第2話 保管庫の欠番

鑑識室を出ると、久保田は保存袋に入れたはがきを胸の高さで持った。
両手で支えている。落とすまいとしているのではない。紙一枚にも、触れた順番があると考えている持ち方だった。
「保管庫は地下です」
「知っている」
「最後に入ったのは、いつですか」
「去年の春だ。別件の古い指紋台帳を探した」
「相沢澪の事件箱は」
「見ていない」
「見ていないのに、あると思っている」
私は階段の手すりへ手を置いた。塗装の剥げた鉄が、手袋越しにも冷たかった。
「保管庫にあるものは、なくならないことになっている」
「それは保管の話ですか、記録の話ですか」
久保田は、前を向いたまま尋ねた。
返事をする前に、一段下へ足を運んだ。地下へ降りるほど、庁舎の音が遠くなる。電話の呼び出しも、コピー機の駆動音も、厚い扉に吸われていく。代わりに、配管の奥を水が通る音が聞こえた。港のそばに建った署は、建物の中まで海の気配を抱えている。
「記録は、保管した人間の手を離れてからが長い」
「だから、扱い方が残る」
「そういうことだ」
「では、見つからないものがあったら、紛失ではなく扱い方を疑うべきですね」
私は久保田を見た。
彼女はようやくこちらを振り返った。まだ二十代の顔には、若さよりも慎重さが先に立っている。古い紙を扱うときだけ呼吸を浅くする。その癖を、私はさっきから見ていた。
「疑うのは、見てからだ」
「片桐さんは、見る前から気づいているように見えます」
「気づいたことと、証拠になることは違う」
「そこを分けるために、私がいます」
言葉が短いのに、引かなかった。
私は前を向いた。久保田のような若い人間と組むのは久しぶりだった。現場に出れば、若い刑事は先に走る。聞き込みでは、相手の声の大きさに負けないよう声を張る。だが彼女は走らないし、張らない。紙の前で立ち止まり、立ち止まった場所を記録する。
それが、今の私にはありがたかった。
保管庫の扉は地下二階の突き当たりにある。鍵を開けると、内側から冷気が押し出してきた。暖房の届かない部屋には、潮の匂いと埃の匂いが混じっていた。古い木箱、段ボール、金属製のファイルケース。棚の列は暗く、奥へ行くほど灯りが薄い。
私は壁のスイッチを入れた。
蛍光灯が一本ずつ、ためらうように点いた。白い光が棚を照らし、錆の浮いた金属と、ラベルの剥がれかけた背表紙を浮かび上がらせる。
「事件番号は」
「霜見港、失踪一一七号。受理は三十年前の十一月二十日」
久保田が端末を開いた。
「一一七号。保管場所は、旧資料第三列、棚番号十六」
「第三列は向こうだ」
棚の間を進むと、靴底が床の細かな砂を踏んだ。乾いた音が、空間の奥で何度も返った。私は歩きながら、時間と気温を手帳の欄外へ書いた。
十一月二十日。午後一時四十一分。保管庫内、十四度。
久保田が横から覗き込む。
「気温まで書くんですか」
「書けるものは書く」
「必要ですか」
「あとで必要になることがある」
「あとで必要にならなかったことは?」
「忘れる」
「忘れるために書くんですか」
私は手帳を閉じた。
「忘れたくないものほど、書いたあとで忘れる」
久保田は何も言わなかった。棚の番号を目で追いながら、私の半歩後ろを歩いた。
第三列の棚番号十六には、茶色い事件箱が三つ並んでいた。表面に黒いペンで事件番号が書かれている。一一七号、一一七号、一一七号。箱の角には古い水染みがあり、蓋の金具は白く腐食していた。
私は真ん中の箱を引き抜いた。
持ち上げたとき、底がわずかに沈んだ。紙の重さだけではない。写真やフィルムが入っている箱は、紙箱特有の軽さがある。これは少し重い。
机へ運び、蓋を開ける。
上から、捜索範囲の記録、関係者の住所一覧、港湾施設への照会書、当時の新聞記事の切り抜き。書類は日付順に並べられていた。私の字も、何人かの先輩の字もある。
澪の家の捜索許可に関する書類をめくったところで、久保田が声を出した。
「これです」
彼女が指したのは、箱の内側に貼られた管理票だった。
番号が並んでいる。
117-01、117-02、117-03。
その次が、117-05になっていた。
117-04だけがない。
私は管理票を箱から外さず、顔を近づけた。欠番の欄には、消しゴムで擦った跡があった。紙の表面が毛羽立ち、その上から別の鉛筆で薄く線を引き直している。
「前後は何ですか」
久保田が箱の中身を並べた。
