第5話 カフェ・ルナの冷たい空気

校門を出たところで、僕は一度だけ足を止めた。
どこへ行くつもりなのか、自分でも分かっていなかった。カフェ・ルナへ行くと決めたのは、ひよりだった。けれど、ひよりは僕の半歩後ろにいる。行き先を決めたのは彼女なのに、歩き出すのは僕を待っている。
背中に、学校の建物が立っていた。
三階の窓のいくつかが開いていて、その向こうに教室の白いカーテンが見える。職員室前の提出箱も、屋上へ続く閉じた扉も、昇降口の掲示板も、すべてあの校舎の中に残っている。けれど、紙だけは僕のポケットにある。
クリアファイルの角が、制服の布越しに太腿へ当たっていた。
「行かないの?」
ひよりが言った。
責める声ではなかった。ただ、僕より先に歩き出さないために、足元を見ている。
「行く」
僕はそう答えた。
返事の前に一拍置かなかったことに、自分で少し驚いた。
駅前までの道は、午後の光に白く照らされていた。アスファルトから上がる熱が靴の底を通ってくる。信号が赤に変わり、僕らは横断歩道の手前で止まった。隣を走り抜けた自転車の風が、汗で張りついたシャツの背中を撫でていく。
ひよりは黙っていた。
いつもなら、信号が変わるまでに三つくらい話題を出す。駅前の新作アイスのこと、担任の髪型のこと、今日の体育が何時間目だったかという、どうでもいいこと。けれど今は、鞄の肩紐を両手で握ったまま、信号機だけを見ている。
赤い数字が、四、三、二、と減っていく。
「ひより」
「なに」
「さっきのこと」
「うん」
「……いや」
言葉が続かなかった。
何を言えばいいのか分からない。謝るべきなのか、怒りをもう一度伝えるべきなのか、それとも、何も言わずに歩けばいいのか。僕はいつも、相手が欲しそうな返事を先に探してしまう。けれど今は、ひよりが何を欲しがっているのかさえ分からなかった。
信号が青になった。
ひよりは僕の隣を歩き出した。先には出ない。けれど、遅れもしない。歩幅を合わせるというより、僕がどちらへ動いても届く場所にいるようだった。
駅前の通りに入ると、人の流れが増えた。制服姿の高校生、買い物袋を提げた会社員、ベビーカーを押す母親。信号の音、バスのブレーキ音、店先から漏れる音楽。学校から少し離れただけなのに、僕は急に、自分が誰にも見られていないような気がした。
その感覚は楽だった。
同時に、ひどく心細かった。
カフェ・ルナの自動ドアが開くと、冷たい空気が顔に当たった。汗ばんだ首筋が一気に冷え、制服の襟と皮膚の間に薄い隙間ができたように感じる。店内には、溶けた氷の匂いと、焼いたパンに染み込んだバターの甘い匂いが混ざっていた。
奥の席では、僕らと同じくらいの年齢の女子二人が、進路調査票らしい紙を並べていた。一人は赤いペンで欄を囲み、もう一人はスマートフォンを見ながら、大学名をいくつか口にしている。
「それ、第二希望に書くの?」
「だって第一は無理って言われた」
「誰に?」
「お母さん」
「じゃあ、第一にしなよ」
二人の会話が、冷房の音に混じって聞こえた。
別の席では、男子が三人で笑っている。机の上には進路資料が伏せられていて、誰も触れていない。夢という言葉だけが、冗談の形で何度も飛び交っている。
学校の外へ出ても、進路の話は消えなかった。
僕は店内を見回し、いちばん奥の二人席へ向かった。ひよりが後ろからついてくる。けれど、僕が椅子を引くより早く、向かい側の席に誰かが座っていることに気づいた。
相沢蓮だった。
肩掛けの鞄は薄いのに、机の横へ置かれたときに重たい音を立てた。付箋だらけの参考書が、テーブルの中央で四角く開かれている。ページの端は何度も折られ、問題番号の横には細い鉛筆の線が引かれていた。
蓮は僕を見て、驚くより先に少しだけ眉を動かした。
「昼、抜けたのか」
「……そういうことになる」
「食べてない?」
「たぶん」
「たぶんで済む時間じゃないだろ」
蓮はそう言ったが、席を譲ろうとはしなかった。僕も向かいへ座った。ひよりは隣の椅子を引きかけて、手を止めた。
僕は彼女を見た。
「座れば」
「いいの?」
「ひよりが行くなら、僕も行くことになる」
