第9話 掲示板の前で

進路指導室を出ると、ひよりは廊下の途中で足を止めた。
「私は、教室に戻る」
「うん」
「結斗は?」
「掲示板、見てくる」
ひよりは何か言いかけた。けれど、すぐに口を閉じた。いつもなら「一緒に行く」と言うか、「何を見るの」と問い返すところだ。今日は鞄の肩紐を握ったまま、僕の顔を見ている。
「……分かった」
それだけ言って、ひよりは三階へ向かう階段を上がっていった。
足音が遠ざかる。
僕は反対側の階段へ歩き出した。
進路指導室で書いた一行は、クリアファイルの中にある。紙を折らないように挟んだつもりだったが、角は少し波打っていた。消しゴムの粉がまだ指の腹に残っている。親指でこすると、白い粉が薄い灰色の筋になって皮膚へ伸びた。
ひよりの字を消した跡。
その上に書いた、僕の字。
どちらも、完全には消えない。
三階から一階へ降りる階段には、帰り支度をする生徒たちが流れていた。部活へ向かう一年生が、運動靴を抱えて走っていく。誰かが友達の肩を叩き、誰かが教師に呼び止められて、笑いながら振り返る。
その流れの中を歩いていると、自分だけが時間から取り残されているような気がした。
けれど、今朝までとは少し違った。
僕はまだ何者にもなっていない。志望校も、将来の職業も決まっていない。ひよりの字を消したからといって、空白がきれいになったわけでもない。
それでも、僕の字で書いた一行がある。
そのことだけが、鞄の中で小さく重かった。
昇降口前の掲示板は、朝より空いていた。
透明なカバーの内側に、模試結果と推薦希望者の仮調査が並んでいる。紙の端はまっすぐに揃えられ、四隅には透明なテープが貼られていた。誰かが時間をかけて整えたのだろう。けれど、そこに並ぶ名前と数字は、整っているほど冷たく見えた。
校内順位。
判定。
志望校。
推薦希望。
白い紙に黒い文字が並んでいるだけなのに、そこには生徒たちの未来が、本人より先に置かれている。
僕は掲示板の前を通り過ぎようとした。
見なければいい。靴箱の番号でも、床に残った泥の跡でも見ていればいい。
けれど、相沢蓮の名前が目に入った。
志望校の欄。その横に模試の判定。前回からの推移。数字は大きく変わっていない。いつものように、蓮は安定していた。
僕の名前はなかった。
当然だ。推薦希望を出していないし、模試の結果が掲示される場所に立てるほどの成績でもない。
それでも、名前がないことが痛かった。
誰にも選ばれていないみたいだった。
掲示板のガラスに、自分の顔が薄く映っている。蓮の名前が、僕の額のあたりに重なっていた。知らない誰かの成績表に、名前のない写真だけが貼られているように見える。
「見てるだけで、順位は変わらない」
横から声がした。
相沢蓮が立っていた。予備校帰りなのか、肩に鞄を掛けている。手には付箋だらけのテキスト。表紙の角は擦れていたが、紙の束はきっちり揃っていた。
「分かってる」
「なら、見ないほうがいい」
「蓮は見るだろ」
「確認する」
「同じじゃないか」
「違う。確認は次に何をするか決めるためにする。見て落ち込むだけなら、時間の無駄だ」
蓮は掲示板から目を離さなかった。僕は笑おうとしたが、口元だけが動いて、音にならなかった。
「じゃあ、僕は時間を無駄にしてるってことか」
「そうは言ってない」
「でも、そういう顔をしてる」
「どんな顔だよ」
「何も決めてない人を見る顔」
蓮はそこで初めて僕を見た。
その目には、からかいも同情もなかった。ただ、僕が何をしにここへ来たのかを確かめるような静けさがあった。
「進路調査票、持ってる?」
「持ってない」
「嘘」
「なんで分かる」
「さっきから右手で鞄の中を押さえてる」
僕は反射的に手を離した。
クリアファイルの角が、鞄の布越しに指へ当たっている。蓮はそれを見ていたらしい。
「書いたのか」
「少しだけ」
「夢の欄?」
「うん」
「ひよりが書いたものは?」
喉の奥が狭くなった。
「消した」
「そうか」