「一一七の四は、聴取記録か写真です。管理票の形式からすると、封筒扱いの物証でしょう」
「写真ネガの封筒」
「断定はできません」
「断定はしない」
私は管理票の番号を手帳へ写した。
117-04。欠番。
その下に、紙面の擦過。上から再記入。
久保田は古い聴取メモを一束ずつ机へ移した。封筒の紐をほどく前に、資料の端を揃える。紙の角が不揃いになると、彼女は一枚ずつ戻した。
「触る前に、どうして揃える」
「順番が崩れていると、崩れたことに気づけないからです」
「順番は管理票にある」
「管理票が正しいとは限りません」
彼女は白い手袋をはめた。指先を一本ずつ伸ばし、手袋の皺を消していく。
「資料の並びは、内容の一部です。書類そのものに何が書いてあるかだけじゃなく、何と何の間に置かれていたかも見ます。抜かれたものがあるなら、残ったものの距離が変わっているはずです」
「距離?」
「たとえば、聴取メモの束の中に、写真の受領記録だけ残っている。写真本体がないのに受領記録があるなら、抜かれたのは写真だけかもしれない。でも、受領記録まで消えていたら、抜いた人は記録の流れそのものを消そうとしたことになる」
「この箱は」
「まだ分かりません。ただ、番号を消したあとに、前後の番号を詰めていない。欠番を欠番のまま残して、そこに何もないように見せている」
久保田は管理票の紙面をライトで照らした。蛍光灯の光が斜めに当たり、消し跡の周囲だけが薄く浮かんだ。
「消した人は、完全に消す必要がなかったんでしょうね」
「なぜそう思う」
「あとから誰かが調べるとは思っていなかった。あるいは、調べても欠番に意味を見つけられないと思っていた」
「それは、調べる人間を知っていたということか」
「人間というより、組織の癖を知っていたんだと思います」
久保田の声は静かだった。
「古い資料は、まず保存年限を見られます。次に、事件が終わっているかを見る。終わっていれば、欠番は単なる欠番になる。中身より、処理済みかどうかが先に来る。だから、きれいな空白は残ります」
私は手帳から目を上げた。
「きれいな空白」
「はい。空白がきれいすぎます」
その言葉は、保管庫の冷気より深く残った。
私は箱の底を見た。何もない。埃が薄く積もっている。だが、埃の上に一本だけ、細い擦れがあった。封筒の角か、硬いケースを引き抜いた跡に見える。
「久保田」
「はい」
「底を撮れ」
「もう撮っています」
彼女は端末の画面を見せた。箱の内側、管理票、欠番の周囲。撮影の角度が少しずつ違う。手袋をした指先が写り込まないよう、資料の端に白い紙を挟んでいる。
「早いな」
「片桐さんが見ている間に撮りました」
「見ている間に、見られていたわけか」
「見ていたのは資料です」
久保田はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったのかどうか、私には判別できなかった。ただ、緊張の中にわずかな熱が生まれた。
私は箱の中から、澪の聴取メモを探した。
日付順に並んでいるはずだった。だが、十一月二十一日の記録のあとに、二十三日の記録があり、二十二日だけが抜けている。私は箱の底に視線を落とした。
「一一七の四と、二十二日の聴取」
「関係があると思いますか」
「まだ分からない」
「でも、同じ日に抜けています」
「そうだ」
久保田はメモを一枚ずつめくった。
紙の多くは、三十年前の湿気を吸って波打っていた。インクが滲んだものもある。私の字は当時から細く、急いで書いた部分だけが右へ傾いている。澪の父親の聴取、母親の聴取、学校関係者、喫茶店の店員。読んでいるうちに、失踪直後の署内の空気が戻ってきた。
人は大勢いた。
だが、誰も同じことを言わなかった。
澪は一人で港へ向かった。 白波アパートの裏で見た。 サイレントを出たところを見た。 海側の道には行っていない。 いや、海側から誰かが来ていた。
当時の私は、それらを一つずつ処理した。証言の信頼性、時間の整合、視認距離。証言は並べ替えれば、ひとつの線になると信じていた。
いま見ると、並べ替えたのは証言ではなく、自分が受け入れられる順序だった。
「片桐さん」
久保田の指が止まった。
彼女が開いているのは、私が書いた聴取メモだった。
《仙波俊介 十一月二十一日 二十二時十五分》
欄外に、短い追記がある。
