1話 灰色の葉書

定年まで、あと三十七日だった。

そう数えたのは、朝の出勤簿に判を押したときだ。数字にすると、残り時間は妙に薄く見えた。三十七日。長いとも短いとも言えない。事件ひとつを片づけるには足りず、机の引き出しを整理するには余る。

私は自分の机に戻り、書類の束を右端から揃えた。

港湾署の刑事課は、朝から電話の音と紙をめくる音で満ちていた。窓の外には海霧が降りている。向かいの岸壁に立つクレーンは、上半分から白く消えていた。暖房は入っているはずなのに、床から上がってくる冷えは抜けない。古い庁舎は、外の寒さを忘れない。

「片桐さん、その段ボール、今日中に廃棄でいいんですよね」

隣の若い刑事が声をかけてきた。

「中身を見てからだ」

「定年の人の机から、まだ何か出てくるんですか」

「出てこないようにするのが整理だ」

皮肉のつもりだったが、相手には伝わらなかったらしい。曖昧に笑って、彼は自分の画面へ戻った。

私は古い捜査記録を一冊ずつ開いた。事件番号、受理日、担当者、処理日。不要になった記録は保存年限に従って廃棄される。残すべきものは残し、捨てるべきものは捨てる。書類の世界では、時間にも期限がある。

人間の方は、そう簡単にいかない。

午前十時を少し回ったころ、机の奥にある郵便受けから、紙の滑る音がした。

署内の郵便は、総務を経由して各課へ配られる。だが、急ぎの回覧や個人宛てのものは、課の入口脇に取りつけられた小さな投入口から直接入れられることがある。誰かが廊下を通り、扉の向こうから差し込んだのだろう。

音は小さかった。

それでも私は顔を上げた。

床へ落ちたものは、はがき一枚だった。

灰色だった。

白い官製はがきなら、蛍光灯の下で紙の繊維が薄く光る。これは違った。煙を吸ったような、湿った鼠色をしている。表面はざらつき、指で触れなくても乾いた砂のような感触が伝わってきた。

私は椅子を引き、はがきを拾った。

宛名面には、私の名前と港湾署の住所だけが印刷されていた。差出人の名前はない。消印は霜見中央。昨日の日付だった。

裏返す。

細い文字が、二行だけあった。

まだ終わっていない  防波堤の下を見てください

文字の間隔が狭い。行の終わりだけ、わずかに右へ流れている。「い」の最後の払いが短く、「て」の横線が一度止まる。

私は書類の角を揃えていた手を、膝の上へ置いた。

文字には、声がある。

長いあいだ聞かなかった声ほど、耳ではなく指先に戻ってくる。

相沢澪。

名前が浮かんだとき、窓の外の霧が一段深くなったように見えた。

三十年前、霜見市の港で、十六歳の少女が消えた。最後に姿を見た場所は、防波堤へ続く古い道の近く。父親は造船所勤めで、母親は病気がちだった。澪は学校帰りに喫茶店へ寄り、夕方には家へ戻るはずだった。

戻らなかった。

遺体は見つからず、犯人も見つからず、事件は失踪として処理された。捜索は何度も行われた。港の倉庫、埠頭の隙間、沖へ出た船の記録。白波アパートの各部屋も調べた。けれど、時間が経つほど手がかりは薄くなった。

薄くなったのではない。

薄くした人間がいたのだと、今なら思う。

私ははがきの文字を、もう一度読んだ。

澪の筆跡に似ていた。似ている、という言い方では足りない。字の形だけではない。書き始める前に一度ためらう癖まで、覚えているものに重なっていた。

ただし、私は澪の筆跡を完全に知っていたわけではない。

あの頃、彼女が書いたものをまともに残さなかったからだ。

聴取のとき、澪は机の端に置かれた紙を何度も指で押さえた。話す前に視線を落とし、返事を急がなかった。私はそれを、子どもにありがちな怯えだと思った。いや、そう思おうとした。

