8話 ひよりの手、止まる

僕が書いた一行を、ひよりはすぐには読まなかった。

進路指導室の机の上で、進路調査票は少しだけ斜めになっている。夢の欄には、ひよりが書いた文字を消した跡が白く曇り、その上から僕の字が枠線を越えて伸びていた。

まだ決められない。決めるのが怖いままでも、自分で確かめられることから始めたい。

紙の上に並んだ文字は、立派ではなかった。職業名も、志望校も、具体的な計画もない。朝から何度も逃げようとして、駅前まで走って、消しゴムの粉を指に貼りつけて、それでも最後まで残った言葉だった。

ひよりは、その一行から目を離した。

いつものように笑わなかった。

冗談も言わなかった。

僕の字が枠からはみ出していることにも、最後の「たい」が少し潰れていることにも、指を伸ばさなかった。ただ、膝の上で握った手の力が抜けていくのが見えた。肩がわずかに落ちる。まつ毛が一度揺れて、それから伏せられた。

ひよりが黙ると、部屋の音が急に近くなる。

窓の隙間から入る風。書類棚のどこかで紙が擦れる音。壁時計の秒針。さっきまでファミレスの冷たい空調の中にいたせいか、進路指導室の静けさは皮膚に直接触れてくるようだった。

「……ごめん」

ひよりの声は、紙の上へ落ちる前に消えそうだった。

僕は返事をしなかった。

謝られたら、許すべきなのだと思っていた。相手がこんな声を出したら、もういいよ、と言うべきなのだと。いつもの僕なら、そうやって場を丸くする。ひよりが悪いと言い、僕も悪かったと言い、どちらも悪くないことにして、明日から元通りにする。

けれど、今日はそれができなかった。

「ごめん。勝手に書いたこと。結斗がまだ自分で選んでないものを、選んだみたいにしたこと。結斗の机から下書きを持っていって、勝手に読んで、勝手に繋げて、勝手に完成させたこと。全部、私がやったことだから」

ひよりは一度息を吸った。いつもの早口なら、ここで言葉をいくつも重ねるはずだった。けれど、今日は一つずつしか出てこない。

「結斗が怒るのは当然だよ。私だって、誰かに同じことをされたら嫌だと思う。何を考えているかまだ分からないのに、分かった顔をされて、これがあなたの望みでしょって紙に書かれたら、たぶん、すごく嫌だ。しかも、それが自分のことをよく見ている人だったら、余計に嫌だと思う。見てくれていたことまで、拒まなきゃいけなくなるから」

僕は紙の端を押さえた。

消しゴムの粉が親指の腹に残っていた。こすると白い粉が灰色に伸び、僕の皮膚に薄い線を作る。ひよりの字を消した跡も、同じように紙の上へ残っていた。

「それだけで、全部片づけるつもり?」

「ううん」

「ごめんって言えば、僕が怒ったことも、ひよりが書いたことも、なかったことになるみたいで嫌だ」

「うん。ならない」

「じゃあ、何で謝ったんだよ」

「謝らないと、始まらないから」

ひよりは顔を上げた。

「私、謝るのも先回りみたいで嫌なんだけど。でも、結斗が許すかどうかを待たずに、まず自分が悪かったって言う必要はあると思った。許してもらうためじゃなくて、私がやったことを、私のものとして置くために」

その言葉を聞きながら、僕はひよりの手を見ていた。

いつもなら落ち着きなく動いている。机の上の紙を揃えたり、シャーペンを回したり、僕の消しゴムを勝手に拾って筆箱へ戻したりする。何かを言いにくいときほど、先に手が動く。

でも今は、動かなかった。

ひよりの指は膝の上で固まっている。紙へ伸びかけることも、僕の机へ触れることもない。

「ひよりは、僕のことを助けたかったんだよな」

僕が言うと、ひよりの指先がわずかに縮んだ。

「うん」

「僕がこのまま何も書けないで、先生に呼ばれて、家でも何か言われて、また笑ってごまかすのが嫌だった」

「うん」

「僕が何も決めないまま、誰かに決められるのを待ってるように見えた」

「……うん」

「だから、先に書いた」

「そう」

「でも、僕が書いた一行を見て、今は何も言わない」

ひよりは視線を紙へ戻した。

「言ったら、また私が結斗の言葉に何か足すから」

「足せばいいじゃん。いつもみたいに」

「いつもみたいには、もうできない」

その返事は静かだった。諦めたというより、初めて自分の手を自分で止めている声だった。

「結斗の一行を見たら、すごいねって言いたくなった。ちゃんと書けたじゃんって言いたくなった。怖いままでも書いたんだねって、言いたくなった。でも、そう言ったら、その言葉を結斗が欲しがっているかどうかを訊かないまま、私がまた結論を置くことになる気がした」

「褒めるのも駄目なのかよ」

「駄目じゃないよ。でも、私が褒めたいから褒めるのと、結斗が何を思っているかを知りたいのは、違うから」

ひよりはそこで口を閉じた。

その沈黙が、僕には不思議だった。ひよりが黙っているのに、逃げている感じがしない。空気を軽くするために話題を探しているわけでもない。僕の答えを急いで形にするために、頭の中で候補を並べているわけでもない。

