第10話 第十話「空白へ戻る名」

翌朝、瑞雲楼の廊下には、まだ昨夜の湿りが残っていた。
掃き清めた板の上に、細い水の筋がいくつも走っている。雨は降っていない。それでも、九番の間から帳場の方へ向かう廊下だけが、靴下越しにも分かるほど冷たかった。
私は雑巾を持ったまま、足跡の前で手を止めた。
濡れた跡は、途中で消えていない。帳場机の手前まで続き、そこで一度だけ左へ曲がっていた。まるで、誰かが朱塗りの机を見上げ、それから引き出しの中へ戻っていったようだった。
帳場では、信濃が古い宿帳を開いていた。
いつもなら、紙の端を揃え、綴じ糸の緩みを確かめ、乱れた頁を見つければすぐに直す。その信濃が、今朝は頁を開いたまま動かなかった。
削られた名の欄には、昨日、私が書いた覚え書きと、信濃の印が残っている。朱い丸は少し滲み、消された文字の凹みを縁取っていた。
「源一さんは?」
「祠へ行きました。湯の流れを見てから来るそうです」
「お駒さんは」
「茶を淹れています」
「そうですか」
信濃は返事をしたが、帳面から目を上げなかった。
私は机の脇へ雑巾を置いた。水の跡を拭く気にはなれなかった。足跡は小さく、右の方が浅い。昨夜、石段を下りていったものと同じだった。
「信濃さん」
「はい」
「正式に書く前に、確認したいことがあります」
信濃の指が、頁の端に触れた。
「何をです」
「小松遼という名前を、誰の名前として戻すのか」
信濃が顔を上げた。
「本人の名前でしょう」
「宿帳には、客の名前を書くんですよね」
「そうです」
「では、遼くんは客として戻るんですか。それとも、ここにいた子として記録するんですか」
信濃はしばらく黙っていた。
帳場の奥で、時計の針が一つ進んだ。厨房からは包丁の音が聞こえる。湯の配管を流れる水音に混じり、宿はいつもの朝を動かしていた。
「客として書けば、滞在の記録になります」
信濃はゆっくり言った。
「到着日、部屋、食事、出立。ですが、遼には出立の記録がない」
「だから、客の欄へ戻すだけでは足りない」
「そうです」
信濃は一度、帳面を閉じた。けれど、端を揃えなかった。
「あなたは、何と書くつもりですか」
「まだ決めていません」
「決めていないのに、正式にしろと言った」
「決めるために、みんなに来てもらうんです」
そのとき、帳場の奥から湯飲みの触れ合う音がした。
お駒が盆を抱えて現れた。湯気の立つ茶が四つ、盆の上で静かに揺れている。ひとつだけ、子供用の小さな湯飲みだった。
「お駒さん、それは」
「いつもの分だよ」
「遼くんは、今ここにはいません」
「いないから、置かないのかい」
お駒は盆を机の端へ置いた。小さな湯飲みの脇には、昨日までなかった白い菓子が一つ添えられている。米粉を丸めたような、つやのない菓子だった。
「食べられるんですか」
「食べる子ならね」
「食べなかったら?」
「誰かが食べるよ。食べ残しを残すのは、宿の者の恥だからね」
お駒はそう言いながら、子供用の湯飲みを帳簿から少し離した。
「遼は、客ではないよ」
信濃が言った。
「では、何です」
「……分かりません」
その答えを聞いて、お駒は小さく頷いた。
「分からないものを、分からないまま書くのも記録だよ」
お駒は前掛けのポケットから、薄い紙片を取り出した。濡れて乾いたように波打ち、端が黒ずんでいる。
私は息を止めた。
昨夜、祠の内側で落ちた紙片だった。
「今朝、石段のところにあったんだよ」
お駒は紙片を帳場へ置いた。
そこには、文字がひとつだけ残っていた。
遼。
苗字の部分は水に溶けたように消えている。それでも、その一文字は確かに読めた。筆圧の強い、子供の字だった。
「これを、どこで見つけたんですか」
「石段の三段目。湯の流れが変わったところだね」
信濃が紙片へ手を伸ばした。けれど触れる前に止めた。
「記録に添えるべきでしょうか」
「添えるんじゃないよ」
お駒は茶を一口飲んだ。
「返すんだろう」