彼女が何かを書いた紙片を、見せてくれたことがあった。

防波堤の近くで、誰かを見た。

そう言ったのではない。もっと曖昧だった。

夜に、足音が二つあった。  ひとつは海側から、もうひとつはアパートの裏から。  それから、何かを引きずる音がした。

澪はそう話した、と私は長いあいだ記憶していた。

だが、手元に残っている記録には、その一部しかない。

《本人、周辺の物音について言及。具体性に乏しい》

私が書いた文だった。

当時の私は、彼女の言葉を気にしすぎだと判断した。港では風が鳴る。鎖が揺れる。船腹を叩く波が、何かを引きずる音に聞こえることもある。大人の出入りが多い場所で、足音が二つあったとしても不思議ではない。

そうやって、私は一行にした。

澪の言葉を、私の都合のいい長さに切った。

「片桐さん?」

立花課長の声で、私は現在へ戻った。

立花真由は、課長席の前に立っていた。書類の角を左上から揃える癖がある男で、その日も片手に持ったファイルの端を指で押さえていた。私より若いが、役職に就いてからの顔は老けて見える。判断を保留するたびに、顔のどこかへ薄い皺が増えていく。

「何か届きましたか」

「はがきだ」

「見せてもらえますか」

私は渡さなかった。立花の視線がはがきに落ち、それから私の顔へ戻る。

「私信なら、総務へ回してください」

「相沢澪の名前が出てくる」

立花の指が、ファイルの角で止まった。

課の電話が鳴った。誰かが受話器を取り、低い声で応じている。コピー機が動き出し、紙の吐き出される音が続く。その中で、立花だけが黙っていた。

「文面は」

「まだ終わっていない。防波堤の下を見てください」

「差出人は」

「ない」

「筆跡は」

「似ている」

「似ている、だけですか」

「今はな」

立花は眼鏡を外し、レンズを拭いた。何かを確認するためではなく、考える時間を稼ぐときの仕草だった。

「片桐さん。相沢澪の件は、三十年前の失踪です。記録上、捜査は終了している。時効の問題以前に、いまの時点で刑事事件として動かせる材料がない」

「だから、はがきを捨てるのか」

「捨てろとは言っていません。いたずら、模倣、あるいは関係者の悪ふざけ。可能性は複数あります」

「関係者が、三十年後に悪ふざけをする理由は」

「理由のない人間もいます」

立花の声は低かった。怒ってはいない。ただ、言葉の端を平らにして、こちらの熱を削ろうとしていた。

「それに、片桐さんはあと三十七日で退職です」

「知っている」

「なら、個人の記憶と組織の案件を混ぜないでください。あなたが動けば、署として動いたことになる。古い事件の扱いを誤れば、相沢さんの家族にも、当時の関係者にも、別の傷をつける」

「傷はもうついている」

「そういう言い方をすると、判断を急ぎます」

「急いでいるように見えるか」

「見えません。だから余計に困るんです」

立花はそこで口を閉じた。私の顔ではなく、はがきの裏面を見ている。灰色の紙が、白い蛍光灯の下で妙に鈍く沈んでいた。

「鑑識に回してください」

「回す」

「正式な依頼書を通してください」

「わかった」

「それから、単独で現場へ行かないでください」

私は返事をしなかった。

立花は私の沈黙を知っている。若いころ、私の聞き込みについてきたことがある。相手が話し終えたあとも、私はすぐには席を立たなかった。沈黙の中で、相手が言い直したり、余計なことを足したりするのを待つためだ。