蓮はそれ以上、訊かなかった。代わりに、掲示板の中の自分の名前へ指を伸ばし、紙の端を一度だけ押さえた。テープが浮いていたらしい。指を離すと、紙は元の位置へ戻った。
「蓮の名前、ずっとここにあるな」
「あるな」
「怖くないのか」
蓮の指が、テキストの表紙を撫でた。
「怖い」
返事が早かった。
「でも、怖いから見ないでいると、数字が勝手に意味を持つ。判定が落ちたら終わりとか、順位が上がれば大丈夫とか。そういうものに自分のことを決められたくないから、見る」
「見て、平気なふりをしてるだけじゃないのか」
「平気なふりはしてる」
蓮は掲示板を見たまま言った。
「志望校を決めたら、そこへ向かっている人間らしくしないといけない。判定が落ちても、予定が崩れても、決めたことを後悔していない顔をする。そうしないと、決めた意味がなくなる気がするからだ」
「蓮でも、後悔するのか」
「する」
「それでも、決めたままなのか」
「今はな」
蓮は一度、口を引き結んだ。
「決めたことを変えないのが責任だと思っていた。でも、最近は少し違うと思う。変えないことより、変えた理由を自分で持つことのほうが大事だ。志望校を変えたら、周りは逃げたと言うかもしれない。けど、自分で考えた末なら、少なくとも俺は自分に嘘をつかずに済む」
「僕には、それができない」
「何が」
「自分で考えた末だって、言えない。何かを選んでも、ひよりが言ったからとか、先生に言われたからとか、蓮に背中を押されたからとか、あとから理由を誰かに返せそうで」
「なら、返さなければいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
蓮は僕へ身体を向けた。
「俺だって、誰かに押されたことはある。家の言葉も、先生の言葉も、模試の数字も、全部混ざっている。自分だけで選んだなんて言えない。でも、最後に名前を書く手は自分のものだった。そこまで他人に渡したら、何を選んでも自分の進路にはならない」
胸の奥に、進路指導室で書いた一行が浮かんだ。
まだ決められない。決めるのが怖いままでも、自分で確かめられることから始めたい。
蓮はそれを知らない。僕が何を書いたのかも、どれだけ消し跡が残っているのかも知らない。それでも、言っていることは紙の上の一行に触れていた。
「書いたなら、出せばいい」
蓮が言った。
「まだ、出すとは決めてない」
「締め切りは十五時だ」
「分かってる」
「決めるまで待っていたら、時間に決められる」
その言葉が、嫌な形で胸に残った。
僕は掲示板の紙を見た。蓮の名前の横にある数字は、努力を数字へ変えたものだ。僕には数字にできる努力すらないように思えた。
「僕の名前はない」
「ないな」
「誰にも見られてない」
「見られてないから、何もしてないとは限らない」
「でも、蓮の名前はある」
「名前があるから、迷っていないわけじゃない」
蓮の指が、テキストの角で止まった。
「お前は、俺が迷わないと思ってるだろ」
「思ってる」
「違う。迷っている時間を、予定表の外へ追い出しているだけだ。朝六時に起きる。七時まで数学。放課後は予備校。帰ったら英単語。そうやって先に行動を決める。迷う暇をなくしている」
「それは強いってことじゃないのか」
「強いなら、迷いを見ても平気なはずだ。俺は、迷いを見ると自分が止まりそうになるから、予定を詰めているだけだ」
蓮の目が、掲示板の数字へ戻った。
「決めた人間が偉いわけじゃない。決めたあとも、毎日、決め直しているだけだ」
僕は鞄の中のクリアファイルへ触れた。
紙の角が指に当たる。
僕は今日、何度も決め直している。ひよりの字を残すか消すか。学校に戻るか逃げるか。書くか書かないか。どれも大きな選択ではない。けれど、迷いながら手を動かしたことだけは、誰にも代わってもらっていなかった。
「蓮」
「何だ」
「僕が今から出したら、遅すぎるかな」
「何に対して」
「みんなに」
「みんなって誰だ」
僕は答えられなかった。
掲示板に貼られた名前。教室で志望校を書き終えた生徒。家で進路を訊く母親。僕より先に決めた人間たち。
蓮は僕の沈黙を見て、ほんの少し目を細めた。
