第4話 電柱番号14-3

午後三時を過ぎると、霜見市港湾署の窓は外の光をほとんど返さなくなった。
曇天が低く垂れこめ、湾の向こうにあるはずの造船所跡は、海霧の白さに輪郭を削られている。窓際の暖房は、音だけを立てていた。乾いた風が吹き出しているのに、足元の冷えは抜けない。
私は資料棚から古い街区図を取り出し、久保田遥の机へ運んだ。
図面を広げる前に、机の上に置かれていた付箋を右端へ揃えた。久保田は何も言わなかった。私が物の位置を直すことを、もう注意しなくなっている。代わりに、彼女は鑑識用の白い手袋を机の隅へ置き、赤鉛筆と定規を図面の上辺に沿わせた。
紙は黄ばんでいた。
それでも折り目だけは硬い。何度も畳まれ、何度も開かれた紙の折り目は、時間の中でそこだけ筋肉のように残る。
私は欄外へ時刻と外気温を書き込んだ。
十一月二十一日、十五時十二分。外気温四度。
「気温まで記録するんですね」
久保田が言った。
「地図を見る場所で、紙の状態が変わる」
「資料の保存環境なら記録します。でも、ここは署内です」
「今日は寒い」
「それは分かります」
「分かることでも書く」
久保田は赤鉛筆を手に取った。
「では、書いた理由も聞かないことにします」
「助かる」
「聞いても答えないでしょう」
彼女は図面の右下に、現在の区画図を重ねた。再開発後の街路は、古い街区図の線を太い道路で上書きしている。白波アパートがあった場所には、いま駐車場の仮囲いがあり、その向こうに完成予想図の看板が立っていた。
看板の中では、海沿いの歩道に若い木が並び、ガラス張りの施設が空を明るく映している。人影はどれも小さく、過去を知らない顔をしていた。
「ここです」
私は図面の一点を指で叩いた。
電柱番号十四―三。
古い地図では、白波アパートの北東角から細い裏道を挟んだ場所に記されている。いまの区画図では、電柱そのものが消えていた。撤去されたのか、番号だけが別の設備へ引き継がれたのかも分からない。
「十四―三の位置は、現在の駐車場の北端ですね」
久保田が赤鉛筆で囲んだ。
「正確には、駐車場と仮囲いの境目だ。昔はここに道があった」
「道というより、通路に近いですね。幅が二メートルもない」
「造船所の作業員が使っていた。防波堤の下へ出る近道だった」
「白波アパートの住民も?」
「使った者はいる。だが、記録には残っていない」
久保田は鉛筆の先を止めた。
「片桐さんは、なぜ覚えているんですか」
「何度も歩いた」
「捜索で?」
「捜索の後も」
「事件が終わった後に、ですか」
私は答える前に、図面の折り目を指でなぞった。
事件が終わった後も、私は何度か白波アパートへ行った。行った理由は、捜査のためだったのか、そうでなかったのか、いまでははっきりしない。防波堤から戻るとき、私はいつも十四―三の電柱の前で足を止めた。番号を見て、地図に書き写そうとして、やめた。
意味のない数字だと思った。
意味を与えれば、澪の失踪がただの失踪ではなくなる気がした。
「地図に残っていたからだ」
「覚えていた理由ではなく、見逃さなかった理由を聞いています」
「同じだ」
「違います」
久保田の声は柔らかかったが、鉛筆の先は動かなかった。
「数字は誰にでも見えます。けれど、誰もが覚えているわけではない。片桐さんは覚えていたのに、当時の記録には書かなかった。いま、はがきが届いたことで、書く必要が生まれた。それなら、十四―三は場所の手がかりであると同時に、片桐さんが見なかったものの一つでもあるんじゃないですか」
私は彼女を見た。
久保田は視線を上げなかった。紙面の小さな数字を見ている。
「見なかったわけではない」
「見たけれど、記録しなかった」
「……そうだ」
「その二つは、同じではありませんか」
「記録しなかったから、見なかったことになった」
言葉にした途端、喉の奥に古い金属の味が広がった。
私は手帳を開き、十四―三と書いた。数字の間隔が、いつもより狭くなった。
久保田は、古い地図の下から欠番ネガの複製を取り出した。ライトボックスの上に透明なフィルムを置き、照明を点ける。
