8話 会合の笑顔

影山義弘が町の会合に出ることは、地元紙の予定欄に載るほど珍しくなかった。

港湾再開発地区の説明会。商工会の懇談会。冬を前にした町内会の防災集会。どの会場にも、彼は少し早く現れ、入口に近い場所で年寄りの名前を呼び、遅れて来た者には椅子を勧めた。人の輪の中へ入るとき、影山は決まって一度だけ周囲を見渡す。誰が不安そうで、誰が暇そうで、誰が自分の味方なのかを測るような視線だった。

その晩の会場は、旧漁協の二階にある集会室だった。

階段を上ると、古い木材に染みついた潮の匂いがした。靴底についた水が、廊下の床へ細い跡を残している。窓の外では、雪になりきれない雨が横向きに流れていた。ガラスの向こうで港の灯りが滲み、クレーンの骨組みが黒い枝のように伸びている。

扉を開けると、白い湯気が顔へ触れた。

長机の上に、紙コップと急須が並んでいる。薄い茶の匂い、濡れた外套の匂い、暖房の乾いた風。町内会の役員たちが声を低くして話し、窓際では再開発区域の完成予想図が壁に貼られていた。

明るい歩道。海を眺めるベンチ。植え込みの向こうに、ガラス張りの交流施設。

白波アパートの跡地は、そこでは最初から人の住んでいなかった土地のように描かれていた。

「片桐さん、こちらへどうぞ」

入口近くにいた男が、私を見つけて手を上げた。町内会長の大沼だった。三十年前、澪の捜索に加わった漁師の一人でもある。私は名前を呼ばず、軽く頭を下げた。

「立っている方がいい」

「刑事さんは、昔から壁際がお好きですな」

「壁は話を逸らさない」

大沼は冗談と受け取ったらしく、喉の奥で笑った。笑い声はすぐに会場のざわめきへ溶けた。

私は壁際に立った。

少し離れたところで、久保田が資料の入った薄いケースを抱えている。彼女は会場の人間を眺めるより先に、机の上の紙コップの向きを揃えていた。誰かがずらしたものを、端から順に戻している。

「会合の資料は、ここで配られたものだけです」

「分かった」

「影山さんは、予定表では十分前に到着しています」

「実際には?」

「二十分前です。入口の防犯カメラに映っています」

「必要か」

「まだ分かりません。ただ、分からないものは記録します」

私は返事をしなかった。

影山は、会場の中央にいた。

濃紺のコートを脱ぎ、淡い色のシャツに細いネクタイを締めている。六十を過ぎた身体なのに背筋が崩れていない。商工会の男に肩を叩かれ、老人の話を聞き、窓際の女性へ茶を勧める。その一つ一つの動作に、急ぐ様子がない。

誰かが彼の椅子を引いた。

「影山さん、こちらへ」

「いや、皆さんが座ってからで結構です。私は立っていられますから」

そう言いながら、影山は自然に中央の席へ腰を下ろした。

人に譲るふりをして、最も見渡せる場所を選ぶ。

私は手帳を開いた。

十一月二十二日、十八時四十二分。  旧漁協二階、町内会会合。  影山、予定時刻より早く到着。

その下に、書きかけた文字を止めた。

昔から、笑顔が変わらない。

私はその一行を消した。

主観だった。だが、消したあとも手帳の紙面には薄い跡が残った。

会合は、再開発区域の道路工事について始まった。市の担当者が資料を配り、工事車両の出入りと、来月から始まる地盤改良の説明をする。住民の一人が、海沿いの道を閉鎖する期間について尋ねた。

影山が先に答えた。

「ご不便をおかけします。ただ、今回の工事は町の安全性を高めるためのものです。古い排水設備も更新されますし、長い目で見れば、皆さんの暮らしを守ることにつながります」

「白波の跡地は、駐車場になるんですか」

「暫定的には、その予定です。将来的には、市民が使える広場を整備する案も出ています」

「アパートの人たちが住んでいた場所ですよ」

窓際の老人が言った。

「そうですね」

影山は笑顔を崩さなかった。

「だからこそ、過去の記憶だけで土地を止めるのではなく、これから暮らす人たちのために活かしていく必要があります。白波アパートで暮らした方々の思いも、町の歴史の一部です。歴史は、残すだけではなく、次へ渡していくものですから」

