「知らねえ」

同じ言葉を繰り返すたび、仙波の声が少しずつ低くなった。

私は質問を止めた。

作業場の中に、ラジオの雑音だけが残る。仙波は沈黙に耐えるためか、工具箱の上に置かれたメジャーを手に取った。錆びた金属の表面を親指で擦り、巻尺を少しだけ引き出す。目盛りを読むでもなく、伸びた金属の震えを見ている。

「片桐さん」

久保田が静かに言った。

「質問を変えます」

仙波が彼女へ顔を向けた。

「澪さんではなく、音について聞かせてください。何を運んだかは、まだ聞きません。音がどこから来て、どちらへ向かったかだけ」

「同じだろうが」

「同じではありません。人の記憶は、名前が出た途端に守りに入ります。音なら、まだ現場の話として話せる」

仙波は鼻で笑った。

「若いのに、嫌なことを言う」

「仕事です」

「仕事なら、もっと綺麗に聞け」

「綺麗に聞くと、綺麗な答えしか返ってきません」

久保田は端末を閉じた。

「私は、仙波さんが全部話すとは思っていません。話せないものがあることも分かります。ただ、話せないものの周りに、話せる事実はあるはずです。音の方向、足音の数、地面の状態、時間。そこまでなら、誰かを売らずに話せる」

仙波は彼女を見たまま黙っていた。

「紙の上には、音は残りません」

久保田が続けた。

「だから、残らなかったことにされやすい。でも、聞いた人の身体には残る。仙波さんは、さっきから質問されるたびに、裏道の方を見ています」

仙波の目が、高窓へ動いた。

「見てねえ」

「見ています。防波堤の話をすると、右肩が下がる。搬入路の話をすると、左足に重心が移る。昔の事故の話をすると、工具箱を二度叩く。でも、白波アパートの裏道を話すときだけ、出口側へ身体が向く」

仙波の顔が硬くなった。

「鑑識ってのは、人間の身体まで調べるのか」

「身体そのものではなく、記録に残らない変化を見ます」

「そんなもん、証拠にならねえ」

「そうです。だから、証拠になるまで確認します」

久保田の声は低かった。強くはない。だが、引く場所を自分で決めている声だった。

私は彼女の横顔を見た。

若い鑑識官は、私の記憶を慰めるためにここにいるのではない。仙波を追い詰めるためだけでもない。今この場で発生しているすべてのずれを、逃がさないためにいる。

そのことが、ありがたかった。

「音は、海側から来た」

仙波が言った。

声が、少し掠れていた。

「何の音だ」

「最初は、鉄が擦れる音だった。金属じゃねえ。濡れた木を引きずるような音だ」

「一度だけか」

「二度だ」

「同じ音が?」

「一度目は短い。二度目は長かった」

「方向は」

「海側から、裏道へ上がってきた」

私は手帳に書いた。

濡れた木を引きずる音。二度。海側から裏道へ。

仙波は私の手元を見た。

「書くな」

「書く」

「それが何の音か分からねえだろう」

「分からないから書く」

「分からねえものを書けば、後から誰かが意味をつける」

「意味をつけるのは、俺だけじゃない」

「だったら余計に書くな」

声が荒くなった。

だが、仙波は逃げなかった。工具箱の横に立ったまま、両手を握っている。怒っているように見えて、その実、もっと別のものを押さえ込んでいる。

「お前は、何を怖がっている」

私が聞くと、仙波は初めて明らかに動揺した。

「怖がってねえ」

「怖がっている人間は、そう言う」

「刑事の真似事か」

「昔から刑事だ」

「だったら分かるだろう。怖いのは、今さら俺が何を言っても、死んだ奴には届かねえことだ」

「生きている奴には届く」

「生きている奴は、届いた言葉を自分の都合で使う」

「お前もそうしてきた」

仙波の口元が歪んだ。

「そうだ。俺も使った。黙ることで、自分に都合のいい形にした。俺は現場を守った。仲間を守った。仕事を守った。そう言い続けりゃ、何か一つくらい本当に守った気になれる」