「それ、私がいると逃げられないって意味?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
いつもの応酬なら、ここで僕が笑って終わらせる。けれど、ひよりはもう僕の返事を先回りして埋めようとはしなかった。僕が言い終わるまで、視線を逸らさずに待っている。
「……隣にいてほしいって意味」
言ってから、耳が熱くなった。
ひよりの目が一度だけ大きくなった。すぐに何か言いかけたが、口を閉じる。結局、僕の隣の椅子へ静かに座った。
店員が水を置いていく。グラスの中で氷がぶつかり、薄い音を立てた。
「何か頼む?」
ひよりが訊いた。
「いらない」
「喉、からからじゃん」
「見れば分かるのかよ」
「分かるよ。さっきから何回も唇を舐めてる」
「それなら言わなくてもいいだろ」
「言わないと飲まないでしょ」
「……炭酸」
「甘くないやつ?」
「うん」
ひよりはメニューを開いた。いつもなら僕の返事を聞く前に、店員を呼んでいるはずだった。けれど今日は、メニューを僕のほうへ向けたまま、指を止めている。
「自分で選ぶ?」
その問いは、小さかった。
僕はメニューを受け取った。紙の表面は、進路調査票より少し厚く、指先に冷房の乾いた感触が伝わる。炭酸飲料の欄を見て、無糖のものを選んだ。
「これ」
「了解」
ひよりはボタンを押した。呼び出し音が鳴る。蓮はそのやり取りを聞きながら、参考書のページを一枚めくった。
「相沢は、ここで勉強してたのか」
僕が訊くと、蓮は視線を紙から上げなかった。
「予備校の授業まで時間がある」
「いつも?」
「だいたい」
「そんなに毎日やることあるのか」
「ある」
「決めたら、あとは積むだけって言ってたよな」
「言った」
「積むって、具体的には何を積むんだよ」
蓮はそこでようやく顔を上げた。
「勉強時間。過去問。模試の間違い。苦手な単元。あと、決めたあとに逃げたくなった回数」
思いがけない答えだった。
ひよりが、僕の隣で小さく息を吸った。
「最後のは、積むものなの?」
「捨てるものじゃない。逃げたくなったことをなかったことにすると、同じ場所でまた止まる」
蓮は参考書の端を指で揃えた。紙の束はきれいに見えるのに、ページの角には細かな折れ跡がある。
「決めたから迷わなくなるわけじゃない。決めたあとで迷ったら、決めたことが間違いだったみたいに感じる。だから、迷ったことを記録しておく。今日は何が怖かったか、どこで逃げたくなったか。そうすると、少なくとも自分が何に負けそうなのかは分かる」
「……蓮でも、逃げたくなるのか」
「なる」
即答だった。
「志望校を決めた翌週、判定が落ちた。家に帰って、資料を全部捨てたくなった。志望校の名前を書いた紙も、参考書も、腕時計も。決めなければ、落ちた判定はただの数字で済んだ。でも決めたあとだと、自分の価値まで落ちたように感じる」
「それでも続けた?」
「次の日に予備校へ行った」
「どうして」
「行かなかったら、落ちた判定のほうが自分の進路になりそうだったから」
蓮の声は平坦だった。けれど、机の下で組んだ指が、わずかに動いていた。
「俺は、強いから決めたんじゃない。決めないまま、周りが選んだ道に乗るほうが嫌だった。家では、通いやすいところでいい、無理をするなと言われた。先生には、成績ならもっと上を狙えると言われた。どちらも間違っていなかった。でも、どちらに従っても、あとで『自分は本当はどうしたかったんだ』と考える気がした」
ひよりが蓮を見る。
蓮は彼女には視線を向けず、開いた参考書の問題文を見つめたまま続けた。
「決めたのは、正解が分かったからじゃない。これを選んだら、何を捨てることになるか分かったうえで、それでも自分の名前を書いた。選ぶって、たぶんそういうことだ」
店員が飲み物を運んできた。僕の前に置かれたグラスの表面に、すぐ水滴が浮いた。ストローの袋を破る指が滑る。僕は紙ナプキンで指先を拭い、炭酸を一口飲んだ。
冷たさが喉を通り、胃の奥へ落ちる。泡が少し痛い。学校に戻らなければならない時間も、提出箱の黒い口も、いったん遠のいた。