よく整った言葉だった。

反対するには、反対する側が過去に執着しているように聞こえる。町のため、暮らしのため、未来のため。どの言葉にも、人間が一人ずつ消えていく余地があった。

私は会場の人々を見た。

何人かが頷いている。納得したのか、早く話を終えたいのかは分からない。澪の父親を知る者もいたが、誰もその名を口にしなかった。名前を呼べば、完成予想図の中へ戻せないものが出てくる。

影山が紙コップを持ち上げた。

茶は薄かった。湯気だけが白く、すぐに消える。

「影山さん」

私は壁際から声をかけた。

会場の視線が、こちらへ集まった。

影山は驚いた顔をしなかった。まず周囲へ微笑み、それから私へ顔を向けた。

「片桐さん。お久しぶりです。定年が近いと伺いました」

「誰から聞いた」

「町で長く仕事をしていれば、そういう話は耳に入ります。港湾署の最後の居残りだ、と皆さんが冗談めかして話していましたよ」

「冗談に聞こえたか」

「いえ。長く現場を支えてこられた方への敬意でしょう」

影山は椅子から立ち上がった。人前で私と対峙する形にならないよう、わざと一歩だけ横へ移動する。隣の住民の椅子を避け、私の立つ壁との間に人の通れる空間を作った。

「せっかくですから、こちらへ。立ったままでは寒いでしょう」

「寒い方が頭は動く」

影山の笑顔が、ほんの少し薄くなった。

「刑事さんらしいですね」

「昔のことを覚えているな」

「町のことは、だいたい覚えています。誰がどこで働き、どこに住み、何を困っていたか。町づくりには必要なことです」

「相沢澪を知っているか」

会場の空気が一度、止まった。

薄い茶の匂いが鼻へ残る。暖房の送風口が、乾いた音を立てていた。

影山はすぐに答えなかった。返答の前に、いつもの短い笑みを置く。だが、その笑みはさっきまでよりわずかに硬かった。

「もちろん知っています。港の町で、あの事件を知らない人間はいません」

「知っている、というのは」

「お父さんが造船所にお勤めでした。静かな、よく気のつくお嬢さんだったと聞いています」

「聞いた、か」

「私が直接親しくしていたわけではありません」

「三十年前の十一月二十日、夜の十時過ぎ、白波アパートにいたな」

影山は紙コップを机へ置いた。

底が机に触れる音は、小さかった。

「片桐さん。ここは町内会の会合です。再開発の説明をする場で、三十年前の失踪事件について追及されても、皆さんが困るでしょう」

「困るのは誰だ」

「全員です。過去の話を突然持ち出されれば、ご家族も、関係者も、町も」

「町が困る」

「町には、暮らしている人がいます。事件を知らない若い世代もいる。彼らに、何十年も前の出来事の責任を負わせるのは酷ではありませんか」

「責任を負わせるんじゃない。何があったかを確かめる」

「確かめることで、何かが戻りますか」

影山の声は柔らかかった。

「消えた人が戻るわけでもない。失われた時間が返るわけでもない。残るのは、関係者の名前と、町の評判と、いま生きている人間が抱える新しい傷です。片桐さんは、それでも町を揺らす理由があるとお考えですか」

私は、その言い方を知っていた。

町のため。家族のため。いま生きている人間のため。

正しい言葉をいくつも並べ、その間に答えを隠すやり方だった。

久保田がケースを開いた。欠番ネガの複製、サイレントの伝票、電柱番号十四―三を記した古地図。それぞれを透明な袋へ入れたまま、机の端へ置く。

影山の視線が、最初に地図へ落ちた。

わずかな動きだった。

私は見逃さなかった。

「町を揺らす理由があるか」

私は影山の言葉を繰り返した。

「理由ならある。欠番になったネガが見つかった。白波アパートの裏道を示す証言が、当時の聴取メモに残っている。電柱番号十四―三の位置と、ネガの影の角度も一致する可能性がある」

