第4話 提出箱の前で

提出箱は、手を伸ばせば届く距離にあった。
白い箱の上には、進路調査票提出用、と黒い文字で印刷された紙が貼られている。誰かが貼った透明なテープの端が少し浮き、廊下から入る風に合わせて、かすかに揺れていた。
たったそれだけの箱なのに、そこへ紙を入れれば、僕の一日が別の形になる気がした。
ひよりの字で埋められた将来の夢が、教師の手を通り、記録になって、家へ届く。僕の名前と一緒に、僕ではない誰かの決めた未来が運ばれていく。そう考えると、箱の黒い口は、紙だけではなく、僕まで飲み込もうとしているように見えた。
「結斗」
ひよりが呼んだ。
僕は返事をしなかった。
返事をすれば、いつものように一拍置いて、笑って、何でもないふりをしてしまう。その一連の動作を、今日はもう繰り返したくなかった。
「入れればいいじゃん。とりあえず」
ひよりの声は、できるだけ軽く作られていた。
「とりあえずって何だよ」
「提出するだけ。あとで先生に、夢の欄は書き直したいですって言えばいいし。調査票って、最終決定じゃないから。今の時点での希望を聞くだけだって、担任も言ってたじゃん」
「じゃあ、なんで勝手に書いたんだよ」
声が廊下に跳ねた。
近くの窓際で話していた男子二人が、こちらを見る。ひよりの肩がわずかに揺れた。それでも彼女は目を逸らさなかった。
「それは……」
「今の時点での希望を聞くだけなら、僕が今の時点で何も書けないって、それでいいだろ」
「よくないよ」
ひよりの返事は早かった。
「結斗は、何も書けないんじゃなくて、書かないようにしてるじゃん」
「同じだろ」
「違う」
「何が違うんだよ。書けないから書かない。書かないから白紙。それだけだろ」
「違うってば!」
ひよりの声が、初めて廊下の空気を押し返した。
彼女はすぐに口元を押さえた。怒鳴ったことを自分で驚いているようだった。けれど、もう引き返せないのは僕と同じらしい。指先で進路調査票の端をつまみ、折れかけた角を何度も撫でている。
「結斗は、書けるところまで書いて、最後のところだけ残してるんじゃない。最初から、最後まで行かないようにしてる。志望校の話をされても、夢の話をされても、笑って、あとでって言って、そのあとが来る前に別の話をする。私が何回見てきたと思ってるの」
「だから、見てきたからって、僕の代わりになれるわけじゃないだろ」
「なれないよ」
ひよりは即答した。
「なれない。結斗の代わりに生きられないし、結斗の代わりに失敗することもできない。そんなの分かってる。でも、結斗が何も言わないまま、誰かに決められるのを待ってるのが嫌だった」
「待ってない」
「待ってるよ」
「待ってない!」
喉の奥が痛くなった。叫んだつもりはなかったのに、声が裏返り、廊下の端まで走っていった。
ひよりの手から、紙が少し滑った。
それを見て、僕は反射的に手を伸ばした。落ちる前に受け止めた紙は、汗ばんだ指に張りついた。白い紙の中央で、ひよりの文字が揺れている。
具体的で、整っていて、僕の曖昧な記憶を見事につないだ言葉。
その内容を読めば読むほど、ひよりが僕を見ていたことだけは分かった。見て、覚えて、拾って、僕が捨てた言葉まで集めていた。
だからこそ、腹が立った。
「これ、僕が言ったことをつなげただけだって言ったよな」
「うん」
「僕がいつ、これを夢だって言った?」
「言ってない」
「僕がいつ、これをやりたいって言った?」
「言ってない」
「じゃあ、何で書いたんだよ」
ひよりは唇を結んだ。
「言ってないけど、そういう顔をしてたから」
「顔で進路を決めるなよ」
「決めたんじゃない。候補にしただけ」
「紙に書いた時点で、候補じゃなくなるんだよ」
「なら、消せばいいじゃん!」
ひよりの声がまた大きくなった。
「消せばいいんだよ。私が書いたんだから、結斗が消していい。何をそんなに大事そうに抱えてるの。私の字だから消せないって言うけど、私の字を残すことと、私のことを大事にすることは別でしょ」
言葉が、胸の奥に引っかかった。
ひよりは紙から手を離した。さっきまで折れた角を気にしていた指が、今度は自分のスカートの端を握っている。