「ひよりが書いた」
僕はポケットからクリアファイルを取り出した。
テーブルの上へ置くと、ひよりの肩がわずかに強張った。僕はそれを見たが、すぐには紙を出さなかった。
「夢の欄に、僕が一度だけ話したことをつなげて。僕が何をしたいのか、僕より先に書いた」
蓮は紙を見た。ひよりは見なかった。
「具体的には?」
「地域の図書館で、子ども向けの企画をやる仕事」
口に出すと、ひよりの書いた文字が、ますます自分のものではないように聞こえた。
「悪くないじゃん」
蓮が言った。
「悪いかどうかの話じゃない」
「分かってる」
「分かってないだろ。内容が悪くないから、なおさら困るんだよ。僕が考えたことのない形で、僕の中にあったかもしれないものを、ひよりが先に見つけて、紙に置いた。僕はそれを否定したいのに、全部が嘘だとも言えない」
ひよりの手が、膝の上で握られた。
「だったら、残せばいい」
「ひより」
「ごめん、今のは違う。……残せばいいって言いそうになったけど、今日は言わない」
ひよりはそう言って、テーブルの下へ視線を落とした。
「結斗がそれを自分の言葉だと思えないなら、残さなくていい。私が書いたからって、私が傷つく必要もない。傷つくけど、それは私が勝手に書いた分だから」
「傷つくのか」
「そりゃ傷つくよ。結斗が消しゴムで私の字を消すところを見たら、たぶん、すごく嫌な気持ちになる。でも、嫌な気持ちになるから残してって言うのは、また私の気持ちを結斗の紙に押しつけることになる」
ひよりは顔を上げた。
「だから、消していい。消したあとで、私が勝手に書いたことまで消えたことにしないでくれれば、それでいい」
僕はクリアファイルの中の紙を見た。
ひよりの字は、紙の上で静かに乾いている。書いた本人が隣にいるのに、すでに別のものになっていた。
「ひよりは、何でそこまで僕のことを気にするんだ」
訊いてから、聞いてはいけないような気がした。
ひよりはすぐには答えなかった。冷房の風で、テーブルの上の紙ナプキンが少しだけ動く。彼女はそれを押さえず、動くままにしていた。
「結斗が、何も言わないから」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
ひよりは一度、笑おうとした。けれど、今度は笑いを最後まで作らなかった。
「私、誰かに困ってるって言われるのを待つのが苦手なんだよ。言われる前に分かれば、助けられると思ってる。分かったのに動かなかったら、その人がもっと悪くなる気がする。だから、結斗が黙ってると、私が見て見ぬふりをしてるみたいで落ち着かない」
「僕は、ひよりに助けてくれって言ってない」
「うん」
「頼んでない」
「うん」
「それでも、助けたいのか」
「助けたい」
ひよりの声には、迷いがなかった。
「でも、助けたいって思うことと、助けていいことは、同じじゃなかった。そこを今日、初めて分かった。結斗が苦しそうだからって、結斗の苦しさを私が片づけていいわけじゃない。結斗が止まってるからって、私が先に走って、結斗の行き先を決めていいわけじゃない」
ひよりは自分のシャープペンシルを取り出した。けれど、紙へは置かなかった。指の間で回し、いつものように三周させ、四周目で止める。
「私、役に立てない時間が怖いんだと思う。結斗が自分で何かを書いて、それを私が何もせずに見ている時間が、たぶん一番怖い。私がいなくても大丈夫だって分かるから」
その言葉は、僕の予想していたものとは違っていた。
ひよりは僕を助けたいのだと思っていた。僕が何もできないから、彼女が動くのだと思っていた。けれど実際には、僕が自分で動き出したあとに、自分の役割がなくなることを恐れている。
僕は炭酸のグラスを見た。水滴がテーブルへ落ち、丸い跡を作っている。

「僕が自分で決めたら、ひよりは役に立たなくなるのか」
「ならないよ」
「でも、怖いんだろ」
「怖い。でも、怖いからって、結斗の紙を奪っていい理由にはならない」
ひよりはシャープペンシルを机へ置いた。
「結斗が自分で書いたものを見て、私が何もできなくても、隣にいられるかどうかは、私の問題だから」