粒子の荒れた写真だった。
夜の防波堤が斜めに写り、下部に濡れた岩場がある。右端には、途中で切れた柵の影。その奥に、白く滲んだものが横たわっていた。人影なのか、資材袋なのか、写真だけでは判別できない。
私は写真へ顔を近づけた。
「この影です」
久保田が赤鉛筆の先で示した。
「撮影地点は、当時の防波堤上部。光源は南側の街灯です。影の伸び方から、撮影時刻は二十一時前後と推定できます」
「ネガの管理記録では?」
「撮影時刻は二十時三十分。記録を書いた人間の推定です」
「推定した理由は」
「街灯の点灯時刻と、当時の潮位表。ですが、影の角度が合いません」
彼女はフィルムの横に古い地図を置いた。
「こちらが正しいなら、撮影者は防波堤の正面ではなく、十四―三の裏道側から海を見ていた可能性があります」
「防波堤の上から撮った写真ではない?」
「少なくとも、光の入り方は一致しません。地図上の電柱位置を基準にすると、撮影者はもっと北側にいたはずです」
私は写真の端に目を落とした。
そこには、細い白い線が写っている。防波堤の下へ降りる手すりの一部に見えた。三十年前、そこには古い照明があった。電柱十四―三から伸びた配線が、裏道の先の作業灯へつながっていた。
夜の裏道は、完全な暗闇ではなかった。
だから、澪は足音を聞き分けられたのかもしれない。
海側から来た足音と、アパートの裏から来た足音。二つの音が、別々の方向から近づいていたなら。
「片桐さん」
久保田が言った。
「はがきの消印は、昨日の十六時二分です」
「覚えている」
「投函場所は霜見中央。通常なら、署へ届くまで一時間ほど。ですが、昨日の夕方は集配車の経路が変更されています」
「何かあったのか」
「再開発区域の道路工事です。集配車は港側を回らず、旧市街を通っている。はがきが投函されたのは、少なくとも港の近くではありません」
「それが、どうした」
「書いた人間が港の近くに住んでいるとは限らないということです。署内の郵便受けへ直接入れた。消印は別の場所で押された。投函者は、署の構造と、片桐さんの机の位置を知っている」
私は灰色の官製はがきを保存袋越しに見た。
差出人はない。裏面には、澪の筆跡に似た細い文字が二行だけ残っている。
まだ終わっていない。 防波堤の下を見てください。
はがきは、封筒よりも逃げ場がない。封を切る必要もなく、誰が触れたかを隠す余地も少ない。紙一枚を人目にさらしたまま送りつける。誰かに読ませるためではなく、見つけさせるための形式だ。
私はそのことを、最初から分かっていた。
分かっていて、見ないふりをしていた。
「脅しではない」
私は言った。
「脅しではないなら、何ですか」
「案内だ」
「誰からの?」
私は答えなかった。
久保田はライトボックスの照明を落とした。暗くなった机の上で、古い地図だけが白く浮いている。
「澪さん本人の筆跡だと思っているんですか」
「筆跡は似ている」
「似ているだけなら、本人と断定できません」
「断定するつもりはない」
「では、何を見ているんですか」
私は地図の裏道を見た。
「書き方だ」
「書き方?」
「澪は、紙の端から少し離して文字を書いた。余白を広く取る癖があった。人の視線から逃げるように、しかし紙の外へは出ないように書く。今回のはがきも同じだ」
「筆跡ではなく、配置を見ている」
「配置も含めて、その人間の手だ」
「でも、澪さんの書き方を知っている人間なら、真似できます」
「だから、本人だとは言っていない」
「片桐さんを知っている人間が、澪さんの筆跡を使っている可能性もあります」
久保田の声は淡々としていた。
「その場合、相手は片桐さんが覚えていることまで知っていることになります。防波堤の下、十四―三、白波アパートの裏道。全部を偶然並べたとは考えにくい」
「俺以外にも知っている」
「誰ですか」
私は返事を急がなかった。
仙波俊介。造船所の元現場監督。 木下美咲。サイレントの店主。 真田邦彦。再開発を進めた市議。 そして、三十年前の捜査に関わった警察官たち。