「私、結斗が困ってるなら、手を出せばいいと思ってた。中学のときからそうだったし。忘れ物したら貸せばいい。発表で詰まったら横から言えばいい。黙ってるなら、こっちが話せばいい。そうやって、何回も結斗が助かった顔をしたから」
「……助かったよ」
自分でも、言うつもりのなかった言葉だった。
ひよりの目が上がった。
「助かった。何度も。でも、それとこれとは違う」
「分かってる」
「分かってないだろ」
「分かってるよ!」
ひよりは拳を握った。
「分かってるから、こんなに困ってるんじゃん。結斗が怒るのも分かる。勝手に書いたのが駄目なのも分かる。結斗が自分で決めたいのも分かる。でも、分かってても、何もしないで見てるのは無理だった。私、そういうのが一番怖いんだよ。誰かが困ってるのに、あとで助ければいいって思って、そのまま手遅れになるのが」
ひよりの声は、途中から細くなっていた。
「昔、友達がずっと悩んでたのに、私は何も聞けなかった。いつも明るい子だったから、放っておけば平気だと思った。大丈夫? って聞いて、ううんって笑われて、それで終わりにした。その子が学校に来なくなってから、もっと早く手を出せばよかったって、ずっと思った。だから、結斗が黙ってると、また同じことになる気がしたんだよ」
廊下の音が薄くなった。
体育館から戻ってきた生徒たちの足音も、遠くの教室から聞こえる笑い声も、どこか別の階で起きていることのようだった。
「……僕は、その友達じゃない」
「分かってる」
「僕は、ひよりが何もしなくても、明日には学校に来る」
「分かってるよ」
「勝手に書かれて、勝手に助けられて、それで僕が感謝しなきゃいけないみたいになるのが嫌なんだ」
「感謝しろなんて言ってない」
「でも、そうなるだろ。助けてもらった側が怒ると、助けた側がかわいそうになる。僕が悪いみたいになる」
「かわいそうなのは、私じゃないよ」
ひよりは、まっすぐ僕を見た。
「勝手に書いた私が悪い。結斗が怒っていいことをした。そこは、ちゃんとそうだから。でも、結斗が何も言わないことまで、私が全部悪いことにするのは違うと思う」
「……僕のせいだって言いたいのか」
「そうじゃない」
「じゃあ何だよ」
「結斗にも、自分の空白を誰かに触らせた責任はあるって言ってるの」
胸を殴られたようだった。
僕は反射的に言い返そうとした。けれど、言葉が出なかった。
空白は僕のものだった。僕が書かず、隠し、机の奥へ押し込めていたものだ。誰にも触られたくないと言いながら、僕はそれを説明しなかった。ひよりが踏み込んだとき、やめろと言えなかった。紙を奪われるまで、いつものように笑っていた。
僕の沈黙は、壁ではなかった。
たぶん、開いたままの扉だった。
ひよりがそのことに気づいていたのかどうかは、分からない。ただ、彼女の顔には、言いすぎたという後悔が浮かんでいた。
「……ごめん」
今度の謝罪は、朝から何度も聞いたものよりずっと重かった。
「でも、結斗。私は、結斗の人生を決めたいんじゃない。結斗が自分で決めるところを見たいだけなんだよ。私が先に書いちゃったのは、その順番を間違えた。そこは本当にごめん。でも、結斗が何も書かないまま、白紙でいることを選び続けるのは、結斗自身の選択だってことも、忘れないで」
僕は進路調査票を見下ろした。
ひよりの字がある。
その下に、僕の消し跡がある。
どちらも、僕が望んだ形ではない。それでも、紙の上に残ったものを見ていると、自分がここまで何も選ばずに来たことだけは、はっきり分かった。
「……消す」
僕は言った。
「この字は消す。僕の夢じゃないから」
ひよりは黙って頷いた。
「でも、まだ書けない」
「うん」
「今すぐ、別の言葉に置き換えられない」
「うん」
「それでも、提出しろって言われたら?」
ひよりは、すぐには答えなかった。
いつもなら、ここで何かを言う。候補を出す。紙を用意する。修正テープを取り出す。けれど、彼女の手はスカートの上で止まっていた。
「……霧島先生のところへ行けば」
「答えをくれるかな」
「たぶん、くれない」
「じゃあ、何のために」
「答えをくれない人に、答えをくれないままいてもらうため」
ひよりは、少しだけ困ったように笑った。