その言葉のあと、僕らはしばらく黙っていた。
店内では、奥の席の女子が第一志望の話を続けている。厨房から皿の触れ合う音が聞こえ、空調の風が一定の強さで吹いている。冷たい空気は、僕の汗を乾かしながら、指先の震えまで見えなくしてくれるようだった。
蓮が参考書を閉じた。
「時間」
腕時計を見ている。
「十四時二十五分」
僕はグラスの水滴を見た。あと三十五分。学校まで走れば、十分もかからない。けれど、戻ったところで何を書くのかは決まっていない。
「蓮は、もう行くのか」
「予備校がある」
「行かないでくれって言ったら?」
「行かない理由にならない」
「冷たいな」
「時間を守るのは、冷たいことじゃない」
蓮はそう言いながらも、すぐには立ち上がらなかった。
「ただ、今日は少しだけ予定を変える」
「予備校、遅れてもいいのか」
「十分なら」
「十分だけ?」
「十分あれば、言えることはある」
蓮は僕をまっすぐ見た。
「お前が今から書くべきなのは、将来の職業名じゃないかもしれない。ひよりが書いたものを消して、自分が何を怖がっているかを書けばいい。それを夢の欄に書けるかは知らない。けど、少なくとも、お前の字になる」
「そんなの、進路希望じゃないだろ」
「進路希望に、立派な言葉だけを書く必要があるのか」
「先生は読む」
「読むだろうな」
「母親にも見られる」
「見られる」
「笑われるかもしれない」
「笑われるかもしれない」
蓮は、否定しなかった。
「だから、書く価値がある。誰にも笑われないように整えた言葉なら、最初からお前のものじゃない。ひよりの字を消すのも、自分で書くのも、誰かに見られることを引き受けるためだろ」
僕はクリアファイルを開いた。
進路調査票を取り出すと、紙の端がテーブルの木目に引っかかった。夢の欄には、ひよりの字がある。地域の図書館で子ども向けの企画をする仕事。文字の形は整っていて、そこに迷いはない。
僕は消しゴムを取り出した。
ひよりの手が、膝の上で動いた。
けれど、伸びてこなかった。
僕はひよりの字の上に消しゴムを置いた。最初の一往復で、黒い線が薄くなる。消しゴムの粉が紙の上に散り、指の腹へまとわりつく。二往復、三往復。紙の表面が毛羽立ち、ひよりの文字は形を失っていく。
途中で、僕は手を止めた。
「続けていいよ」
ひよりが言った。
「見てて平気なのか」
「平気じゃない」
「なら」
「でも、止める理由にはならないから」
僕は消しゴムを動かした。
最後の線が消えたとき、そこには薄い灰色の跡だけが残った。白紙ではない。けれど、ひよりの文字もない。消したのに、完全には戻らなかった。
僕はシャーペンを持った。
芯先が紙の上で止まる。
店内のどこかで、氷がひとつ崩れた。かすかな音だったが、僕の耳には大きく響いた。
「何を書く」
蓮が訊いた。
「分からない」
「なら、それを書く」
「夢の欄に?」
「夢の欄だからこそ」
僕は紙の端を撫でた。
何も決められない。失敗したくない。途中で辞めたくない。誰かに勝手に決められたくない。どれも本当だった。けれど、どれも夢ではない。
シャーペンを握る指に、力が入りすぎていた。芯が折れる。小さな音がして、黒い芯先が紙の上へ転がった。
ひよりが新しい芯を出そうとした。手を伸ばしかけて、止まる。
僕は自分の筆箱を開いた。中には、部活を辞めたあとも残っているチームのシールが貼られている。汚れた角に指が触れた。あの日から、何も終わらせられないまま持ち歩いているものだった。
新しい芯を入れ、ゆっくり押し出す。
紙の上に、最初の線を引いた。
まだ決められない。
そこまで書いて、僕は手を止めた。
ひよりが息を飲む音が隣で聞こえた。
「それでいいの?」
「分からない」
「消す?」
「……消さない」
僕は続けた。
決めるのが怖い。でも、怖いままでも、誰かが決めた言葉を自分のものにしたくはない。
欄に入りきらない。文字が少し右へはみ出し、最後の一行が枠線に重なった。僕は構わず書き続けた。
書き終えると、指先が痺れていた。紙の上には、ひよりの書いた整った未来の代わりに、僕の乱れた字が残っている。夢と呼べるほど大きくない。志望校の名前でもない。ただ、今の僕が逃げずに書いた、最初の一行だった。