「可能性、ですか」

「確認中だ」

「それは結構なことです。警察の方が、資料を丁寧に見直してくださる。私も、町の一員として協力できることがあれば協力します」

「なら、質問に答えろ」

「もちろんです」

「当夜、白波アパートで何をしていた」

影山は私をまっすぐ見た。

目の奥に、怒りはなかった。怒りよりも深い場所で、何かを測っている。私がどこまで知っているのか。久保田が何を記録しているのか。会場の人間が、どの言葉を覚えて帰るのか。

「私は、白波アパートの住民に用がありました」

「誰に」

「当時、私は市の開発部門に関わっていました。立ち退きの相談です。古い建物でしたし、港の整備計画も進んでいました。住民の中には不安を抱えている方もいた。話を聞くのは、私の仕事の一部でした」

「夜の十時過ぎに?」

「昼間は、皆さん仕事があります。夜でなければ会えない人もいます」

「澪に会ったか」

「いいえ」

「白波アパートから出てきたのは、お前一人だったという証言がある」

影山は、ほんのわずかに顎を引いた。

「誰の証言ですか」

「それを聞いて、どうする」

「証言の信用性を判断するためです。三十年前の夜を見たという方が、いまになってどのような意図で話しているのか。証言は、内容だけでなく、語られた時期や状況も含めて考えなければなりません」

「証言を疑うのか」

「お前は疑わないのか」

「疑うべきものは疑います。ただ、疑いだけで人を裁くことも避けるべきです。片桐さんは長く刑事を務めてこられた。証拠の重さは、私よりご存じでしょう」

私は地図を指で押さえた。

「証拠を前にして、町の未来の話をするな」

影山の笑顔が消えた。

会場の端で、誰かが紙コップを落とした。薄い茶が床へこぼれ、茶色い水が木の継ぎ目へ流れ込んでいく。町内会長が慌てて布を探した。

影山はそちらへ目を向けた。

「大丈夫です。私が拭きます」

「影山さん、いいですよ」

「いえ、こういうものは早い方がいい」

彼は机の上の布巾を取り、床へしゃがんだ。濡れた木の床を丁寧に拭き、染みが残らないよう布を何度も折り直す。会場の人々は、彼の背中を見ながら口々に礼を言った。

「ありがとうございます」 「いつもすみません」 「影山さんがいてくれると助かります」

影山は立ち上がり、布巾を洗い場へ返した。

「困ったときは、お互い様です」

その言葉が、会場の中で穏やかに広がった。

私は彼の手を見た。

布巾を絞った指先に、細かな震えがあった。すぐにネクタイの結び目へ触れ、震えを隠すように整える。

「片桐さん」

影山が言った。

「あなたが本当に求めているものは、犯人の名前ですか。それとも、ご自身があの頃に正しかったと確認することですか」

私は黙った。

影山は続けた。

「長く刑事をしていると、ひとつの事件に自分の人生を預けてしまうことがある。解決すれば、過去も帳尻が合うと思ってしまう。しかし、現実はそうならない。誰かが死に、誰かが生き残り、町は変わる。最後まで残るのは、解決という言葉ではなく、解決できなかった人間が抱えた傷だけです」

「傷を消すために、町を作り替えたのか」

「町は生きるために変わります」

「白波アパートを壊した」

「老朽化していました」

「記録も壊した」

「そのような事実はありません」

「欠番ネガがある」

「管理上の不備かもしれません」

「裏道の地図がある」

「古い地図でしょう」

「お前が夜にいた」

「それは認めています」

「澪の失踪と同じ夜に」

「偶然です」

「偶然が三十年残るか」

影山は、しばらく私を見た。

「残ります。人は、都合の悪いことだけを忘れるわけではない。どうでもいいことも、覚え続ける。偶然が残ることはあります」

「お前は、何を覚えている」

「町のことを」

「澪のことではなく」

「相沢さんのことも、町の記憶として覚えています」

言葉の中に、澪という個人はいなかった。

相沢さん。町の記憶。過去の出来事。

名前の輪郭を薄めれば、責任も薄くなる。影山は三十年前から、そうやって人間を町の中へ溶かしてきたのだろう。

久保田が、地図とネガをケースへ戻した。

「影山さん」

彼女が言った。

「このネガの撮影位置について、確認したいことがあります」

「どうぞ」

「当時の記録では、写真は防波堤の上から撮影されたことになっています。ただ、光源の角度と影の長さが合いません。電柱番号十四―三の位置から撮影した場合だけ、矛盾が小さくなる」