「遅れているかどうかは知らない。けど、書かないままなら、今日より明日は楽になると思うか」
「……たぶん、ならない」
「なら、書かない理由にはならない」
「何を書けばいいのか分からない」
「分からないなら、分からないところから書け」
「それを夢の欄に?」
「夢の欄だからこそだろ」
蓮は、そこで初めて少しだけ笑った。笑ったというより、笑いそうになるのを抑えた顔だった。
「立派な職業名を書けとは言われていない。今の自分が何を考えているかを書けと言われているだけだ。怖いなら怖いと書け。決められないなら、決められないと書け。ただし、自分で書いたものを、誰かのせいにはするな」
廊下を、生徒が二人通り過ぎた。ひとりがこちらを見て、すぐに掲示板へ視線を移す。紙の端で指を切ったような痛みが、遅れて背中へ走った。
僕は鞄を開けかけた。
けれど、手が止まる。
ここで紙を出せば、また蓮の言葉に押される気がした。ひよりの字を消したのも、進路指導室で書いたのも、僕の意思だったのか分からなくなる。
蓮は僕の手元を見ていたが、何も言わなかった。
急かさないことが、蓮にもできるのだと初めて知った。
「俺は行く」
蓮が鞄を肩へ掛け直した。
「予備校?」
「そう。今日は英語の小テストがある」
「こんな時間から?」
「予定は予定だ」
「すごいな」
「すごくない。遅れたくないだけだ」
蓮は掲示板を一度だけ振り返った。
「篠宮」
「ん?」
「遅れても、書かないよりはましだ」
短い言葉だった。
けれど、その声には、僕を置いていく人間の冷たさがなかった。先に進んでいる人間が、後ろから手を引くでもなく、ただ自分の足で歩けと告げている声だった。
「蓮は、僕を待たないのか」
「待たない」
「冷たいな」
「待たれると、待ってくれていることを言い訳にするだろ」
僕は息を止めた。
蓮は続けた。
「俺も、誰かが待っていると思うと、遅れていい気がする。だから待たない。けど、追いつけないとは思っていない」
それだけ言うと、蓮は昇降口の外へ向かった。
背中はまっすぐだった。鞄の重さを感じさせない歩き方で、けれど一度だけ、靴紐を確かめるように足を止めた。結び目を見下ろし、指で締め直す。すぐに立ち上がり、校門の向こうへ消えていった。
蓮も、立ち止まる。
ただ、立ち止まったあとで、結び直している。
僕は掲示板の前に一人残った。
人が減ると、昇降口は急に広くなった。外から入る風が、汗で張りついた制服の襟を揺らす。さっきまで熱かった床が、夕方の光を吸って少しずつ冷えている。
僕は鞄の中から進路調査票を取り出した。
紙は、ひよりの字を消した跡で白く曇っている。その上に、僕の字がある。文字は枠から少しはみ出し、最後の線だけが妙に濃い。
完成した答えではない。
けれど、白紙でもない。
掲示板のガラスに映った自分の顔を見る。朝より疲れている。目の下には影があり、髪は汗で乱れている。それでも、名前のない写真には見えなかった。
まだ、僕の名前はどこにも貼られていない。
それでいい、とまでは思えない。
けれど、名前が貼られるのを待つだけではなく、自分の手で何かを書いた。その事実は、数字の外側に残っている。
僕は紙をクリアファイルへ戻した。
職員室前の提出箱へ向かうため、身体の向きを変える。
背後の掲示板には、蓮の名前が残っている。白い紙に黒い文字。整った数字。誰かが決めた未来の一覧。
僕の未来は、まだそこにはない。
だからこそ、僕は歩き出した。
遅れているのかもしれない。何を選ぶのか、まだ分からない。次に書く言葉が、今日の一行と同じになる保証もない。
それでも、書かなかった時間を、誰かのせいにしたままにはできなかった。
職員室前の廊下へ出ると、遠くに白い提出箱が見えた。
黒い口が、夕方の光の中で開いている。
僕は鞄の中の紙を押さえた。指先に、消しゴムの粉と紙のざらつきが返ってくる。
今度は、逃げるために握ったのではなかった。
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