ただ、そこにいる。

霧島先生は、机の端に置いた赤ペンへ視線を落としていた。僕らの会話に口を挟まない。けれど、何も聞いていないわけでもない。ときどき紙の角や、ひよりの手元へ目を向けている。

「栗原さん」

霧島先生が呼んだ。

「はい」

「あなたは、今、何を待っていますか」

ひよりの喉が動いた。

「結斗が、これでいいって言うのを」

「それは、あなたが安心するための言葉ではありませんか」

ひよりの手が、膝の上で強く握られた。

「……そうかもしれません」

「では、待つ相手を間違えています。結斗くんが何と言うかではなく、何も言わない時間を、あなたがどう過ごすかを考えなさい」

ひよりは黙った。

霧島先生は、僕の書いた一行へ視線を移した。

「書いた本人が、まだ迷っている。そこへ他人が感想を急いで置くと、本人は自分の感想を持つ前に、相手の言葉を受け取ることになります」

「……はい」

「待つことは、放っておくことではありません。相手の言葉が出てくるまで、自分の言葉を一度しまっておくことです」

ひよりは小さく頷いた。

それから、机の上に置かれていた僕の消しゴムへ手を伸ばしかけた。

僕は反射的に、その動きを目で追った。

角が丸くなった古い消しゴム。中学の頃から、僕とひよりのあいだを行ったり来たりしている。貸した記憶より、返された記憶のほうが多い。ひよりが忘れたときに僕が渡し、僕が落としたときにひよりが拾い、いつの間にかどちらのものか分からなくなった。

ひよりの指が消しゴムの手前で止まった。

触れることはできる。机の端へ寄せることも、僕の筆箱へ戻すこともできる。けれど、ひよりは手を引いた。

そして、消しゴムをそっと僕の側へ戻した。

たったそれだけの動作だった。

けれど、いつもなら無意識にやっていることを、今日は意識して止めたのだと分かった。

「それ、返すの?」

僕が訊いた。

「うん」

「別に、ひよりが使ってもいいけど」

「今は、勝手に触らないほうがいいと思って」

「消しゴムくらいなら、いいだろ」

「そういう小さいところから、勝手にしてたから」

ひよりは消しゴムを見たまま言った。

「机の上を整えるのも、ノートを覗くのも、紙を拾うのも、結斗が困っていそうなら何でも触っていいと思ってた。結斗の困りごとに触るのは、結斗の近くにいる私の役目だと思ってた。でも、近くにいることと、触っていいことは違うんだよね」

僕は何も言えなかった。

ひよりの善意は、嘘ではなかった。だから、単純に突き放せない。ひよりが僕のことを見ていたことも、困っていると思って手を伸ばしたことも、全部、本当だった。

ただ、本当だから正しいとは限らない。

ひよりは僕の未来を奪いたかったわけではない。けれど、奪うつもりがなかったことと、僕の手から紙を奪ったことは別の話だった。

「ひより」

「なに」

「僕、怒ってる」

「うん」

「まだ、かなり怒ってる」

「うん」

「でも、ひよりがいなかったら、僕は今日ここまで来てないと思う」

ひよりの顔がわずかに歪んだ。

泣くほどではない。笑うほどでもない。ただ、どちらにも行けない表情だった。

「それ、言わないで」

「何で」

「それを言われると、私がやったことまで正しかったみたいに聞こえるから」

「正しかったとは言ってない」

「でも、私にはそう聞こえる。結斗が怒ってくれて、消してくれて、自分で書いてくれたから、結果的には私が先に書いたことも役に立ったんだって、そう思いたくなる。そう思ったら、また同じことをするから」

ひよりは紙を見たまま続けた。

「私、役に立ちたいんだよ。結斗の隣にいる理由が欲しい。結斗が自分で何かを決めたら、私は必要なくなるんじゃないかって、ずっとどこかで思ってた。だから、結斗が困っていると安心してたわけじゃない。でも、私が動ける場所があるって思ってた。結斗が何も言わなくても、私なら分かるって思ってた」

ひよりの声が、少しずつ掠れていく。

「分かりたかったんだよ。結斗が自分でも分からないことまで、私が分かってあげたかった。そうすれば、結斗が一人で困らなくて済むし、私も、そばにいる意味をなくさずに済むから」

僕は、机の上の一行を見た。

自分で確かめられることから始めたい。

ひよりが書いた言葉を消したあと、僕は初めて、その言葉が誰かを必要としながら、誰かに決められることを拒む言葉なのだと気づいた。

ひよりにそばにいてほしい。

でも、僕の代わりにはなってほしくない。

それを、僕は今まで一度も言わなかった。

「ひよりがいなくても、僕は困ると思う」

「……え?」

「でも、ひよりが決めた僕を見ていたら、僕はもっと困る」

ひよりの目が上がった。

「僕は、ひよりに分かってほしい。でも、分かった形にされたいわけじゃない。僕が何を考えてるか分からないときは、分からないままでいてほしい。僕も分からないから。ひよりが先に答えを出すと、僕はその答えが本当かどうかを考えるだけで、自分の答えを探せなくなる」

