第7話 夜の進路指導室

提出箱の前まで来たところで、僕の足は止まった。
白い箱の口が、目の前にある。あと一枚、紙を落とせばいい。それだけなのに、指が動かなかった。
クリアファイルの中には、カフェ・ルナで書いた一行がある。
まだ決められない。決めるのが怖い。でも、怖いままでも、誰かが決めた言葉を自分のものにしたくはない。
僕の字だった。少し右へはみ出し、最後の文字が枠線に重なっている。書き終えた直後は、それでいいと思った。少なくとも、ひよりの字ではない。誰かに整えられた未来ではなく、自分の手で残した迷いだった。
それでも、提出箱の前へ来ると、紙の重さが変わった。
「入れないの?」
ひよりが、半歩後ろから訊いた。
僕は返事をする前に、一拍置いた。いつもの癖だった。けれど、今日はその一拍のあいだに笑わなかった。
「分からない」
「うん」
ひよりは、それ以上言わなかった。
以前なら、すぐに「大丈夫」とか、「とりあえず入れちゃえば」とか、何かしらの言葉を挟んだはずだ。けれど彼女は黙っていた。黙ったまま、僕の手元を見ている。紙を奪うでもなく、箱へ押し込むでもなく、ただ待っている。
その沈黙が、かえって僕を追い詰めた。
待たれている。
待たせている。
どちらも、今までの僕にはなかった感覚だった。
廊下の時計が、秒針を刻んでいる。十四時四十三分。秒針が一つ進むたび、紙の白さが少しずつ薄くなるような気がした。
「篠宮くん」
霧島先生が、提出箱の横で僕を見ていた。
「入れられないなら、無理に手を離さなくていいでしょう」
「でも、締め切りが」
「あと十七分あります」
「十七分しかありません」
「十七分もあります」
先生はそう言って、進路指導室の鍵を取り出した。金属が小さく触れ合い、静かな廊下に響く。
「来なさい」
「どこへ」
「見れば分かります」
先生は先に歩き出した。歩幅は速くも遅くもない。僕がついてくるかどうかを確かめるために振り返ることもしなかった。
ひよりが、僕の横へ並びかけて、すぐに半歩下がった。
僕はクリアファイルを握り直し、霧島先生の後を追った。
階段を上る。
一段ごとに、靴底が乾いた音を立てた。昼間なら、誰かの笑い声や部活へ向かう足音が混じるはずなのに、放課後の校舎は音の隙間が広い。踊り場の窓から見える空は、夕方の色へ変わりかけていた。白かった光が少しずつ橙色を帯び、校舎の壁に長い影を落としている。
僕のシャツは汗を吸ったままだった。襟が首に貼りつき、階段を上がるたびに肌を擦る。ポケットの中の紙が太腿に当たる。紙のざらつきが、布越しにも伝わってくるようだった。
三階の廊下の突き当たりに、屋上への立入禁止扉がある。
灰色の扉は、今日も閉まっていた。蝶番の隙間から、夕方の細い光が漏れている。向こう側には空がある。今なら、屋上からなら少し広く見えるのかもしれない。
けれど、霧島先生は扉を通り過ぎた。
僕も立ち止まらなかった。
進路指導室の前で、先生が鍵を差し込む。錠が外れる音は、校舎の静けさの中で妙に大きかった。
「どうぞ」
扉が軋んだ。
部屋の中は、昼間より狭く感じられた。白い書類棚が壁一面に並び、進路資料の背表紙が同じ高さで揃っている。机の上には赤ペンが何本も置かれ、どれもペン先を同じ方向へ向けていた。
窓は少しだけ開いていた。外から入る風は涼しくなりかけていたが、紙をめくるほどの強さはない。カーテンがわずかに膨らみ、すぐに元へ戻る。
霧島先生は机の向こうへ座った。
僕とひよりは、向かいの椅子に並んで腰を下ろす。椅子の脚が床を擦った。ひよりは背筋を伸ばしたまま、手を膝の上で組んでいる。いつもなら、手持ち無沙汰にペンを回しているはずなのに、今日は何も持っていなかった。
僕は進路調査票を机の上へ置いた。
先生は、すぐには手を伸ばさなかった。
まず紙を見る。クリアファイルの角、消し跡の残る夢の欄、枠線からはみ出した僕の字。親指についた消しゴムの粉まで、見られている気がした。
「カフェ・ルナで書いたのですね」
「はい」
「その一行を、そのまま提出するつもりでしたか」
「そのつもりでした」
「では、なぜ提出箱の前で止まったのでしょう」
僕は紙の端を撫でた。
「書いたあとで、これが本当に自分の言葉なのか分からなくなりました」
「あなたが書いたのに?」
「書いたのは僕です。でも、蓮に言われて、ひよりに見られて、先生にも書けと言われて。その全部が混ざっている気がします。自分で書いたつもりでも、誰かに押された場所で書いたなら、それは自分の言葉じゃないんじゃないかって」
