3話 ひとつの証言

保管庫を出たあとも、私はすぐに鑑識室へ戻らなかった。

久保田は先に階段を上がっていった。保存袋に入れた聴取メモを胸の前で支え、紙の角がどこにも触れないように歩いている。私はその背中を見送り、踊り場の窓から港を見た。

窓は小さく、外の景色を四角く切り取っていた。海霧がまだ残っている。岸壁の向こうにあるはずの造船所跡は、白い空気の中で輪郭を失っていた。町は、見えないものを隠すのに霧を使う。三十年前も、同じだった。

私は手帳を開いた。

そこには、久保田が見つけた仙波の聴取メモが写してある。

《防波堤側は見ていない。裏道から資材を運ぶ音を聞いたとのこと。ただし、当夜の作業予定と一致せず》

紙面の上では、ただの一行だった。

だが、記憶の中では、仙波の声がまだ荒く響いていた。

――あの晩、裏道を通った奴はいる。だが、何を運んでいたかまでは知らねえ。

私は当時、その言葉を「聞きかじり」と分類した。

仙波は現場監督だった。造船所の作業員と毎日顔を合わせ、資材の搬入や夜間の見回りにも立ち会っていた。忙しさを理由に、聴取の途中で何度も時計を見た。手袋を外した指には油が染みつき、爪の間は黒かった。

私は、彼が捜査に協力したくないのだと思った。

いまになって考えると、違ったのかもしれない。

仙波は、協力したくなかったのではない。協力できる範囲を、自分で決めていた。

私は聴取ノートを抱え、地下の資料閲覧室へ戻った。机の上には、まだ別のファイルが積まれている。澪の家族、学校、喫茶店「サイレント」、造船所、白波アパート。三十年前の町が、紙の束になって横たわっていた。

私は一冊ずつ開いた。

澪の父親は、失踪当日の午後五時二十分に造船所を出ている。母親は自宅で待っていた。学校の担任は、澪が最近、帰宅時間を気にするようになったと話している。サイレントの木下美咲は、澪が午後六時四十分頃に店へ入り、ミルクを一杯飲んだと証言していた。

どの記録にも、同じ言葉があった。

「普段と変わらなかった」

それは、人が消えたあとに残される、便利な言葉だった。

普段と変わらない顔で店に入り、普段と変わらない飲み物を注文し、普段と変わらない声で礼を言う。だから、その夜に何かが起きるとは誰も思わなかった。あるいは、思わないことにした。

私は自分の報告書の控えを開いた。

《相沢澪は、午後七時頃、サイレントを出た後、単独で防波堤方向へ向かった可能性が高い》

根拠は、木下の証言と、近隣住民の曖昧な目撃だった。

だが、澪が店を出た時刻について、木下は正確な時間を言っていない。伝票の記録には午後六時四十分とある。そこから先の三十分を、私は勝手に一つの線にした。

午後七時頃。

単独で。

防波堤方向へ。

書かれている言葉は、どれも嘘ではなかった。ただ、書かれていない部分が多すぎた。

「片桐さん」

声がして、顔を上げた。

久保田が閲覧室の入口に立っていた。片手に端末、もう片方に薄い保存袋を持っている。頬に保管庫の冷気が残っているように見えた。

「仙波のメモ、画像処理にかけました」

「何か出たか」

「圧痕から文字らしいものが出ています。ただし、読めるほどではありません。『白波』の二文字目らしき線と、数字のようなものが一つ」

「数字は」

「一四か、一三。あるいは、ただの筆圧の重なりかもしれません」

私は手帳の表紙を指でなぞった。

「電柱番号十四の三」

「電柱番号を知っていたんですか」

「古い地図に残っている」

「このメモを書いた当時から?」

「地図はあった。番号を意味のあるものとして見たかどうかは別だ」

久保田は机の上の報告書を見た。私の名前が書かれた欄で、視線が止まった。

「片桐さんは、仙波の証言をどう判断したんですか」

「現場の人間が、作業音を別の音と取り違えた」

「その判断の根拠は」

「音は曖昧だ。夜の港なら、なおさらだ」

「でも、仙波は足場と潮位については正確だった」

「正確だったからこそ、音の話を切り分けた」

「切り分けたのは、仙波ですか。それとも片桐さんですか」

私は答えなかった。

久保田は、私が黙る時間を待った。立花なら、そこで別の質問を重ねる。彼女は重ねない。ただ、こちらが自分から言葉を出すまで、紙を見ている。

「仙波は、何を知っていたと思いますか」

「まだ、何も分からない」

「では、何が分からないのかを整理しましょう」

久保田は端末を机に置き、指で画面を操作した。

「仙波は、防波堤側を見ていないと言った。なのに、防波堤へ続く裏道の足場について具体的に説明している。さらに、当夜の作業予定にはない資材の搬出音を聞いた。ここまでは記録にあります」