作業場の空気が、機械油より重くなった。

「だがな、片桐。守ったものの下には、守らなかったものが積もる。三十年も積もれば、足場になる。俺たちはその上を歩いてきた。誰かが落ちた場所を、見ないふりしてな」

私は何も言わなかった。

仙波の言葉は、澪のためだけではなかった。彼自身のためでもある。正しさを語るためではなく、長年使ってきた自己弁護の形を、自分の手で壊そうとしている。

「二度目の音のあと、誰かの足音を聞いた」

仙波が言った。

「二つじゃねえ。三つだ」

私は顔を上げた。

「澪の話では二つだ」

「だから、あの嬢ちゃんの聞いた音が全部だとは限らねえ」

「お前は三つ聞いたのか」

「ああ」

「どこから、どこへ」

「海側に一つ。裏道に二つ。海側の足音が近づいて、裏道の二つが離れた」

「三人いた」

「足音だけならな」

「一人が澪だった可能性は」

仙波は黙った。

沈黙が、今度は長かった。久保田は端末を開かず、仙波の顔を見ている。

「分からねえ」

「見ていないからか」

「見なかったからだ」

その言葉に、私は胸を突かれた。

仙波は見ていないのではない。見なかった。私と同じ言葉を、別の重さで口にした。

「何を見なかった」

「海側の斜面に、影があった。人か、資材かは分からねえ。だが、裏道から上がってきた二人は、手ぶらじゃなかった」

「何を持っていた」

「長いものだ」

「木材か」

「濡れていた」

「濡れた木か」

「だから、音がそう聞こえた」

「人間を引きずる音ではないのか」

仙波の唇が止まった。

私は答えを急がなかった。

久保田の指先が、利き手でない方の親指を押さえている。緊張しているのだろう。だが、口を挟まない。仙波が言葉を出すまで待っている。

「人間は、木より重い」

仙波が言った。

「だが、濡れた木より静かに運べる人間もいる」

私は手帳を閉じた。

「澪を見たのか」

「見てねえ」

「影を見た」

「見た」

「それが澪だった可能性は」

「ある」

「誰かが運んでいた可能性は」

「ある」

「事故だった可能性は」

仙波は、メジャーを手から落とした。

金属の塊が床へ当たり、乾いた音を立てる。

「事故じゃねえ」

その言葉は、これまでで初めて、迷いなく発せられた。

作業場のラジオが、突然ひどく大きな雑音を吐いた。電波の向こうで誰かが叫んだようにも聞こえたが、すぐに波の音へ戻った。

「なぜそう言える」

私は聞いた。

「事故なら、あの後に人間は走らねえ」

「走ったのか」

「裏道から二人が離れた。海側から来た一人が、しばらく動かなかった。それから、別の方へ行った」

「どこへ」

仙波は作業場の床を見た。

「白波アパートだ」

久保田の手が止まった。

「海側から来た人間が、白波アパートへ向かったんですか」

「裏道を上がって、アパートの裏へ入った」

「誰だったんですか」

「見てねえ」

「では、なぜ分かるんですか」

「足音だ。足場が違う。海側から上がってきた人間は、靴底に砂がついていた。アパートの裏へ入るところで、音が変わった。コンクリートを踏む音になった」

「そこまで聞き分けられるなら、顔も見えたのでは」

「見なかった」

仙波の声が掠れた。

「見れば、言わなきゃならなくなる。言えば、俺も仲間も終わる。だから俺は、工具箱の陰にしゃがんで、靴音だけ聞いた」

「澪は」

「分からねえ」

「どこにいた」

「分からねえ」

「生きていたのか」

「分からねえ」

私は机の上の工具箱へ目を向けた。

その陰なら、作業場の入口から外を見られる。身を低くすれば、裏道の一部も、防波堤へ下りる斜面も視界に入ったはずだ。仙波は何も見ていないと言いながら、見える場所にいた。

見た。

そして、見なかった。

「お前は、誰かに命じられたのか」

仙波は答えなかった。

「口を閉じろと」

なおも答えない。

「町のためか。造船所のためか。自分のためか」

「全部だ」

仙波がようやく言った。

「全部守るつもりで、全部を沈めた」

その言葉のあと、仙波は椅子へ腰を下ろした。大きな身体が、古い木を軋ませる。急に老けて見えた。現場の圧をまとった男ではなく、長いあいだ同じ場所に立ち続け、足元の地面ごと沈みかけている人間の姿だった。