名前を並べれば、町の沈黙が人の形を取る。
私は手帳へ四人の名前を書きかけて、最初の二人だけで止めた。
「関係者は多い」
「多いほど、手がかりの価値は下がります」
「逆だ」
「逆?」
「多くの人間が知っていて、多くの人間が黙っているなら、場所の方が正確になる」
久保田はしばらく黙り、やがて赤鉛筆で裏道の線をなぞった。
「この道は、いまの駐車場の下です」
「ああ」
「取り壊しのとき、地盤改良をしています。古い路面は残っていない」
「地面が消えたから、道がなくなったとは限らない」
「痕跡が残っていると?」
「傾斜、排水溝、電柱の基礎。人間が作ったものは、別の形で次の建物を支える」
久保田は、現在の区画図を古地図に重ねた。二枚の紙がずれ、白波アパートの輪郭が現代の駐車場へ沈んでいく。
「この角度、合ってません」
彼女は十四―三から防波堤へ引いた線を、赤鉛筆で消した。
「古い地図の線と、再開発後の区画が三度ずれています。電柱の位置を基準にしても、駐車場の境界と合わない」

「地図が間違っている」
「そうかもしれません」
「あるいは、道が移された」
「道を?」
「再開発では、道を消すだけでは足りない。人の記憶が残る。だから、別の場所へ移したように見せる」
「道を移すのではなく、見える線を変える」
「そうだ」
「では、白波アパートの裏道は、いまの境界線とは違う場所にあった」
「十四―三を見れば分かる」
私は地図の一点を指した。
「電柱は動かせない。動かしたとしても、番号の記録が残る。十四―三が昔の位置にあったなら、裏道はこの線を通る」
赤鉛筆の線が、現在の駐車場を斜めに横切った。
その先は、仮囲いの向こうで途切れ、防波堤へ向かって伸びている。
久保田は手帳を開いた。
「防波堤の下まで、百二十六メートル」
「潮が引いていれば、歩いて三分」
「夜間なら?」
「足元を確かめながら五分」
「資材を運ぶなら?」
「二人で持てば、もっとかかる」
彼女の手が止まった。
「二人で?」
私は言い過ぎたことに気づいた。
「作業員が資材を運ぶ場合の話だ」
「仙波さんの証言では、裏道から資材を運ぶ音がした」
「そうだ」
「資材は一人で運べないものだった?」
「種類による」
「何を運んだ音だと思いますか」
私は写真の白い影を思い出した。長く、地面に沿い、途中でわずかに角度を変えている。人間の身体にも、木材にも見える。
「分からない」
「片桐さん」
「分からないものを、分かったようには言えない」
「では、分からないまま書きましょう」
久保田は端末に入力した。
「十四―三から防波堤下部へ続く旧裏道。欠番ネガの光源角度と一致する可能性。仙波証言の搬出音と動線上の関連あり。現段階では断定しない」
入力を終えると、彼女は画面を私へ向けた。
「これでいいですか」
「いい」
「片桐さんの手帳には、もっと短く書くんですか」
私は自分の手帳を見た。
そこには、すでにこう書いてあった。
投函者、土地勘あり。
その下に、書き足した一行がある。
書き足したくない記憶ほど、字が細くなる。
私はその文を見つめた。
「短く書く」
「それでも、残るものはありますか」
「残るように書く」
窓の外で、港の汽笛が鳴った。低い音が建物の壁を伝い、机の上のガラス板をかすかに震わせる。
私は手帳の余白へ、十四―三の位置を写した。数字の横に小さく、旧裏道、防波堤下部、と記す。
そして最後に、ためらいながら一行を加えた。
澪は、ここを見ていた。
書いたあとで、すぐに線を引きたくなった。
それは証拠ではない。私の記憶と推測が混じった、危うい言葉だ。だが消せば、三十年前と同じになる。判断に合わないものを、紙面から追い出すことになる。
「消さないんですか」
久保田が言った。
彼女は私の手元を見ていた。
「まだ、分からない」
「分からないものを残す?」
「分からないから残す」
久保田は小さく頷いた。
「その方が、私には信用できます」
その言葉に、胸の奥のどこかがわずかに緩んだ。