「続けろ」

「その音が、澪さんの失踪より前か後か。誰が運んでいたのか。何を運んでいたのか。仙波さんが実際に見たのか、音だけを聞いたのか。それから、なぜその証言が本文ではなく欄外に追いやられたのか」

最後の問いだけ、彼女は私を見た。

「俺がそうした」

「理由は」

「具体性に欠けると思った」

「三十年前の片桐さんは、そう書いています。今の片桐さんは?」

「同じ判断をするとは限らない」

「その違いは、経験ですか。後悔ですか」

喉の奥に、冷たいものが触れた。

「どちらもだ」

久保田は端末の画面を消した。

「後悔は証拠になりません」

「知っている」

「でも、再確認を始める理由にはなる」

「理由は、はがきで十分だ」

「はがきは、片桐さんを動かす理由です。私たちが報告書に書けるのは、証言と記録のずれです」

「ずれを追えば、誰かに行き着く」

「誰かに行き着く前に、場所へ行き着くべきです」

彼女は古い地図を指した。

「仙波さんの証言、欠番の圧痕、電柱番号十四―三。全部が白波アパートの裏道に寄っています。人ではなく、まず動線を確認したいです」

「白波アパートはない」

「建物はなくても、地面の高さや道路の向きは残っています。電柱の位置が分かれば、当時の裏道と防波堤の距離も出せます」

「再開発で区画は変わった」

「変わったから、照合する価値があります。誰かが消した場所は、消した後の形にも癖が残るので」

久保田の言葉は淡々としていた。

それでも、私には師弟のようなものが生まれかけているのを感じた。私が長い時間をかけて抱えてきた違和感を、彼女は自分の手で記録へ移し替えようとしている。私の勘を信じているわけではない。信じる前に、確かめようとしている。

その距離が、ありがたかった。

「仙波に会う」

「今日ですか」

「あいつは、記憶を整理する時間を与えると、余計に忘れたふりがうまくなる」

「同行します」

「鑑識が聞き込みをするのか」

「証言の現場を見ます。資料だけでは、仙波さんが何を具体的に知っているのか分かりません」

「危ない場所かもしれない」

「危ないのは、資料の中だけにしておくことです」

私は久保田を見た。

若い顔だった。だが、声に迷いがない。紙を扱うときの丁寧さと同じものが、言葉の底にある。乱暴に真実へ触れない。その代わり、触れたものを放置もしない。

「仙波は、俺たちが来ると知れば口を閉じる」

「もう閉じています」

「さらに閉じる」

「では、閉じたままの口を観察します」

「器用なことを言う」

「片桐さんほどではありません」

「俺は器用じゃない」

「そう見えるように、長く不器用でいたんでしょう」

私は返事をしなかった。

久保田は、口元をわずかに緩めた。笑ったというより、私の沈黙を受け取っただけだった。

資料閲覧室を出ると、廊下の窓から薄い光が差していた。霧が少し晴れ、港のクレーンが骨組みを現している。遠くで金属を打つ音がした。造船所はなくなったのに、音だけはどこかに残っている。

私は歩きながら、三十年前の聴取を思い出した。

仙波は、椅子に深く座らなかった。背中を預けず、いつでも立ち上がれるように両足を床へ置いていた。質問されるたびに顎を引き、少し間を置いてから答えた。嘘をついていたときほど、工具の種類や資材の重量について細かく話した。

私はそれを、現場の男の癖だと思った。

だが、癖には理由がある。

核心を避けるために、細部を増やしていたのかもしれない。

当時の私は、その細部に安心した。具体的に話す人間は、隠し事が少ないと思った。数字や作業工程が並ぶと、証言が確かなものに見える。だが、正確さは真実と同じではない。正確に避けることもできる。