先生は一呼吸置いた。
「誰にも影響されずに書かれた言葉など、ほとんどありません。家族の言葉、友人の言葉、読んだ本、見た景色。人は他人から受け取ったものを混ぜて、自分の言葉を作ります」
「でも、ひよりの字で書かれたものは嫌でした」
「ええ」
「それは、ひよりが僕の代わりに書いたからです。僕がまだ選んでいないものを、選んだ形にされたから」
「では、相沢くんや私の言葉は、あなたの代わりに選んだものではない?」
「……違います」
「なぜ?」
答えを探すあいだ、窓の外で鳥が一度鳴いた。遠くで運動部の掛け声が聞こえ、すぐに消える。
「蓮は、僕に答えを渡さなかった。先生も、答えをくれなかった。二人とも、僕が自分で決めるしかないって言っただけです」
「それなら、押されたのではなく、立たされたのでしょう」
「立たされた?」
「自分で立つ場所へ」
霧島先生の声は静かだった。静かなのに、机の上の紙より重く聞こえた。
「あなたは、ずっと空白の後ろに立っていた。空白があるから、誰もあなたを責められない。決めていないから、間違えてもいない。けれど、その場所に立ち続けるには、時間が要る。今日のように締め切りが来れば、空白も一つの選択として扱われます」
「空白を選んだつもりはありません」
「そうでしょうね。多くの人は、選んだつもりのない場所に長く留まります。しかし、留まった時間もまた、その人の人生です」
胸の内側が、ゆっくりと押し広げられた。
僕は白紙を守っていた。誰にも決められないために。失敗しないために。けれど、白紙のままでいれば、誰にも決められない代わりに、自分でも何も選べない。
ひよりが、隣でわずかに身じろぎした。
「先生」
ひよりの声は小さかった。
「私、結斗の紙を埋めました」
「知っています」
「私が書いたことを消したら、結斗が全部、自分で書き直せると思っていました。でも、消しても白紙には戻らなかった。消し跡が残って、結斗が書いた一行も、私が書いた跡の上にある。私、たぶん、書く前から結斗を助けたかったんです。結斗がどうしたいかを聞くより先に、結斗が困らない形を作りたかった」
ひよりは膝の上で指を組み直した。爪が白くなっている。
「困っている人がいたら、すぐに手を出すのが優しさだと思っていました。何もしないで見ているのは、見捨てるのと同じだと思っていた。でも今日、結斗が怒って、それで初めて分かりました。私が手を出した場所に、結斗の手を置く場所がなかったんです」
霧島先生はひよりを見た。
「それを、栗原さん自身の言葉で話せているなら、もう以前とは違います」
「でも、またやるかもしれません」
「ええ。人の癖は、今日一日で消えません」
「……先生、そこは大丈夫って言ってくれないんですね」
「大丈夫である必要はありません。次に手を出す前に、一度だけ待てればいい。その一度を積み重ねるほうが、根拠のない大丈夫より確かです」
ひよりは黙った。
僕は彼女の横顔を見た。明るく整えられていた表情から、少しずつ余分なものが落ちている。笑って平気なふりをするための力が抜けて、そこに疲れた十七歳の顔が残っていた。
「ひより」
「なに」
「僕も、言わなかった」
「うん」
「嫌なら嫌って言えばよかった。書かれたくないなら、書くなって言えばよかった。なのに、いつもみたいに笑って、あとでって言った」
「うん」

「だから、ひよりだけが悪いわけじゃない」
ひよりは僕を見た。目の奥に、すぐに何かを返そうとする光が浮かんだ。けれど、それを言葉にする前に一度飲み込んだ。
「でも、私が勝手に書いたことは悪いよ」
「うん」
「そこは、うんなんだ」
「悪いものは悪いだろ」
「結斗、今日ちょっと厳しい」
「ひよりがそうしたんだろ」
「何を?」
「僕に自分の言葉で言えって」
ひよりは、少しだけ口元を緩めた。
「そっか」
それ以上は言わなかった。
進路指導室の壁時計が、十四時五十二分を指した。
あと八分。
先生は机の端に置いていた赤ペンを、僕の前へ滑らせた。
「提出する前に、もう一度だけ書き直しても構いません」
赤ペンは紙に触れなかった。ただ、僕と用紙のあいだに置かれた。
「何を書けばいいんですか」
「それを私に訊く限り、まだ書けないでしょう」
「でも、夢の欄です」
「夢という言葉が大きすぎるなら、今のあなたがどこへ向かいたいかを書けばいい」
