第6話 掲示板の数字

学校へ戻る道で、ひよりは僕の半歩後ろを歩いていた。
先に行かない。けれど、離れもしない。
カフェ・ルナを出てから、僕たちはほとんど話していなかった。駅前の信号を渡るときも、校門をくぐるときも、ひよりは僕の進路調査票に手を伸ばさなかった。ポケットの中のクリアファイルが歩くたびに太腿へ当たり、そのたびに、消し跡の残る夢の欄を思い出した。
僕が自分で書いた一行。
まだ決められない。決めるのが怖い。でも、怖いままでも、誰かが決めた言葉を自分のものにしたくはない。
紙の端から少しはみ出した、乱れた字だった。夢と呼ぶには弱く、進路希望と呼ぶには正直すぎる。それでも、ひよりの筆圧ではなく、僕の指先から出た線だった。
校舎の外壁は午後の光を吸って白く光っていた。窓から吐き出される熱気が、校門のあたりまで流れてくる。さっきまでいた場所なのに、戻ってきた学校は、出ていく前より高く、閉じて見えた。
「昇降口まで、先に行く?」
ひよりが訊いた。
「うん」
返事をしてから、僕は少し考えた。
「いや。掲示板のところで、止まりたい」
ひよりは何も言わなかった。ただ、歩幅を僕に合わせた。
昇降口前には、相変わらず生徒が行き交っていた。部活動へ向かう一年生が、靴箱の前で運動靴を抱えている。廊下の向こうでは、誰かが先生に呼び止められていた。笑い声も、上履きの擦れる音も、昼休み前と変わらない。
その中で、掲示板だけが静かだった。
透明なカバーの内側に、模試結果と推薦希望者の仮調査が並んでいる。紙の端はまっすぐ揃えられ、四隅には透明なテープが貼られていた。誰かの手で丁寧に整えられた紙の上に、名前と数字が並んでいる。
校内順位。
判定。
志望校。
推薦希望。
努力も、不安も、家の事情も、途中で投げ出した記憶も、そこには書かれていない。ただ、結果らしいものだけが、他人にも見える形で置かれている。
僕は掲示板の前で足を止めた。
相沢蓮の名前は、すぐに見つかった。
志望校の欄。模試判定。前回からの推移。数字はどれも大きく変わっていない。蓮が毎日同じ時間に勉強して、同じページを開き、逃げたくなった日も予備校へ行った。その積み重ねが、紙の上ではいくつかの数字に置き換えられている。
僕の名前はなかった。
当然だった。推薦希望の紙にも、模試結果の一覧にも、僕の名前が載る理由はない。
それなのに、そこに自分の名前がないことが、ひどく痛かった。
掲示板のガラスに、自分の顔が薄く映っている。相沢蓮の名前が、僕の額のあたりに浮かんでいた。知らない誰かの名前を貼りつけられたみたいだった。
「まだ見るんだ」
隣で、ひよりが言った。
「見てない。見えてるだけ」
「それ、結斗がよく使う言い方」
「便利だから」
「便利な言葉って、だいたい本当のことから逃げるために使うよね」
以前なら、僕はそこで笑っていたと思う。けれど今日は笑えなかった。
ひよりは僕の隣に立っている。掲示板を見ているようで、目は紙より僕の手元を気にしていた。僕がポケットの上からクリアファイルを押さえていることに気づいているのだろう。
「さっき、蓮が言ってた」
「何を?」
「見てるだけで変わるなら、誰も苦労しないって」
「蓮らしいね」
「ひよりは、どう思う」
ひよりはすぐに答えなかった。
いつもなら、思いついたことをそのまま口にする。けれど今は、言葉を出す前に一度だけ唇を結んだ。
「私は、見てるだけでも変わることはあると思う」
「掲示板を?」
「ううん。誰かが、何を見ているかを」
その答えは、僕には少し分かりにくかった。
「結斗が掲示板を見てると、私は結斗が自分を比べてるって分かる。だから、前ならすぐに『気にしなくていいよ』って言ってたと思う。でも、今はそれを言わないほうがいい気がする」
「どうして」
「気にしてるのに、気にしなくていいって言われると、気にしてる自分まで否定されたみたいになるから」
ひよりの指が、鞄の肩紐を握り直した。
「私、結斗の気持ちを軽くするつもりで、いつも先に言葉を置いてた。でも、軽くするんじゃなくて、ただ上から蓋をしてただけなのかもしれない」
その声には、カフェ・ルナで聞いたときとは違う静けさがあった。ひよりは自分の言葉を、自分で確かめるように話している。
僕は掲示板の紙へ目を戻した。
「僕の名前がないことに、安心してる部分もある」
「うん」
「でも同時に、誰にも選ばれてないみたいで嫌なんだ」
「選ばれてないんじゃなくて、まだ出してないだけだよ」
「それも、都合のいい言い方だろ」
「そうかも」
ひよりは否定しなかった。
「でも、結斗がそう思いたいなら、そう思ってもいいんじゃない。私はもう、結斗の気持ちを勝手に完成させないから」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