課長席の前を通りかかると、立花が顔を上げた。

「どこへ行くんです」

「仙波のところへ」

「正式な聞き取りではありませんね」

「まだな」

「片桐さん」

「記録は取る」

「記録を取るだけなら、行く必要はないでしょう」

「現場を見なければ取れない記録もある」

立花は眼鏡を直し、私と久保田を見比べた。

「仙波は、当時の関係者です。話を聞くなら、目的と範囲を明確にしてください。二人で行って、勝手に再捜査を始めたと受け取られれば、こちらで処理できません」

「処理する気か」

「処理という言葉が嫌いなのは知っています。ですが、署には現行の案件がある。三十年前の事件だけが、あなたの勤務時間を止めるわけではない」

「止まっているのは勤務時間じゃない」

「何がです」

私は答えず、立花の机の上にある進捗表へ目を落とした。整然と並んだ日付と欄。完了、継続、保留。事件はどれかの欄へ入れられ、紙面の上で静かになる。

「俺の中の時間だ」

立花はすぐに返さなかった。

それから、声を落として言った。

「それを、署の時間に重ねないでください」

「重ねるつもりはない」

「ですが、もう重なっています。あなたがはがきを受け取った時点で」

その言葉に、私は久保田を見た。

彼女は黙っていた。手帳を開き、時刻を書いている。私たちの会話まで記録しているのかもしれない。

「仙波の証言は、当時の記録から抜けているわけではありません」

立花が続けた。

「欄外に残っている。だから、完全に消されたとは言えない。そこを忘れないでください」

「残っていたから、見つかった」

「残っていたから、今のあなたが自分を責める材料にもなった」

「自分を責めるために見つけたわけじゃない」

「結果として、そうなっています」

立花の言葉は穏やかだったが、逃げ道を塞ぐように正確だった。

「片桐さん。あなたは、相沢さんのために動いているつもりでしょう。でも、同じくらい、自分の三十年を終わらせるために動いている。そこを混同すると、証言を都合よく読んでしまう」

「都合よく読んだのは、三十年前だ」

「だから、今度は違う読み方をしてください」

私は立花の顔を見た。

立花は組織のために線を引く。だが、その線のこちら側に、私を閉じ込めたいわけではない。証拠の形が整うまで、私自身を証拠にするなと言っている。

「報告は戻ってから出す」

「先に行き先を登録してください」

「分かった」

「それから、仙波を犯人扱いしないこと」

「扱っていない」

「あなたの黙り方は、周囲には断定に見える」

「黙ることまで管理するのか」

「管理職ですから」

立花はそう言ったが、ほんのわずかに疲れが滲んだ。

「ただし、戻ってきたら、聞いたことを全部話してください。都合のいい部分だけではなく」

「それはお前もだ」

「何がです」

「署が三十年前に、何を知っていて、何を知らないふりをしたのか。分かったことがあれば、全部出せ」

立花の手が、進捗表の端で止まった。

「それは、あなたが証拠を持ってきた場合に限ります」

「証拠がなければ、話さないか」

「話せません」

「記憶はあるのに」

「記憶だけでは、組織を動かせない」

「だから皆、記憶のまま黙った」

立花はしばらく私を見ていた。

「片桐さん。黙ることを正当化しているのは、あなたも同じです」

胸の奥で、何かが軋んだ。

言い返す言葉はあった。立花は若い。あの夜を知らない。署の古い空気を知らない。だが、その言葉を出せば、私はまた自分の責任を誰かへ押しつけることになる。

私は手帳を閉じた。

「行ってくる」

立花は止めなかった。

「日没前に戻ってください」

「仙波の作業場は港の裏だ」

「日没前です。潮が上がると、裏道の一部が滑る」

私は足を止めた。

立花は、資料を見ずに言った。

「そこまで覚えているんですか」

「現場の記録は、書類だけではないので」

その声に、私はわずかな違和感を覚えた。

立花もまた、何かを知っているのかもしれない。だが、いま聞くべきではなかった。聞けば、彼は手順の話へ戻る。私はまだ、仙波の証言の形を確かめていない。

久保田とともに庁舎を出る。

外気は思ったより冷たかった。霧の水分が頬に触れ、細かな粒になって残る。駐車場の水たまりには、雲の切れ間が鈍く映っていた。

「仙波さんに会う前に、確認したいことがあります」

久保田が言った。

「何だ」

「当時の聴取記録に、仙波さん以外の人が同じ音を聞いたという証言はありますか」

「まだ全部は見ていない」

「見ましょう」

「仙波に会う」

「その前に、比較対象が必要です」

「音の証言を集めるのか」

「いえ。誰も音を聞いていないなら、仙波さんの証言は目立つ。複数の人が聞いているなら、逆に音だけでは場所を特定できない。証言の価値は、単独かどうかでも変わります」

私は歩みを緩めた。

「お前は、いつもそうやって順番を決めるのか」

「順番を決めないと、見つけたものの意味を取り違えます」

「俺は順番を決めて、澪の言葉を短くした」

「だから今度は、順番を一緒に決めればいいんです」

久保田は私を見なかった。港の方向へ目を向けたまま、淡々と続けた。

「片桐さんが覚えていることを、私は否定しません。でも、それだけでは足りない。私が資料から見つけるものも、それだけでは足りない。二つを並べて、重なる部分と重ならない部分を分ける必要があります」