私は手帳を閉じたまま、彼に聞いた。

「命じたのは誰だ」

仙波は顔を上げなかった。

「名前を言えば、終わる」

「終わらせるために聞いている」

「お前が終わらせたいのは事件か、自分か」

問いが、逆向きに返ってきた。

私はすぐには答えられなかった。

防波堤の下。白波アパートの裏道。二つの足音と、長いものを引きずる音。そこへ、私が見逃した聴取メモと、消えたネガと、木下の沈黙が重なっている。

真相へ近づいている。

同時に、自分の判断の跡へ近づいている。

「どちらもだ」

私は言った。

「事件を終わらせる。俺が終わらせたことも、終わらせなかったことも、全部含めて」

仙波はゆっくり顔を上げた。

「正直になったつもりか」

「つもりじゃない」

「刑事が、自分を裁くために動くと、証拠が歪む」

「だから久保田を連れてきた」

仙波の目が、久保田へ向いた。

久保田は端末を閉じたまま、まっすぐ仙波を見返していた。

「私は、片桐さんを信用していません」

彼女は言った。

「正確には、片桐さんの記憶を信用していません。記憶は誰のものでも、時間の中で形を変えるからです。でも、片桐さんが記録を隠さずに出そうとしていることは見ています。だから、私が見たものは私の記録として残します。仙波さんの証言も、片桐さんの過去も、同じように」

仙波は鼻を鳴らした。

「若いのに、冷てえな」

「冷たくしないと、誰かの痛みを証拠にしてしまいます」

「証拠にしなきゃ、痛みはただの痛みだ」

「だから、急がずに形を取ります」

仙波はしばらく彼女を見たあと、視線を落とした。

「お前ら、似たような連中だな」

「どこが」

「見たものを、見たままにしておけねえ」

私は立ち上がった。

「もう一つだけ聞く」

「まだあるのか」

「ある。白波アパートへ入った人間は、出てきたか」

仙波の顔から、血の気が引いたように見えた。

彼は答えなかった。

作業場の外で、風が金属板を叩いている。三十年前の夜も、同じような風が吹いていたのだろう。音は建物の隙間を抜け、隠されたものの周りを何度も回る。

「出てきたか」

私はもう一度聞いた。

仙波は、喉の奥で何かを鳴らした。

「一人だけだ」

「誰が」

「影山だ」

名前が、油の匂いの中へ落ちた。

影山義弘。町の支援活動に顔を出し、再開発の式典では誰よりも丁寧に頭を下げる男。穏やかな声で人の怒りをほどき、過去を町の未来へ薄めていく男。

私はその名を手帳へ書いた。

仙波はそれを見て、苦く笑った。

「書くのか」

「書く」

「影山が出てきたあと、何かを持っていた」

「何を」

「分からねえ」

「見たのか」

「見た」

「では、何を持っていた」

仙波は唇を舐めた。

「灰色の紙だ」

作業場の中で、ラジオの雑音が途切れた。

「紙?」

「ああ。濡れて、角が黒くなっていた。影山はそれを丸めて、作業着の内側へ入れた」

「三十年前に、官製はがきがあったのか」

「はがきじゃねえ。大きさまでは分からん。ただ、灰色だった」

私は手帳の中のはがきを思い出した。ざらついた紙。二行の文字。見つけさせるために選ばれた、逃げ場のない形式。

「それを、なぜ今まで黙っていた」

「忘れたふりをしていた」

「忘れていない」

「だから怖いんだ」

仙波は私を見た。

「怖いのは、影山じゃねえ。あいつが三十年経っても、同じ顔で町を歩いていることだ。俺たちは老いた。町も変わった。だが、あいつだけは、昔の夜を自分の中で正しいままにしている」

「何が正しい」

「澪を消したことだ」

その言葉は、低く、乾いていた。

私は仙波の喉元を見た。そこに、飲み込まれた三十年が詰まっているように見えた。

「事故じゃないと言ったな」

「ああ」

「影山が、澪を追ったのか」

「俺は見てねえ」

「だが、白波アパートから出てきたのは影山だけだった」

「そうだ」

「他の二人は」

仙波は答えなかった。

答えないことで、すでに何かを語っていた。

「お前も、その場にいた」

「いた」

「何もしなかった」

「何もできなかった」

「違う。しなかった」

仙波の拳が、膝の上で固まった。

「そうだ。しなかった。俺は、何もしなかった。お前も、何もしなかった。木下も、見て見ぬふりをした。真田は、後から来て、何もなかった形を作った。影山は、それを使った」