完成させない。
ひよりの字で埋められた欄を消したあと、僕は初めて、その言葉の重さを考えた。ひよりは僕を理解したかった。僕が何を言いたいのか、何を望んでいるのかを、僕より早く見つけたかった。
けれど、理解されることと、決められることは違う。
分かってもらいたいのに、分かった形に閉じ込められたくない。僕はずっと、その矛盾を説明しないまま、ひよりの隣にいた。
だから、ひよりの手が紙へ伸びた。
それを責めるだけでは、たぶん足りない。
僕はポケットから進路調査票を取り出した。クリアファイルの中で、紙が少し波打っている。ひよりの字を消した跡は白く曇り、その上に僕の字がある。指先に消しゴムの粉が残っていた。親指でこすると、粉は薄い灰色の筋になって皮膚へ伸びた。
「それ、読んでいい?」
ひよりが訊いた。
僕は紙を見たまま答えた。
「もう読んだだろ」
「うん。でも、さっきは結斗が書いていいって言ってから読んだ。今も、聞いてから見たい」
僕は紙を少しだけひよりのほうへ傾けた。
ひよりは手を伸ばさなかった。目だけで、僕の字を追った。いつもなら、誤字を直したり、枠からはみ出した部分を指で押さえたりするのに、今日は何もしない。
しばらくして、ひよりが言った。
「怖いって、書いたんだね」
「うん」
「何が怖いのかは、まだ書いてない」
「それも、まだ分からない」
「分からないまま書いてもいいの?」
「霧島先生は、いいって言った」
「先生がいいって言ったから?」
僕は返事の前に一拍置いた。
「……それだけじゃない。僕が、そうしたかったから」
ひよりは目を伏せた。
そのとき、背後から低い声がした。
「見ないふりをしても、紙は白いままよ」
振り向くと、霧島奈々先生が立っていた。
片手に進路資料のファイルを抱え、もう片方の手には赤いペンが挟まっている。先生は僕たちではなく、まず僕の手元を見た。紙の折れ方、消し跡、枠線からはみ出した文字。そのすべてを確認してから、ようやく顔を上げる。
「……聞いてました?」
「全部ではありません」
「どこからですか」
「紙は白いまま、のあたりから」
「一番聞かれたくないところですね」
「聞かれたくないことほど、残るものです」
先生の声は穏やかだった。けれど、穏やかだからこそ、逃げ道を狭める。僕は紙の端を指でこすった。
「これ、出していいんですか」
「何が問題ですか」

「夢の欄に、夢じゃないことを書いてます」
「あなたにとって、夢でないと決めるのは誰ですか」
「僕です」
「では、なぜ私に訊くのです」
答えられなかった。
ひよりが隣で息を止めた気配がした。先生は彼女のほうを見なかった。僕だけを見ている。
「進路調査票は、未来を確定する書類ではありません。現時点で、何を考えているかを確認するものです。だから、後から変わっても構わない。問題は、立派な答えを書くことではありません」
「でも、空欄だと呼び出されます」
「空欄は、何も伝えないからです」
霧島先生は掲示板へ視線を移した。
「数字も同じです。順位が三十番なら、二十九番より下だということしか分からない。けれど、その人が何を恐れ、何を捨て、何を続けてきたのかまでは、数字には出ない」
「それでも、みんな数字で見るじゃないですか」
「ええ。数字は見やすいですから」
先生は赤ペンを指で回した。回したあと、ペン先をファイルの角へきっちり揃える。
「見やすいものは、扱いやすい。扱いやすいものは、管理しやすい。学校も家庭も、管理できるものを好みます。ですが、人間まで管理しやすい形に合わせる必要はありません」
掲示板のカバーが、空調の風でかすかに鳴った。
「篠宮くん。あなたは、まだ決められないことを恥じていますか」
質問は静かだった。
それでも、喉がひどく乾いた。
「……はい」
「なぜ?」
「相沢みたいに決めてる人を見ると、自分だけ遅れてる気がするからです。僕の名前が掲示板にないのも、誰も僕を見てないみたいで嫌です。でも、名前を載せるために、ひよりが書いた言葉を借りるのも嫌で……」
言葉が途切れた。
先生は急かさなかった。ひよりも何も言わなかった。二人が黙っていることで、僕は逆に、自分の言葉を途中で捨てられなくなった。
「僕は、決められないことより、決めたあとに違っていたと分かることが怖いんだと思います。決めたものが自分に合わなかったら、また途中で辞めるかもしれない。そうしたら、今度こそ本当に、何も続けられない人間だって分かってしまう気がする」
言い終えると、胸の奥に溜まっていた空気が少しだけ抜けた。
霧島先生は、すぐに頷かなかった。
「そうですか」
短い返事だった。