「私は写真の専門家ではありませんので」

「写真の裏には、撮影者の署名がありません。ですが、ネガの封筒には、あなたが関わっていた開発準備室の印が残っています」

影山の表情は変わらなかった。

「開発準備室は、多くの資料を扱っていました。印があるからといって、私個人が撮影したことにはなりません」

「個人とは言っていません」

久保田は、薄い声で返した。

「ただ、影の位置と、当時の人の動線を照合しています。資料を否定するなら、どの部分が違うのかを教えてください」

「若い方は、ずいぶん具体的に話されますね」

「具体的でないと、記録できません」

「記録があれば、真実になると?」

「なりません。ですが、記録がなければ、真実を確認することもできません」

影山は久保田を見た。

初めて、彼の視線にわずかな硬さが生まれた。私に向けるものとは違う。若さを軽く扱おうとして、うまくいかなかった人間の顔だった。

「あなたは、片桐さんを信じているのですか」

「信じているのは、片桐さんではなく資料です」

「それは、ずいぶん安全な立場ですね」

「安全ではありません。資料を扱う人間にも責任があります。だから、分からないことは分からないまま書きます。誰かの話を都合よく、町の未来や過去の傷という言葉で包んだりはしません」

会場の空気が冷えた。

影山は笑わなかった。

私は久保田の横顔を見た。彼女の指が、ケースの縁を押さえている。声は平らだったが、手元には力が入っていた。

影山はやがて、ゆっくり息を吐いた。

「正しい方ですね」

「正しいかどうかは、まだ分かりません」

「分からないものを追い続けるのは、疲れるでしょう」

「疲れます」

「なら、ほどほどになさった方がいい。三十年前の事件は、関係者の多くが亡くなり、記録も劣化し、場所も失われた。いま追及しても、完全な形には戻りません」

「完全でなくても、事実は残せる」

「事実が残れば、誰かが救われると?」

「救われるとは言っていない」

「では、何のために」

私は窓の外を見た。

雪が混じりはじめている。白い粒が街灯の光を横切り、暗い港へ消えていく。澪の父親が毎年、港へ来ていた姿が浮かんだ。何も渡せなかった。渡さないことを配慮と呼んだ。

「なかったことにしないためだ」

私は言った。

「消えた人間がいた。その人間を知っていた者がいた。何かを見て、何かを聞いて、何かを黙った。そういうことを、なかったことにしないためだ」

影山は黙っていた。

私は続けた。

「救われるかどうかは、俺には決められない。家族が許すかも、町が変わるかも分からない。ただ、事実を見つけた人間が、見つけたものから目を逸らすことはできる。俺は三十年前に、それをやった。今度はやらない」

影山の右手が、ネクタイの結び目へ伸びた。

指が結び目を確かめ、わずかに震える。

「片桐さん。あなたは、ご自分の過ちを語ることで、正しい側へ移れると思っているのですか」

「移るつもりはない」

「では、何を望むのです」

「俺がどちら側にいるかを、決めないことだ。事実が俺を裁くなら、そのまま受ける」

「警察官らしくない言葉ですね」

「警察官である前に、あの夜、見なかった人間だった」

「見なかった?」

影山の声が、初めてわずかに揺れた。

「あなたは、何か見たのですか」

私は答えなかった。

その問いの置き方が、妙に自然だった。影山は私が見逃した証言の中身を知っている。知っているからこそ、私の記憶の穴へ手を差し込もうとする。

「俺が何を見たかを、これから確認する」

「確認できると?」

「地図と写真と証言がある」

「人間の記憶は、後からいくらでも形を変えます」

「だから、資料と突き合わせる」

「資料も人間が作ったものです」

「それでも、残ったものは残った形で扱う」

影山は、少しだけ目を細めた。

「ずいぶん頑固になられました」

「昔からだ」

「昔は、もっと聞き分けがよかった」

その言葉で、会場の音が遠くなった。

影山は知っている。

三十年前、私は上司の机の前で立ち止まり、仙波の証言を本記録へ入れるべきか迷った。上司は書類から目を上げず、「現場の雑音まで拾えば、事件が散らかる」と言った。私はそれに従った。