立花はその癖を嫌っていた。

だが同時に、それでいくつもの事件が動いたことも知っている。

「片桐さん」

「なんだ」

「相沢澪の件で、あなたが何か抱えていることは知っています」

喉の奥が、わずかに狭くなった。

「抱えている、というのは便利な言葉だな」

「便利に使ったつもりはありません」

「では、何と言う」

「記録にないものを、記憶だけで埋めようとしている」

「記録にないんじゃない。記録から落ちている」

「落ちたのか、落としたのかは、まだ分からないでしょう」

私は立花を見た。

立花の目は、いつもよりまっすぐだった。冷静な男の顔をしているが、完全に無関心ではない。署を守るために線を引く。その線の向こうへ、私を行かせたくないのだろう。

「久保田に見せる」

「鑑識の判断を待ってください」

「待つ」

「本当に?」

「待つと言った」

立花は短く息を吐いた。

「あなたは、待つと言ったあとに歩き出す人です」

「昔の話だ」

「今も同じ顔をしています」

彼はそれだけ言い、ファイルを抱えて課長席へ戻った。

私ははがきを机の上に置いたまま、しばらく動かなかった。

灰色の紙の下に、白い書類が何枚も重なっている。交通事故の報告、港湾施設の盗難届、行方不明者の照会。現在の事件は、現在の人間を連れてくる。過去の事件は、誰も連れてこない。ただ、置き去りにされたものだけが残る。

私は引き出しを開けた。

一番奥に、くすんだ色の万年筆があった。三十年前、澪の聴取記録を書くために買ったものだ。高価な品ではない。軸の一部が擦れて、金具は黒ずんでいる。

その横に、薄いノートがあった。

表紙には事件番号だけが記されている。

私はノートを取り出した。表紙を開くと、紙の匂いがした。乾いた埃と、古いインクと、わずかな潮の匂い。指先にざらつきが残る。

最初のページには、当時の私の字で、捜査開始の日付が書かれていた。

その下に、澪の名前。

さらに下に、空白。

私は万年筆を持った。インクはまだ出るだろうかと思い、紙の端に試し書きをした。線は細く、途中で掠れた。

相沢澪。

書いた文字を見ていると、三十年前の夜が戻ってきた。

雨ではなかった。霧だった。濡れた風が防波堤から吹きつけ、街灯の明かりを白く滲ませていた。澪の父親が、何度も帽子を脱いでは被り直していた。母親は署の待合椅子に座り、両手を膝の上で重ねたまま、誰にも話しかけなかった。

家族は、捜査が終わっても待っていた。

父親は毎年、澪の誕生日に港へ来た。私は何度か遠くから見た。声をかけようとして、やめた。見つからない娘を待つ人間に、刑事が渡せる言葉などなかった。

何も渡さなかった。

それを私は、配慮と呼んでいた。

はがきの二行目を、私は指でなぞった。

防波堤の下を見てください。

その場所には、何度も行った。だが、見たのは上だけだった。濡れた路面、錆びた柵、消えかけた足跡。崖の下へ降りる道があったことも知っていた。潮が引いたときだけ現れる、狭い足場も。