信用される資格があるとは思わなかった。ただ、疑われたままでも、記録を続けることはできる。疑われることを避けるために、見なかったことへ戻る必要はない。
私は古地図を畳んだ。
紙の折り目は、以前より深くなったように見えた。何度開いても、同じ場所へ戻る折り目だった。
「外へ出る」
「現場へ?」
「十四―三を見る」
「立花課長には」
「連絡する」
「単独では行かないでください、と言われています」
「お前がいる」
「私も行く前提ですか」
「資料を広げたのは久保田だ」
「片桐さんが、見ろと言ったんです」
「なら、見届けろ」
久保田は一度だけ息を止め、それから保存袋を机の引き出しへしまった。
「分かりました。ただし、現場で見つけたものには触れないでください」
「俺を誰だと思っている」
「触る人だと思っています」
「昔は触った」
「今もです」
私は否定しなかった。
庁舎を出ると、風が顔へまともに当たった。海霧の水分が頬に細かな粒を残し、外套の襟へ冷たく入り込む。再開発区域へ向かう道路は新しく舗装されていたが、歩道の端には古いコンクリートの縁が残っていた。
完成予想図の看板が、風の中でわずかに揺れている。
明るい街路樹。広い歩道。海を眺めるベンチ。そこには、澪の名前も、白波アパートも、十四―三も描かれていない。
「きれいですね」
久保田が言った。
「そう見えるか」
「きれいにした場所は、きれいに見えるように作ります」
「同じことだ」
「違います。きれいにすることと、きれいに見せることは」
彼女は看板を見上げた。
「記録を整えることと、記録を消すことが同じではないのと同じです」
私は足を止めた。
仮囲いの向こうに、一本だけ古い電柱が残っていた。塗装は剥げ、根元のコンクリートが新しい地面に埋め込まれている。番号札は泥で汚れていたが、黒い数字の一部が見えた。
14―3。
私は手帳を取り出した。
久保田が先に白い手袋をはめ、電柱から一定の距離を取って写真を撮る。風が強く、彼女の髪が頬へ張りついた。それでも端末を下ろさない。
私は電柱の根元を見た。
コンクリートの縁に、古い道の幅だけが残っている。仮囲いの角から斜めに伸び、現在の駐車場の下へ消えていく細い傾斜。雨水がそこへ集まるよう、舗装の一部がわずかに沈んでいた。
道は、消えていなかった。
見える形を変えただけだった。
久保田が端末を下ろした。
「影の角度、ネガと合います」
「確かか」
「完全には。ですが、少なくとも防波堤上部から撮った写真ではありません。ここからなら、あの影が出ます」
私は十四―三の番号を見上げた。
数字は誰にでも見える。三十年前にも、誰かが見た。私も見た。だが、数字の先にある線をつながなかった。
「片桐さん」
「なんだ」
「この場所から、防波堤の下が見えます」
久保田が仮囲いの隙間を指した。
わずかな隙間から、古い海岸線が見える。防波堤は新しい柵に覆われていたが、下へ降りる斜面の形は残っている。潮が引けば、濡れた岩場へ続く細い足場が現れるだろう。
はがきは、そこを見ろと言っていた。
私は手帳に書いた。
電柱番号14―3。現存。 旧裏道の傾斜、残存。 欠番ネガの撮影位置と整合する可能性。
その下に、もう一行を書こうとして、止まった。
澪は、ここを見ていた。
今度は消さなかった。
風が仮囲いを鳴らしている。薄い金属板の振動が、遠くの波音と重なった。私は防波堤の下へ目を向けた。
まだ、何も見つかっていない。
それでも、三十年前に切り捨てた線が、足元から海へ向かって伸びている。
私は手帳を閉じた。
「戻ります」
久保田が私を見る。
「署へ?」
「仙波の記録をもう一度見る」
「そのあと、どうしますか」
私は電柱の番号を振り返った。
「現場へ行く」
海霧の向こうで、クレーンの影が長く伸びていた。古い町の上に、新しい建物の輪郭が重なっている。そのどちらも消えず、互いを薄く透かしていた。
私は歩き出した。
書き足したくない記憶ほど、字が細くなる。
だから今度は、細くても消さない。
← 横にスクロールして読み進められます