その場に、影山がいたわけではない。

だが、同じ言い方をした人間がいた。町を揺らすな。家族を傷つけるな。いまさら蒸し返すな。

影山は、あのときの声を知っている。

「昔の話を、よく覚えているな」

私が言うと、影山は微笑んだ。

「町のことは、だいたい覚えていますから」

同じ言葉だった。

さっきまでの柔らかな声が、薄いガラスのように冷えて聞こえた。

会合の司会が、次の議題へ移ろうとした。参加者たちは再び資料へ目を落とし、工事の日程について話し始める。影山は中央の席へ戻り、何事もなかったように隣の老人へ茶を勧めた。

私はその場を離れた。

廊下へ出ると、窓ガラスに雪が張りついていた。久保田が後ろから追ってくる。彼女のケースの中で、古い紙がかすかに擦れた。

「聞こえましたか」

「何が」

「影山さんの言葉です。昔は、もっと聞き分けがよかった、と」

「ああ」

「三十年前に、片桐さんと接触していた可能性があります」

「可能性だ」

「それから、ネガの管理印について、あの人は否定しませんでした」

「印があるだけでは証拠にならない」

「分かっています」

「なら、急ぐな」

久保田は階段の踊り場で足を止めた。下の会場から、影山の笑い声が聞こえてくる。穏やかで、親しみやすい声だった。誰かの不安を受け止め、誰かの肩を軽く叩き、会場の温度を元へ戻していく。

「片桐さん」

「何だ」

「影山さんは、いま、資料の内容より先に、片桐さんの動機を聞きました」

「俺が自分を裁きたいだけだと思わせたい」

「そうかもしれません」

「違うのか」

「違うとは言い切れません」

久保田はケースを抱え直した。

「片桐さんが自分を裁きたいと思っていることと、影山さんに責任があることは両立します。でも、あの人はそれを一つにしたがっている。片桐さんが自分を責めれば、他の人間の証言は必要なくなるからです」