その言葉の意味を考えていると、裏口の方から源一が入ってきた。
作務衣の膝まで泥がついている。手には濡れた布と、細い木の札を持っていた。彼は帳場へ来ると、まず子供用の湯飲みを見た。それから紙片を見る。
「湯は落ち着いた」
「封は?」
「結び直した。固くはしていない」
「遼くんは?」
源一は、紙片の一文字を見つめた。
「今朝、祠の中にはいなかった」
「外へ出たんでしょうか」
「分からない。ただ、湯の音がひとつ減った」
「ひとつ?」
「水の中には、音が重なる場所がある。昨日までは、源泉の音に別の音が混じっていた。今朝は、それが離れた」
源一は木札を机へ置いた。
古い札の裏側には、薄く線が引かれている。部屋札のように見えたが、番号は書かれていなかった。
「九番の間の札を外した」
信濃の眉がわずかに動いた。
「勝手に?」
「封を壊したわけじゃない。使うな、という札だけを外した」
「部屋を開けるつもりですか」
「閉じたままにする理由が、もうない」
信濃は帳面へ目を落とした。
「理由がなくなったのではありません。理由を見直す時期が来ただけです」
「どちらでもいい」
源一は短く言った。
「ただ、あの部屋を、遼を留めるための場所にはしない」
四人の間に、湯気の薄い沈黙が落ちた。
私は古い宿帳を自分の方へ引き寄せた。
「ここへ、名前を書きたいです」
信濃が私を見る。
「客の欄ではなく、その下へ。小松遼。大雨の夜、瑞雲楼に運ばれ、九番の間に置かれた子。名前を失ったまま、宿に残った。昨日、名を呼ばれた」
「最後の一文は、記録として不適切です」
「では、どう書けばいいですか」
信濃は答えなかった。
私は筆を持った。指先は震えていたが、昨夜ほどではない。紙の白さは怖かった。けれど、空白のまま残しておく方が、もっと怖かった。
「名前だけでもいい」
お駒が言った。
「最初は、名前だけでいいんだよ。後から、書ける人が書き足せばいい」
私は筆先を紙へ置いた。
小松遼。
一文字ずつ書く。
小松。
遼。
墨は滲まず、紙の奥へ静かに沈んだ。
その瞬間、帳場の奥で、子供用の湯飲みがかすかに鳴った。
誰も触れていない。
私は筆を止めた。
湯飲みの中の茶が、輪を描いて揺れている。小さな波紋はしばらく消えず、やがて中心へ集まった。
廊下から、草履の音がした。
一度。
二度。
今度は帳場の前で止まった。
私は顔を上げた。
湯煙はなかった。朝の光が廊下まで届き、濡れた板を細く照らしている。そこには誰もいない。
けれど、机の下に小さな影があった。
青い格子の裾。
私は立ち上がりかけて、やめた。
追えば、また遠ざかるかもしれない。名前を書いたからといって、すぐに姿を見せる必要はない。ここにいたことを受け取るには、受け取る側にも時間が要る。
「遼」
信濃が呼んだ。
帳場主任の声は、昨日より少し低かった。
「小松遼。瑞雲楼は、お前の名を記録した。もう、空白のままにはしない」
机の下の影が、ゆっくり薄くなった。
お駒は子供用の湯飲みを両手で包み、茶を見つめている。源一は窓の外へ顔を向けた。源泉の方から、細く澄んだ水音が聞こえていた。
私は書き終えた名前の横へ、日付を記した。
その下には、少しだけ余白を残した。
何が起きたかを、これから書き足すための余白だった。
帳場の引き出しへ戻す前に、私は紙片の「遼」をその頁へ添えた。信濃は印を押さなかった。お駒も、源一も、何も言わなかった。
ただ、四人の手が同じ頁の近くにあった。
外で、雨が降り始めた。
細い雨だった。屋根を叩く音が、遠くから近づいてくる。私は反射的に廊下を見た。
九番の間の前に、濡れた足跡がひとつだけ残っていた。
部屋の中から外へ出た跡ではない。
外から、部屋の前まで来た跡だった。
私は誰にも言わず、雑巾を取りに行った。
足跡を消すためではない。
そこへ新しい木札を掛けるために。
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