「向かいたい場所が分からない」
「場所でなくてもいい。人になりたいのか、何かを知りたいのか、誰かと関わりたいのか。職業名でなくても、選び方はあります」
僕は紙を見た。
ひよりの字を消した跡。僕がカフェ・ルナで書いた一行。そこには、まだ決められないという言葉がある。それは嘘ではない。今も決められない。
けれど、決められないことだけを書いて、そこで終わるのは違う気がした。
僕はシャーペンを取り出した。芯は細く出ている。指で一度回し、持ち直す。
ひよりがこちらを見た。
けれど、何も言わなかった。
その沈黙が、今度は怖くなかった。
僕は、ひよりの消し跡の上へ、もう一度だけ文字を置いた。
まだ決められない。
そこまでは、同じだった。
続けて、ゆっくりと書く。
決めるのが怖いままでも、自分で確かめられることから始めたい。
文字は少し歪んだ。最後の「たい」が枠の外へ出た。シャーペンの芯が紙を擦る音だけが、部屋の中に続いている。
書き終えたとき、手のひらに汗が滲んでいた。
僕はシャーペンを置いた。
「……書けました」
声にすると、ひどく小さかった。
霧島先生は、すぐには紙を取らなかった。
「読み上げますか」
「自分で?」
「あなたの言葉ですから」
僕は喉を鳴らした。
「まだ決められない。決めるのが怖いままでも、自分で確かめられることから始めたい」
言葉が部屋の中へ出ていく。
立派ではない。具体的な職業名も、志望校もない。けれど、朝からずっと胸の中にあったものを、初めて隠さずに声にした。
ひよりは黙って紙を見ていた。
僕は彼女の表情を見ようとしたが、途中で視線を紙へ戻した。どう思われるかを確かめるために書いたわけではない。笑われるかもしれない。物足りないと言われるかもしれない。それでも、この一行を誰かの評価で変えたくなかった。
霧島先生が、ゆっくりと紙を受け取った。
指先が、僕の消し跡を避けずに触れる。紙は少し波打っていた。ひよりの筆跡も、僕の字も、消しゴムの粉も、すべて一枚の中に残っている。
「受け取ります」
先生は言った。
「これは完成した答えではありません」
「はい」
「ですが、あなたが今日、自分で書いた記録です。書き直すなら、次も自分で書きなさい」
「分かりました」
先生は赤ペンを紙の脇へ置いた。すぐに添削するわけではない。ただ、そこにあるものをそのまま受け取った。
壁時計の秒針が、十四時五十九分を越えた。
霧島先生は立ち上がり、進路調査票をクリアファイルへ戻した。ファイルの角を揃え、僕へ差し出す。
「職員室前の提出箱へ入れてきなさい」
僕はファイルを受け取った。
ひよりも立ち上がった。だが、扉へ向かう僕より先には行かなかった。
廊下へ出ると、夕方の光がさっきより濃くなっていた。窓の外の空は、青の底に薄い橙色を溶かしている。校庭では、部活を終えた生徒が何人か走っていた。誰かが笑い、誰かがボールを蹴る音がする。
屋上への扉は、まだ閉じている。
僕はその前を通り過ぎた。
ひよりの足音が、隣ではなく、半歩後ろからついてくる。
「結斗」
「なに」
「提出したら、帰りにコンビニ寄ってもいい?」
「またアイス?」
「今度は勝手に選ばない。結斗が選んで」
僕は少し考えた。
「甘すぎないやつ」
「分かってる」
「分かってるなら、訊くなよ」
「訊くのが大事なんでしょ」
ひよりは笑った。
その笑いに、まだ少しぎこちなさが残っていた。けれど、僕はもう、そのぎこちなさを埋めようとは思わなかった。
職員室前の廊下に、提出箱が見えてくる。
白い箱。黒い口。
僕は立ち止まらず、そのまま歩いた。クリアファイルを開き、進路調査票を取り出す。紙の端が指先に触れる。ざらつきと、消しゴムの粉の名残が、まだそこにあった。
僕は紙を折らずに、両手で持った。
ひよりが、半歩後ろで止まる。
今度は、僕が振り返らなかった。
箱の口へ、進路調査票を差し入れる。
紙が底へ落ちる音は、驚くほど小さかった。
それでも、その音を聞いた瞬間、肩の内側に入っていた力が少し抜けた。
「入れた」
僕が言うと、ひよりが答えた。
「うん」
たったそれだけだった。
けれど、今日はその短い返事の中に、先回りも、結論もなかった。僕が書き終えるまで待った人間の声がした。
窓の外で、夕方の風が校舎の壁を撫でていく。
まだ、何になりたいのかは分からない。
それでも、紙を白いまま隠していたときより、空は少しだけ広く見えた。
← 横にスクロールして読み進められます