《防波堤側は見ていない。裏道から資材を運ぶ音を聞いたとのこと。ただし、当夜の作業予定と一致せず》
私はそれを読んだ。
知っている文章だった。知っているはずなのに、初めて読んだような感覚がした。
「この追記、片桐さんの字ですか」
「俺の字だ」
「なぜ本文に入っていないんですか」
「本文にするほどではないと判断した」
「当時の判断理由は、残っていますか」
「残っていない」
「では、今の判断は?」
私はメモから目を離さなかった。
「残っている」
久保田は黙った。
その沈黙には、責める色がなかった。責められた方が楽なこともある。怒鳴られれば、こちらも怒鳴り返せる。だが、彼女はただ記録を見ていた。私が何を言うかではなく、何を書かなかったかを見ている。
「仙波は、資材を運ぶ音を聞いたと言っている」
「はい」
「当夜、造船所は夜間作業をしていない」
「作業予定表には、該当する搬出記録がありません」
「それを、当時の俺は不一致とだけ書いた」
「不一致ではなく、未記録の作業だった可能性は」

「ある」
「資材を運ぶ音がした場所は」
私はメモの欄外を指でなぞった。
「白波アパートの裏道に近い。防波堤へ下りる道ともつながっている」
「その地図はありますか」
「ある。手元に残っている」
「持ってきてください」
「今からか」
「はい。欠番の中身が分からなくても、残った記録の位置関係を確認できます。地図とこの聴取メモ、それからはがきの文面。全部、同じ場所を指しているかもしれません」
「まだ、はがきと仙波の証言を結びつけるのは早い」
「結びつけてはいません。並べるだけです」
久保田はメモを保存袋へ入れた。
「並べて、重ならなければ切り離す。重なるなら、次を見る。それだけです」
私は手帳を開き、久保田の言葉を書いた。
並べる。決めつけない。
その文字の下に、仙波の追記を写す。
資材を運ぶ音。裏道。夜間作業と不一致。
書き終えたところで、保管庫の扉の外から靴音がした。一定の間隔で近づき、扉の前で止まる。
立花だった。
「ずいぶん長いですね」
立花は中へ入るなり、部屋の温度を確かめるように肩をすくめた。手には薄いファイルが一冊ある。彼は棚を見渡し、私たちの前の事件箱へ視線を落とした。
「正式な鑑識依頼は出しました。ただし、時効後の事件資料を勝手に掘り返しているように見えると困る」
「勝手ではない」
「手続き上は、まだ予備確認です」
「言葉の違いだ」
「組織では、その違いが大事です」
立花はファイルを机へ置いた。
「はがきは、鑑識課で預かります。片桐さんはここから先、単独で資料を動かさないでください。久保田さん、撮影と記録を優先して、内容の判断は保留。報告書には、発見した事実と推測を分けて書いてください」
「分かっています」
久保田が答えた。
立花は私を見た。
「あなたは分かっていますか」
「何を」
「いま見つかっているのは、欠番と、欠けた聴取メモだけです。事件の再捜査に足る証拠ではない。三十年前の管理不備が、いま見つかっただけかもしれない」
「管理不備なら、欠番は一つで済む」
「複数の人間が関われば、管理は崩れます」
「崩れたなら、崩れた順番が残る」
「その順番を、あなたは自分の記憶で埋めようとしている」
立花の声が低くなった。
「片桐さん。あなたが当時の担当だったことは知っています。自分の判断を検証したい気持ちも分かる。ですが、検証と告発は違う。あなたが見つけたものを、あなた自身の罪の証明に使い始めたら、捜査は個人的な償いに変わる」
私は箱の中の空白を見た。
「罪を除いて事実だけを見ることはできない」
「できます」
「どうやって」
「資料を、資料として扱う。誰が悪いかを決める前に、何が残っているかを固定する。それが手続きです」
「手続きの中に、消した人間がいる」
「だからこそ、手続きが要る」
立花はファイルの角を揃えた。
「感情で追えば、相手に逃げ道を渡します。記録で詰めれば、少なくとも言い逃れの形が残る。あなたが長年やってきたのは、後者でしょう」
私は返事をしなかった。
立花は正しい。正しいから、すぐには受け入れられない。
三十年前、私は記録を信じていた。記録にないものは、なかったものとして扱った。そうして、澪の言葉を短くし、仙波の証言を欄外へ追いやり、欠番を疑わなかった。
記録は嘘をつかなかった。
私が、記録に残すものを選んだ。
「立花」
「はい」
「この事件箱を、誰が最後に確認した」
立花の指が止まった。
