5話 サイレントの伝票

港の裏通りに面した喫茶店「サイレント」は、看板の灯りをもう何年も消したままだった。

閉店の札は木製の枠から外れ、ガラス戸の隙間に立てかけられているだけだった。扉には真鍮の鈴が付いているが、蝶番の油が切れているのか、久保田が押しても軋むだけで音は立たなかった。ガラスは内側から潮の水分を吸って白く曇り、外の景色を淡く滲ませている。

店内に踏み入ると、冷えたコーヒーの匂いが鼻の奥に張りついた。古紙の匂いも混じっている。伝票を束ねたまま何十年も置かれた紙は、乾いた木の匂いに似た、静かな腐敗の気配を漂わせていた。

木下美咲は、カウンターの向こうに立っていた。

私の顔を見た瞬間、彼女の視線が一度、床の方へ落ちた。それは驚きの表情ではなかった。もっと前から、この訪問を待っていたような、諦めに似た静けさだった。

「片桐さん」

美咲は名前を呼び、それきり黒い布巾を手に取った。カウンターの上で、すでに整っていた布巾の折り目を、もう一度きっちりと折り直す。灰皿の位置を、指先でわずかにずらし、また元へ戻す。何かをする前に、いつも手を動かさなければ言葉が出てこない人間の癖だった。

「三十年前のことで、いくつか伺いたい」

私はそれだけ言った。長い説明は必要ないと分かっていた。美咲はもう、私が何のために来たかを知っている。

彼女は布巾を置き、カウンターの奥へ姿を消した。しばらくして戻ってきたとき、その手には古い紙の束があった。糸で綴じられた伝票の綴りで、表紙には店の名前が薄い墨で書かれている。

「持ってきてもらえるとは思わなかった」

「片桐さんが来るなら、いつか要るものだと思っていましたから」

美咲はそう言って、伝票を私と久保田の前へ置いた。カウンターの木目に、長年の湯気とコーヒーの染みが薄く残っている。

久保田は手袋をはめ直し、伝票の綴りを開いた。紙の端を撫でるように触れ、綴じ方の違いに指先を止める。

「片桐さん。これ、途中で綴じ直されています」

「どこだ」

「十一月の分です。他の月は麻紐で綴じてありますが、この月だけ、少し太い糸に替わっています」

久保田は伝票を一枚ずつめくり、深夜帯の記録を探した。手書きの数字と略記が並ぶ紙面を、目で追いながら、時折唇をわずかに動かして音読する。

「二十時以降の記録に、造船の略記があります。何度も出てきます」

彼女が示したのは、店の符号だった。常連客を数字や略記で管理していたのだろう。仙波俊介の名は、正確な字ではなく、擦れた鉛筆の跡として残っていた。何度も書かれ、何度も消されかけたような跡だった。

「複数回、来店しています。同じ夜に」

「同じ夜、というのは」

私が問うと、久保田は日付の欄を指した。

十一月二十日。

澪が消えた夜だった。

美咲は何も言わなかった。カウンターの向こうで、湯気の立たないカップを手に取り、布で拭き始める。もう何十年も使っていないカップだろう。それでも、彼女の手はその表面を丁寧になぞっていた。

「木下さん」

久保田が声をかけた。

「この夜、造船所の方が何度も出入りしています。何かご記憶がありますか」

美咲の手が止まった。

拭く動作をやめたまま、しばらくカップの縁を見つめている。答えるまでの沈黙が長かった。責めるための沈黙ではなく、言葉を選び抜くための沈黙だった。

「その夜は、いつもと違いました」

ようやく口を開いた美咲の声は低く、湿った紙のように、こちらへ届く前に一度湿って重くなった気がした。

「造船所の方々が、何度も出たり入ったりしていました。普段は一度来たら長く座るのに、その夜だけは違った。何かを確かめに来て、また出ていく。そんな感じでした」

「何を確かめていたか、分かるか」

「分かりません。ただ、皆さん、いつもより声が低かった」

美咲はカップを置き、私を見た。

「片桐さん。あなたは、あの子が紙ナプキンに何か書く癖があったこと、知っていましたか」

喉の奥が、わずかに詰まった。

「知っている」

「本当に?」

美咲の目は、静かだが逃げ場のない問いを含んでいた。

「あの子は、何か気になることがあると、紙ナプキンの端に短く書くんです。誰にも見せるためじゃない。自分の中に留めておくためだけに。書き終わったら、すぐに袖口に隠すの。誰にも見られないように」

私は答えなかった。

答えられなかった。

三十年前、澪が聴取のとき、机の下で袖口へ何かを押し込むような手つきをしていたのを、私は見ていた。見ていたのに、それを聴取メモに書かなかった。子どもが緊張して手を動かしているだけだと、自分に言い聞かせた。

私の右手が、無意識に膝の上で握られていた。

「その癖を、私は聴取のときに見た」

声を出すのに、思っていたより力が要った。

「見たのに、記録しなかった。緊張の仕草だと決めて、それ以上見なかった」

美咲は驚かなかった。ただ、少しだけ目を細めた。

「片桐さんが、それを覚えていたことに驚きます」

「覚えていたことに、意味はない。書かなかったことの方が、事実として残った」

「事実は、いつも書かれた方だけが残るものですか」

美咲の問いは、責めるための言葉ではなかった。むしろ、自分自身に向けているようにも聞こえた。

「私も同じです。あの夜、店の外で足音を聞きました。二つ。海側からと、裏道から。でも、それを誰にも話しませんでした。話せば、何かが変わってしまう気がして」

久保田がメモを取る手を止めた。

「木下さん。それは、当時の聴取で話していますか」

「話していません」

「今、初めて言うんですか」

「今、初めて言います」

店の奥、古いラジオが低く雑音を吐いた。周波数が合っていないのか、波のような白い音が断続的に流れている。雪混じりの潮騒に似た音だった。美咲はその音を止めなかった。長い年月、この音とともに沈黙を守ってきたのだろう。

「木下さん」

私は伝票の端に残る、擦れた鉛筆の跡を見つめたまま言った。

「あんたが黙っていたのは、誰かを守るためか。それとも、自分を守るためか」

美咲は少しの間、答えなかった。

「分かりません。三十年経っても、まだ分からないんです。守りたかったのは、あの子だったのか、この店だったのか、それとも自分自身だったのか」

彼女の声は震えていなかった。だが、その平静さこそが、長い年月をかけて作り上げた壁のように見えた。

「片桐さん。あなたも、分からないまま来たんでしょう」

私は伝票の紙を見た。

澪の不在が、いまも店の空気の中に座っているような気がした。空いた席、湯気の立たないカップ、擦れた鉛筆の跡。誰も座っていない椅子に、まだ誰かの温度が残っているようだった。

「木下さん、この伝票を借りていいか」

「持っていってください。もう、私が持っていても、何も守れませんから」

美咲はそう言って、カウンターの内側へ視線を落とした。灰皿の角度を、もう一度だけ、わずかに直した。

ラジオの雑音は、まだ続いていた。潮騒に似た、答えのない白い音のまま。

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サイレントの伝票 - 沈黙の一葉 - 誰でも作家life