「それだけですか」
「それ以上、私が評価する必要がありますか」
「いや……」
「怖い理由が分かったなら、次はその怖さをどう扱うかを考えればいい。消す必要はありません。なくならないものを、なくなったことにするから、また同じ場所で止まるのです」
「怖いまま、書くんですか」
「怖いまま書くしかないでしょう」
先生は提出箱のある廊下の先を見た。
「十五時まで、時間はあります。ただし、時間があるからといって、先延ばししていいわけではありません。考えることと、逃げることは似ていますが、最後に自分の言葉が残るかどうかで違います」
「先生は、僕が逃げてると思いますか」
「今までは」
ひよりが小さく息を吸った。
僕も、紙を持つ指に力を入れた。
「今は?」
先生は僕の進路調査票を見た。
「一行書いたでしょう」
「それだけで?」
「一行を書くために、あなたは朝からここまで来た。掲示板を見て、相沢くんと話し、栗原さんと衝突し、駅前まで行って戻ってきた。その動きがすべて正しいとは言いません。ただ、逃げ続けている人間は、そこまで自分の紙を持ち歩きません」
ひよりの顔が、わずかに動いた。
先生は彼女を見た。
「栗原さん」
「はい」
「あなたも、手を出さずに見ているのは苦手でしょう」
ひよりは返事をする前に、指先で鞄の金具を触った。
「……苦手です」
「でしょうね」
「でも、今日は待つって決めました」
「決めたことを口にするのは、あなたらしい」
先生の表情は変わらなかった。けれど、声の硬さがほんの少し緩んだ。
「待つことは、何もしないことではありません。相手が自分で動くまで、相手の場所を奪わないことです。見守る側にも、覚悟が要ります」
ひよりは俯いたまま、両手を握り合わせた。
「私、結斗が書くまで待てます」
「その言葉を、結斗くんに証明する必要はありません」
「え?」
「待てるかどうかは、宣言ではなく、その後の手で分かります」
ひよりは何も言わなかった。
先生は僕のほうへ戻った。
「篠宮くん。あなたは、今すぐ将来の職業を決める必要はありません。ただ、自分の迷いを誰かの言葉に預けないことです。ひよりさんの字も、相沢くんの数字も、私の助言も、あなたの母親の現実感覚も、全部あなたの外側にある。参考にはできる。でも、最後の一行は自分で書く」
母親という言葉が出た瞬間、胃のあたりが少し冷えた。
家へ帰れば、母はきっと訊くだろう。何を書いたのか。どこを希望するのか。通学にいくらかかるのか。続けられるのか。夢の話をする前に、生活の話をされる。
その現実から逃げることもできない。
けれど、現実を理由にして、自分の言葉まで他人に渡す必要はない。
「先生」
「はい」
「この一行のまま出して、あとで書き直してもいいですか」
「書き直す理由を、自分で説明できるなら」
「説明できなかったら」
「そのときは、まだ途中です」
相沢の言葉と同じだった。
僕は掲示板のガラスへ目を向けた。蓮の名前が、相変わらず数字の中にある。僕の名前はない。けれど、今はその空白が、朝ほど恐ろしくなかった。
名前がないことと、何もしていないことは同じではない。
僕は進路調査票をクリアファイルへ戻した。紙の端を指で押さえ、折れを伸ばす。ひよりの字を消した跡も、僕のはみ出した一行も、どちらも消えずに残っている。
「提出箱へ行きます」
僕が言うと、ひよりが顔を上げた。
先生は頷かなかった。ただ、廊下の先へ身体を向けた。
「では、行きましょう」
三人で歩き出す。
ひよりは僕の隣に並ぼうとしたが、すぐに半歩下がった。僕が気づくと、彼女は口元だけで笑った。
「先に行かない。今日は」
「無理に後ろにいなくていい」
「じゃあ、半歩だけ」
その距離が、今はちょうどよかった。
廊下の突き当たりには、屋上への立入禁止扉がある。灰色の扉は閉じたままで、蝶番のあたりから細い光が漏れていた。僕は一瞬だけそこを見た。開かない扉の向こうへ逃げ込めたら、紙も数字も、ひよりの字も見ずに済む。
けれど、僕は扉の前を通り過ぎた。
職員室の前に、提出箱が見える。
白い箱。黒い口。
時計は十四時四十二分を指していた。
僕は歩幅を少し速めた。ひよりの足音が、半歩遅れてついてくる。霧島先生のファイルが、歩くたびにかすかな音を立てる。
提出箱の口は、まだ深く見えた。
けれど今度は、そこへ落とす紙の中身を、自分で知っている。
完成した答えではない。
それでも、誰かの数字でも、誰かの字でもない。
僕はクリアファイルの上から、進路調査票を押さえた。紙のざらつきが指先へ返ってくる。その感触を確かめながら、箱の前まで歩いた。
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