私はそこへ降りなかった。

危険だったからだ。夜は足元が見えない。潮が戻れば逃げ場がなくなる。捜索の重点は海上とアパート周辺に置かれた。

そう報告した。

いま思えば、あれは安全上の判断ではなかった。

見てしまえば、捜査の形が変わるかもしれない。私が軽く扱った証言が、別の意味を持つかもしれない。上司が嫌がる方向へ話が進むかもしれない。

私は、見ない理由をいくつも持っていた。

そのどれも、澪を探す理由より先に来た。

午後になって、海霧は少しだけ薄くなった。窓の向こうに、クレーンの骨組みが戻ってきた。港の上を飛ぶ海鳥の声が、庁舎のガラスを薄く震わせている。

私ははがきを手帳の最初のページに挟んだ。

手帳には、事件番号も、当時の潮位も、聴取の日付も書いてある。だが、澪が紙の端を押さえていた指の形だけは、どこにも残っていない。

それを今さら書くことはできない。

書いたところで、記録にはならない。

それでも私は、手帳の余白に日付と時刻を書いた。

十一月二十日、十時十二分。  灰色の官製はがき。  差出人なし。  文面二行。

その下に、しばらく迷ってから続けた。

防波堤の下を、まだ見ていない。

書き終えると、左の親指で革表紙の角を擦った。擦れた部分だけが、指の熱を返してきた。

立花の言葉が頭に残っている。

単独で現場へ行くな。

私は椅子から立ち上がった。外套を取り、襟を正した。机の上の書類を右端から揃え、万年筆を引き出しへ戻した。はがきだけは手帳から出さなかった。

防波堤へ行くなら、まだ勤務時間内に行ける。

窓の外では、霧の向こうで船の警笛が鳴った。低く、長い音だった。海と町の境目を探るように、何度も余韻を引いた。

私は課長席の前で足を止めた。

「片桐さん」

立花が顔を上げた。

「どこへ行くんです」

「現場だ」

「どの現場ですか」

私は一拍置いた。

「まだ、現場と呼ばれていない場所だ」

立花は何か言いかけたが、言葉を選ぶように口を閉じた。机の上で、揃えられた書類の角だけが白く光っている。

「久保田さんを連れていってください」

その声に、私は振り返った。

「鑑識を巻き込むのか」

「もう巻き込まれています。はがきを見せた時点で」

立花は眼鏡を直した。

「ただし、何か見つけても、持ち帰る前に連絡を。あなたの判断だけで処理しないこと」

「分かった」

「本当に?」

「二度も聞くな」

立花はかすかに笑った。疲れた笑いだった。

鑑識室へ向かう廊下は、窓のない壁が続いている。床のワックスが剥がれた部分を、私は無意識に避けた。階段を下りる途中、潮の匂いが強くなった。古い建物の配管を通って、海の冷たさが上がってきている。

久保田遥は、鑑識室の机で資料の端を揃えていた。細い指で紙を一枚ずつ合わせ、ずれを確認している。顔を上げると、私の手帳を見た。

「何か届きましたか」

「はがきだ」

「見せてください」

私は手帳を開き、灰色の紙を取り出した。

久保田はすぐには触れなかった。手袋を整え、机の上を空けてから、両手で受け取った。紙の角を傷つけないように持ち上げ、表面を照明へ傾ける。

「筆跡ですか」

「似ている」

「誰に」

私は答えなかった。

久保田は文字を見つめている。やがて、ほんの少しだけ唇を結んだ。

「比較できる資料はありますか」

「ある。三十年前の聴取メモだ」

「保管場所へ行きましょう」

その言い方に、迷いはなかった。

「古い事件です。劣化しているかもしれません」

「劣化しているから見ない、という理由にはなりません」

私は彼女を見た。

久保田は灰色のはがきを保存袋へ入れながら、静かに続けた。

「紙は古くなります。でも、古くなったこと自体が記録になる場合があります。誰かが触った跡、抜いた跡、戻した跡。残っているものを見てから、何もないと判断したいです」

その言葉を聞いて、私は三十年前の自分を思い出した。

私は、見てから判断したのではなかった。

判断してから、見なかった。

「久保田」

「はい」

「俺の記憶も、疑ってくれ」

彼女は一度だけ私の目を見た。それから、はがきの保存袋を机の中央へ置いた。

「最初から、そのつもりです」

外へ出ると、海霧がまた港を覆い始めていた。

私は外套の襟を立てた。冷たい風が首筋へ入り、紙の匂いと潮の匂いが混ざった。三十年前と同じ匂いではない。町は変わった。造船所は消え、白波アパートもなくなった。防波堤の周りには新しい柵が立ち、足場も整えられている。

それでも、海の風だけは古い場所を覚えている。

私は歩き出した。

まだ、終わっていない。

その言葉を、澪が書いたのか、澪の文字を借りた誰かが書いたのか、私には分からなかった。

ただ、あの二行が私に向けられたものだということだけは、分かっていた。

見なかった場所へ戻れ、と。

今度は、書類の隅へ追いやらずに。

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灰色の葉書 - 沈黙の一葉 - 誰でも作家life