「重ならない部分は」

「捨てません。そこに、抜けたものがあるかもしれないからです」

風が吹いた。

岸壁の鉄柵が低く鳴り、遠くで船のエンジンが始動した。音は霧の中をゆっくり移動し、私たちの横を通り過ぎていった。

私は手帳に書いた。

久保田――証言を単独で見ない。

その下に、仙波の名前を記す。

仙波俊介。  防波堤側は見ていない。  裏道。  資材を運ぶ音。  当夜の作業予定と不一致。

最後の一行を書く前に、手が止まった。

澪の名が出る前に、別の何かを運んだ。

それはまだ、証拠ではない。私の記憶から引き出した推測にすぎない。

私はその言葉を、書かずに残した。

書かないことが、今度は逃げにならないように、余白の端へ小さく印をつける。

「何を書いたんですか」

久保田が尋ねた。

「まだ書けないことだ」

「書けないなら、書けないと記録してください」

「お前は厳しいな」

「紙は厳しくありません。書いたものを、そのまま残すだけです」

私は、かすかに息を吐いた。

笑ったのかどうか、自分でも分からなかった。

港の裏手へ向かう道は、再開発区域を抜けていた。新しい舗装の脇に、古いコンクリートの縁だけが残っている。白波アパートのあった場所には、完成予想図の看板が立っていた。明るい色の建物と、広い歩道と、植え込み。そこには、かつて誰かが暮らしていた痕跡も、夜に何かを運んだ裏道も描かれていない。

私は看板の角を見ながら歩いた。

整いすぎた景色は、欠番の管理票に似ていた。

抜いたあと、前後を詰め、何もなかったように見せる。

だが、地面は紙ほど従順ではない。古い道の傾斜が残り、電柱の位置が残り、潮の流れが残る。人間が消したつもりのものを、土地が別の形で抱え続けている。

やがて、古い作業場の屋根が見えた。

錆びたシャッターの前に、仙波俊介が立っていた。こちらを待っていたのか、ただ外へ出ていただけなのかは分からない。大きな体を作業着に包み、片手で潰れかけたライターを弄んでいる。

私たちに気づくと、仙波は顎を一度引いた。

「遅えな」

「呼んでいない」

「呼ばなくても来る顔をしてる」

仙波の声は、三十年前と同じように荒れていた。

私は彼の手元を見た。ライターを弾く親指が、一定の間隔で止まる。答える前に間を置く癖も変わっていない。

「仙波。三十年前の十一月二十日の夜について聞きたい」

「古い話だ」

「古いから聞く」

「聞いたって、もうねえものは出てこねえ」

「出てこないのか、出さないのか」

仙波は笑った。唇だけが動いた。

「刑事ってのは、年を取っても嫌な聞き方をするな」

「お前も年を取った」

「お互い様だ」

風が作業場の隙間から吹き抜けた。機械油と濡れた鉄の匂いがする。私は手帳を出し、表紙を開いた。

仙波の視線が、そこへ落ちる。

「記録か」

「証言だ」

「同じだろ」

「違う。記録は、残した人間の責任まで残る」

仙波の親指が、ライターの蓋を弾いた。

乾いた音がした。

男はしばらく黙ってから、作業場の奥へ視線を向けた。

「入れ。外で話すと、風が余計なもんまで運ぶ」

私は久保田と顔を見合わせた。

仙波は扉を開けた。

暗い作業場の奥に、古い工具箱と、折り畳まれた図面が見えた。壁際には、造船所時代の工程表が丸めたまま立てかけられている。

私は一歩、敷居をまたいだ。

その瞬間、潮の匂いの底から、三十年前の夜の音が戻ってきた。

足音が二つ。

ひとつは海側から。

もうひとつは、白波アパートの裏道から。

そして、何かを引きずる音。

私は手帳の角を親指で押さえた。

今度は、その音を一行にしない。

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ひとつの証言 - 沈黙の一葉 - 誰でも作家life