「保管記録を確認します」
「今ここで分からないか」
「三十年前の保管担当まで、すぐには出ません」
「確認してくれ」
「正式な照会を通します」
「いつ」
「今日中に依頼を出します」
「返事は」
「早ければ明日」
私は立花の顔を見た。彼は視線を逸らさなかった。
「早ければ、という言葉は嫌いだ」
「知っています」
「では、明日と書け」
「書類には書けません」
「書けないことを、口では言うんだな」
立花の口元が硬くなった。
「あなたがそういう言い方をするときは、もう現場へ行くと決めているときです」
「まだ保管庫にいる」
「足だけは、もう外を向いている」
私は足元を見た。古い靴のつま先が、確かに扉の方を向いていた。
久保田が、机上のメモを撮影し終えた。
「片桐さん」
「なんだ」
「この聴取メモ、裏面に圧痕があります」
彼女はメモをライトにかざした。紙の裏側に、薄い線が浮かんでいる。文字のようにも、ただの擦れのようにも見えた。
「前の紙に書いたものが写っている?」
「おそらく。まだ読めません」
「読めるか」
「斜光で撮って、画像を反転させます。ここでは機材が足りないので、鑑識室へ戻します」
「何が書かれている」
「分かりません。ただ、最後の一行だけ、文字の密度が違います」
久保田は、圧痕のある部分を指で示した。
紙の右下。本文の外側。
私はそこに、澪の姿を重ねた。
聴取のとき、彼女は紙の端を指で押さえていた。言葉を選ぶように視線を落とし、最後まで言い切らなかった。そのとき、彼女は何かを書いたのかもしれない。あるいは、書こうとしてやめたのかもしれない。
私は見なかった。
見ても、記録に入れなかった。
「久保田」
「はい」
「その圧痕を、消すな」
「消しません」
「読めなくても、読めないまま残せ」
「はい」
久保田は一度だけ、私の目を見た。
「片桐さん。記録に残っていないものを、記憶だけで埋めないでください」
「分かっている」
「でも、記憶を捨てる必要もありません。どこで思い出したか、それも記録になります」
その言葉は、立花の手続きとは違う場所から届いた。
私は返事をしなかった。返せば、何かを認めることになる気がした。
事件箱を閉じる。蓋の金具が、乾いた音を立てた。
欠番は戻らない。抜かれた封筒も、消された聴取も、三十年前の時間も戻らない。だが、空白には輪郭がある。輪郭があるなら、指でなぞることができる。
保管庫を出る前に、私はもう一度だけ棚を振り返った。
古い事件箱は、他の箱と同じ形をしている。誰かが特別に隠したようには見えない。並びも、埃の積もり方も、長い年月に任せた顔をしている。
その均された景色の中で、欠番だけがわずかに沈んでいた。
私は手帳を開き、番号を書いた。
117-04。 欠番。 聴取記録一一月二二日欠落。 裏面圧痕あり。 箱底に抜去痕。
さらに一行、書き加えた。
空白は、誰かが作った。
立花が背後から言った。
「その一行は、報告書にはまだ入れないでください」
「分かっている」
「本当に?」
私は手帳を閉じた。
「お前も、二度聞くな」
立花は小さく息を吐いた。怒ったのか、諦めたのかは分からない。
久保田が保存袋を抱え直した。はがきの灰色が、袋越しにも鈍く見えた。
地下の扉を開けると、上階から暖房の風が流れ込んできた。乾いた温かさだった。紙の匂いが薄まり、代わりに洗剤と古い壁の匂いが鼻へ入る。
私は階段を上った。
一段ごとに、港の冷気が遠ざかる。だが、手帳に書いた欠番の数字だけは、ポケットの中で重かった。
誰かが抜いた。
誰かが見逃した。
その二つの間に、三十年がある。
階段の踊り場で、私は足を止めた。窓のない壁の向こうから、船の汽笛が聞こえた。低く、長く、建物の骨組みを震わせている。
久保田が数段下で待っていた。
「どうしました」
「いや」
私は上を見た。
「今度は、空白を埋める」
「証拠で、ですか」
「証拠でだ」
それから、少し間を置いた。
「俺の記憶も含めて」
久保田は何も言わなかった。ただ、保存袋を持つ手をわずかに強くした。
私たちは階段を上がった。
保管庫の冷気は背後へ沈み、扉が閉じる音がした。けれど、あの部屋に置かれた空白は、閉じ込められたままではなかった。
欠番の数字が、手帳の中でまだ冷えていた。
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