名前が、作業場の中で一つずつ重なった。

まだ真相ではない。

だが、沈黙していた人間の輪郭が、初めて同じ場所へ集まった。

私は手帳を開いた。

影山義弘。  三十年前の夜、白波アパートから出た。  灰色の紙を所持していた。  仙波証言。ただし、証言者は当時見ていないと主張。

書き終えたところで、仙波が言った。

「片桐」

「何だ」

「はがきを出したのは、澪じゃねえ」

「分かっている」

「だが、澪の字を使える奴は、あの店にいた」

私は顔を上げた。

「誰だ」

仙波は答えなかった。

久保田が、初めて強く息を吸った。

仙波の喉が上下する。言葉はそこまで来ている。だが、最後の一線で止まっている。

「誰だ」

私はもう一度聞いた。

仙波は目を閉じた。

「木下だ」

その名が、作業場の油臭い空気を裂いた。

私はすぐには信じなかった。信じたくないのではない。証言を、今度こそ一つの結論へ急いで押し込めたくなかった。

木下美咲。サイレントのカウンターで、澪のカップを拭いていた女。足音を聞きながら、三十年黙っていた女。

彼女が澪の筆跡を使った。

それが何を意味するのか、まだ分からない。

ただ、灰色のはがきが私の机へ届いた日から、沈黙は少しずつ人の口を離れ始めていた。

仙波は立ち上がった。

「帰れ」

「話は終わっていない」

「俺の喉は、もう終わりだ」

「まだ一人分しか聞いていない」

「一人分で十分だ。あとは、お前が聞きに行け」

「木下か」

「ああ」

「影山か」

仙波は返事をしなかった。

それが答えだった。

作業場の外へ出ると、風がさらに強くなっていた。港の空は夕方の色を失い、海霧が岸壁を低く這っている。機械油の匂いが背中から離れ、代わりに潮の匂いが戻ってきた。

久保田は隣で端末を閉じた。

「記録します」

「何を」

「仙波さんの証言。事実と推測を分けて。影山さんの名前も、木下さんの名前も、証言者の推測として」

「そうしてくれ」

「片桐さん」

「何だ」

「木下さんが、はがきを出したとは限りません」

「分かっている」

「でも、仙波さんはそう言った」

「ああ」

「片桐さんは、すぐに木下さんを疑う顔をしています」

私は足を止めた。

海霧の向こうで、古い防波堤の柵が黒く浮かんでいる。濡れたコンクリートが薄い光を返し、足元には小さな石がいくつも転がっていた。

「俺は、疑うために聞いている」

「疑うことと、決めつけることは違います」

「知っている」

「なら、手帳に書いてください」

久保田の声は、責めるほど強くなかった。

私は手帳を開いた。

先ほどの記録の下に、行を一つ加える。

木下美咲が差出人とは限らない。  仙波の推測。確認が必要。

書いてから、手帳を閉じた。

「書きました」

「はい」

「満足か」

「少しだけ」

久保田は前を向いた。

港の風が、私たちの間を抜けていく。仙波の喉に溜まっていた言葉は、すべて出たわけではない。むしろ、名前が一つ増えただけで、空白は深くなった。

それでも、音は一行になった。

海側から来た一人。  裏道を離れた二人。  白波アパートから出た影山。  濡れた灰色の紙。

私は歩きながら、手帳の角を親指でなぞった。

仙波が何を怖がっているのか、ようやく分かった。

彼は真相を語ることではなく、自分が真相の一部だったと認めることを怖がっていた。

そして私は、その怖さを知っている。

見なかった。

書かなかった。

止めなかった。

それでも、三十年後に聞く側へ立っている。

港の風が、薄い刃のように頬を撫でた。私は襟を立てたが、冷たさは防げなかった。

防げないものを、防ごうとしてはいけない。

そう思いながら、私はサイレントの方角へ歩き出した。

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仙波の喉 - 沈黙の一葉 - 誰でも作家life