「それくらいなら、私にもできるかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、遠くでチャイムが鳴った。
十四時を知らせる予鈴だった。
提出期限まで、あと一時間。
廊下の空気が、急に速くなった気がした。さっきまで立っていた場所が、ゆっくり沈み始める。紙を抱えたままではいられない。ひよりの字を消すにも、僕の言葉を探すにも、時間が足りない。
ひよりが一歩、廊下の先へ出た。
「カフェ・ルナ、行こう」
「今から?」
「学校にいたら、結斗はまた掲示板か屋上の扉か、誰もいない階段を探すでしょ」
「よく分かってるな」
「分かるよ。誰より近くで見てきたから」
その言葉に、また胸がざらついた。
「それ、もう言わないでくれ」
「何で」
「近くで見てきたからって、分かったつもりになるなよ」
ひよりは足を止めた。
僕も止まった。
言い過ぎたと思ったが、今度は引っ込められなかった。
「僕のことを見てきたのは本当かもしれない。でも、見てきたことと、僕の中身を決めていいことは別だ。ひよりが覚えてる僕の言葉が、僕の全部じゃない。僕自身だって、何が本当か分からないのに、ひよりが先に形にしたら、僕はその形から逃げられなくなる」
ひよりは俯いた。
彼女の手が、鞄の中を探る。しばらくして、透明な袋に入ったコンビニアイスを取り出した。少し溶けているらしく、袋の内側に水滴がついている。
「これ、昼に買ってた」
「今食べるの?」
「溶けるから」
「進路調査票の締め切り前に?」
「だから食べるんじゃん。頭が熱いと、まともなこと考えられないし」
ひよりは袋を開け、アイスを半分に折った。白い冷気が一瞬、指の間から逃げる。片方を僕へ差し出した。
「……いらない」
「食べて。私が全部食べると、結斗の分まで勝手に決めたみたいで嫌だから」
くだらない言い方だった。
なのに、僕は受け取った。
冷たいアイスが舌に触れ、熱のこもった口の中でゆっくり溶けた。甘さは強くなかった。ひよりはいつも、僕が甘すぎるものを苦手だと言うと、少しだけ苦い味を選ぶ。
僕らは廊下の窓際に並んで、しばらく何も言わずに食べた。
沈黙はまだ気まずかった。けれど、ひよりはもう僕の紙へ手を伸ばさなかった。僕も、彼女の顔色を探るために笑おうとはしなかった。
食べ終えた棒を、ひよりが袋へ戻す。
「カフェ・ルナで、書けるところまで書こう」
「書けなかったら?」
「書けないまま、霧島先生のところへ行く」
「ひよりは、待てるのか」
問いかけると、ひよりの指が止まった。
「……練習する」
「何の」
「待つ練習」
ひよりはそう言って、僕の手にある進路調査票を見た。
「だから、今は私が先に歩かない。結斗が行くなら行く。行かないなら、ここにいる」
窓の外で、夏の雲が校舎の影をゆっくり動かしていた。
僕は提出箱を振り返った。白い箱は、さっきと同じ場所にある。けれど、もうそこへ紙を入れることだけが今日の答えではない気がした。
「行く」
僕は言った。
「どこへ?」
「カフェ・ルナ」
「うん」
「でも、ひよりは先に行くなよ」
「分かってる」
ひよりは、僕の半歩後ろに下がった。
その距離は、今までなら遠すぎると思ったかもしれない。けれど、今日はそれでよかった。僕の前を塞がず、後ろから押しつけず、ただ同じ廊下にいる。
僕は進路調査票をクリアファイルへ戻し、職員室前の廊下を駆け出した。
階段へ向かう途中、上履きの底が床を擦る。シャツの襟が首に張りつき、喉が乾く。ひよりの足音が、少し遅れてついてくる。
屋上へ続く扉の前を通り過ぎる。灰色の扉は今日も閉じていた。
開かない扉を振り返る暇はなかった。
僕は一階まで階段を下り、昇降口を抜け、校門へ向かった。外の光が目に刺さる。校舎の熱から放り出された身体に、街の風はぬるく、駅前から流れてくるパンの甘い匂いが混じっていた。
提出箱は、背中の向こうへ遠ざかっていく。
紙はまだ白い。ひよりの字も、消し跡も残っている。
それでも今度は、誰かに埋められるためではなく、自分で書き直すために、僕は走っていた。
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