言葉を続けるほど、喉が乾いていった。

「だから、今日のことは嫌だった。すごく嫌だった。でも、ひよりが僕のことを見てくれてたことまで嫌なわけじゃない。そこを一緒にしないでくれ。僕も、ひよりが勝手に書いたことと、ひよりが心配してくれたことを、一緒にして怒るのをやめるから」

ひよりは、すぐには返事をしなかった。

霧島先生も何も言わない。

窓の外で、部活動の掛け声が一度だけ大きくなり、それから遠ざかっていく。夕方の風がカーテンを揺らし、机の上の紙の角をわずかに浮かせた。

ひよりの手が動いた。

今度は、紙へ伸びた。

僕は身構えた。けれど、ひよりの指は進路調査票には触れず、机の端に置かれた消しゴムを僕の筆箱の横へ置いただけだった。

「そこなら、結斗が自分で取れる」

「うん」

「取らないなら、そのままにする」

「分かった」

ひよりは手を引いた。

それから、紙を見た。

笑わずに。

直そうともせずに。

僕が書いた一行を、ただ書いたものとして受け止めるように。

「結斗」

「なに」

「これ、私が読んでもいい?」

「もう読んでるだろ」

「そうじゃなくて。読んでいいって言われてから、ちゃんと読みたい」

僕は紙をひよりのほうへ向けた。

ひよりは両手を膝から離したが、用紙には触れなかった。目だけで、一行を追っていく。途中で眉を寄せることも、頷くこともない。何かを理解した顔を作ろうともしていない。

読み終えたあと、ひよりは小さく息を吐いた。

「うん」

「感想、それだけ?」

「うん。それだけ」

「珍しいな」

「失礼だなあ」

ひよりは笑いかけた。

けれど、その笑いはすぐに消えた。僕の言葉を明るく包むための笑顔ではなく、笑っていいかどうかを考えた末に、少しだけ口元が緩んだような笑いだった。

「今は、何も足さない」

ひよりが言った。

「結斗が書いたものに、私の感想を貼りつけたくない。すごいとか、偉いとか、ちゃんと前に進んだとか、そういう言葉で結斗の一行を囲いたくない」

「囲う?」

「うん。言葉で囲うと、逃げられなくなるから。結斗があとで違うと思ったときに、私が褒めたから変えられない、みたいになったら嫌だし」

ひよりは、紙の外側を見た。

「書き直していいんだよね」

「うん。先生も、蓮もそう言ってた」

「じゃあ、書き直していい。私が今、いいと思ったからじゃなくて、結斗が違うと思ったら」

「ひよりが嫌でも?」

「嫌だよ。たぶん、すごく嫌。でも、嫌だから残してって言うのは、私の問題を結斗の紙で解決しようとすることだから」

僕は、ひよりがそこまで言えることに驚いていた。

ひよりは変わったわけではない。手を出したい癖も、役に立ちたい焦りも、たぶん明日にはまた顔を出す。それでも、今は一度、手を止めている。

それだけで、何かが変わることはあるのだと思った。

霧島先生が、机の上の赤ペンを僕のほうへ滑らせた。

「もう一度、書き直しますか」

「……はい」

「栗原さん」

「はい」

「あなたは、見ていられますか」

ひよりは僕を見た。僕の手元ではなく、顔を見た。

それから、返事をする前に一拍置いた。

「見ていられます」

その声は、いつものように速くなかった。

「結斗が何を書くか、私が決めない。書き終わるまで、口を出さない。もし手を出しそうになったら、自分の手を見ます」

「手を?」

「はい。動きそうになったら、止めるために」

霧島先生は頷いた。

「それで十分です」

僕はシャーペンを持った。

紙の上には、僕の一行がある。その横には、ひよりの消し跡がある。どちらも消えない。どちらかだけを選んで、もう一方をなかったことにはできない。

芯先を紙へ置く。

ひよりの手は、膝の上で動かなかった。

僕はそのことを確かめてから、ゆっくりと次の言葉を書き足した。

決めるのが怖いままでも、自分で確かめられることから始めたい。

線が紙を擦る音が、静かな部屋に続いていく。

途中で芯が震えた。字が少し歪んだ。けれど、ひよりは何も言わなかった。消しゴムを取ろうとも、書き方を直そうとも、僕の手元を覗き込もうともしない。

ただ、そこにいる。

僕が書き終えるまで。

書き終えたとき、僕はシャーペンを置いた。

「……書けた」

誰に言うでもなく呟いた。

ひよりは、すぐには笑わなかった。

「うん」

今度の返事には、先回りも結論もなかった。

僕が書いた一行が、まだ未完成のまま、僕のものとして机の上に残っていた。

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ひよりの手、止まる - 白紙の先へ - 誰でも作家life