蓮がそれを見た。
「それなら、自分のものだ」
短い言葉だった。
ひよりは、すぐには紙へ手を伸ばさなかった。視線だけを落とし、僕の字を端から端まで追っている。
「……結斗」
「何」
「これ、私が読んでもいい?」
その問いに、僕は少しだけ驚いた。
「もう読んでるだろ」
「そうじゃなくて。今、読んでいいって言われてから読みたい」
僕は紙をひよりのほうへ向けた。
ひよりは両手を膝から離し、けれど紙には触れず、目だけで一行を読んだ。読んでいるあいだ、いつものように口元が動かなかった。何かを足そうとも、整えようとも、言い換えようともしない。
やがて彼女は、静かに息を吐いた。
「うん」
「それだけ?」
「うん。それだけ」
「感想は」
「今は、言わないほうがいいと思う」
「珍しいな」
「失礼」
ひよりは、ほんの少しだけ笑った。けれど、その笑顔は僕の答えを包み込むためのものではなかった。ただ、そこに置かれたものを置かれたままにしておくための笑顔だった。
蓮が腕時計を見た。
「戻るなら、今」
店内の時計は、十四時三十七分を指していた。
僕は進路調査票をクリアファイルへ戻した。夢の欄はまだ消し跡で白く曇っている。自分の字は少し右へはみ出し、枠線と重なっている。整っていない。誰かに見せるには、あまりにも未完成だった。
それでも、紙を折る気にはなれなかった。
ひよりが席を立った。けれど、先に歩き出さず、僕が鞄を持つのを待っている。
「カフェ代」
僕が言うと、ひよりは眉を上げた。
「今日は私が払う」
「なんで」
「私が連れてきたから」
「それも、勝手に決めるのか」
冗談のつもりだった。
ひよりは一瞬だけ考え、それから財布を取り出しかけた手を止めた。
「……半分ずつにする」
「それがいい」
「アイスは?」
「あれはひよりが買った」
「じゃあ、アイスは私」
「うん」
「結斗の分まで勝手に買ったけど」
「それは、もう食べたからいい」
ひよりが笑った。今度の笑いは、僕の答えを先回りして作ったものではなかった。少し疲れていて、少し不安で、それでも隣にいることを諦めていない笑いだった。
蓮は先にレジへ向かった。参考書を鞄へしまい、財布を出す動作まで無駄がない。けれど、出口の前で一度だけ振り返った。
「篠宮」
「なに」
「書いたなら、出せ」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
蓮は、朝のひよりと同じ言葉を使った。
けれど、その声には押しつける響きがなかった。
「出せないなら、出せない理由も自分で書け。誰かに代わりに言わせるな」
蓮はそれだけ言って、先に自動ドアを抜けた。
外の光が、店内の冷たさを一瞬で押し返す。ひよりは僕の横に立ち、ドアの前で足を止めた。
「先、行っていいよ」
僕が言うと、ひよりは首を横に振った。
「待つ」
「学校まで?」
「学校まで」
「遅れるかもしれない」
「走ればいい」
「ひよりが先に行くなよ」
「分かってる」
自動ドアが閉まり、冷たい空気が背中から離れた。
駅前の雑踏は、さっきよりも眩しく見えた。人の流れは変わらず、信号は僕らを待たずに点滅している。僕は進路調査票の入ったクリアファイルを胸の前で押さえた。
紙の上には、ひよりの消し跡と、僕の乱れた一行が残っている。
完成していない。
だからこそ、今度は自分の足で戻るしかなかった。
信号が青に変わる。
僕は走り出した。
ひよりの足音が、半歩遅れてついてくる。先に行かない。けれど、離れもしない。汗が首筋を伝い、シャツの襟がまた皮膚へ張りつく。駅前の風はぬるく、校舎の方角からは、焼けたコンクリートの匂いが流れてきた。
提出箱まで、あと二十三分。
僕は走りながら、紙の上の一行を何度も思い浮かべた。
まだ決められない。
その言葉は、逃げるための言い訳だったはずなのに、書いてしまうと、逃げたままではいられない言葉に変わっていた。
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