「俺一人の失敗にする」

「はい。『片桐さんが見逃した事件』にしてしまえば、町も署も、影山さんも、過去の中へ戻れる」

私は手帳を開いた。

影山義弘。  会合到着、予定より二十分早い。  白波アパート滞在を認める。  ネガ管理印への回答、曖昧。  「昔は、もっと聞き分けがよかった」

書き終えたとき、背後から足音が近づいた。

影山だった。

会場を出たのか、それとも最初から廊下へ来るつもりだったのか分からない。彼は名刺入れを片手に持っていた。私たちの前で立ち止まり、久保田へも丁寧に頭を下げる。

「失礼しました。先ほどは、少し強い言い方になったかもしれません」

「強いとは思っていません」

久保田が答えた。

「それならよかった。私は、過去を無理に掘り返して、今を傷つけることを心配しているだけです。片桐さんにも、長い刑事生活の最後を、苦いものにしてほしくない」

「苦いかどうかは、俺が決める」

「そうでしょうね」

影山は名刺を一枚、私へ差し出した。

白い紙に、地元支援団体の役職と事務所の住所が印刷されている。裏面には、手書きで携帯電話の番号が加えられていた。

「何か思い出したことがあれば、いつでもご連絡ください。私も、協力できることはいたします」

「お前が思い出したことは」

影山の手が、名刺を差し出したまま止まった。

「私は、先ほど申し上げた通りです。白波アパートへは、住民との相談のために行った。相沢さんとは会っていない。これ以上のことは、記憶が曖昧です」

「曖昧なのに、俺が聞き分けがよかったことは覚えている」

「人間は、重要でないことほど覚えているものです」

「澪のことは重要でなかったか」

影山の笑顔が、わずかに崩れた。

崩れたというより、表情の下に別の顔が重なったように見えた。善良な支援者の顔。その下に、夜の港を知る男の顔がある。

「相沢さんは、町にとって重要な方です」

「町ではなく、名前で呼べ」

「相沢澪さん」

影山は言った。

「彼女のことを、私は忘れていません」

声は低かった。

私はその言葉を聞きながら、影山の指先を見た。名刺の角を揃え、親指で何度も撫でている。紙の端に触れる癖。手元を整えることで、口元の震えを隠す仕草。

「忘れていないなら、なぜ何も言わなかった」

「言うべきことがなかったからです」

「三十年間も?」

「三十年経ったからこそ、言葉には慎重でなければなりません。記憶は人を傷つける刃物です。扱いを誤れば、真実を求める人間さえ傷つく」

「刃物を持ったまま、町を歩いていたのはお前だ」

影山は私を見た。

短い沈黙が落ちた。

会場の扉の向こうで、誰かが笑った。暖房の音が続く。外では雪混じりの雨が、窓を細く叩いている。

影山は名刺を私の手へ押しつけた。

「片桐さん。今さら町を揺らす理由はあるのか」

その言葉は、さっきと同じだった。

柔らかいのに、触れると冷たい。

私は名刺を受け取った。紙の表面は乾いていて、灰色のはがきとは違う。それでも、指先には同じようなざらつきが残った気がした。

「理由ならある」

「どのような」

「まだ終わっていないからだ」

影山の目が、初めて私の手元へ落ちた。

名刺の下に、手帳がある。開いたページには、彼の名前と、欠番ネガと、電柱番号十四―三が並んでいる。

影山はそれを見た。

見たが、何も言わなかった。

代わりに、会場へ戻る前に、私の横を通り過ぎた。肩が触れるほど近かった。外套から、薄い煙草と冷たい雨の匂いがした。

私は振り返らなかった。

階段を下りると、港から吹き上げた風が建物の隙間を抜けてきた。冷気が首筋へ入り、影山の匂いを押し流す。

「名刺、保存しますか」

久保田が言った。

「必要か」

「差出人の手がかりになるかもしれません。紙質、印刷、触れた跡。少なくとも、捨てる理由はありません」

「名刺一枚だ」

「影山さんが、片桐さんへ直接渡した名刺です」

私は手帳の間へ名刺を挟んだ。

「そこへ入れるんですか」

「はがきと同じ場所だ」

「同じ扱いにする理由は」

「紙は、触れた人間を覚えている」

久保田は何も言わなかった。

外へ出ると、雪が本格的に降り始めていた。細かな粒が街灯の光を横切り、地面へ落ちては濡れた黒に変わる。会場の窓からは、まだ影山の姿が見えた。人々に囲まれ、笑い、頷き、誰かの肩へ手を添えている。

その姿は、町の中心に置かれた記念碑のようだった。

壊すには、力が要る。

だが、記念碑は壊さなくてもよい。何を記念しているのかを、明らかにすればいい。

私は歩き出した。

久保田が隣につく。雪の上に、私たち二人分の足跡が伸びていく。新しい足跡は、風が吹けばすぐに薄くなる。それでも、踏み出した場所と向かった方向までは、しばらく残る。

「影山さんは、私たちが何を持っているか知っています」

久保田が言った。

「欠番ネガと地図を見せた」

「見せすぎたかもしれません」

「見せたから、動いた」

「何がですか」

私は会場の窓を振り返った。

影山は、もうこちらを見ていなかった。町内会長へ身を寄せ、何かを説明している。笑顔は戻っている。

「笑顔の下の手だ」

私は名刺の入った手帳を押さえた。

「何かを壊すのではなく、最初から壊れていたように見せる。あの男は、そうやって生きてきた」

「証拠は」

「まだ足りない」

「では、何がありますか」

「笑顔と、沈黙と、紙の角を揃える癖」

「それは証拠になりません」

「知っている」

「なら、次は何を探しますか」

私は港の方角を見た。

海霧の向こうで、防波堤の灯りがぼんやり揺れている。潮の匂いが雪の冷たさに混ざり、古い記憶の皮膚をまた薄く擦った。

「影山が、何を消したのか」

「人ですか。記録ですか」

「両方だ」

私は歩みを止めなかった。

会場の中では、影山の笑顔が町の人々を包んでいる。外では雪が、足跡を一つずつ覆い始めていた。

それでも、手帳の中の名前は消えなかった。

影山義弘。

その四文字が、灰色のはがきの裏に残った二行と、同じ重さで冷えていた。

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会合の笑顔 - 沈黙の一葉 - 誰でも作家life