第3話 掲示板の前で

昼休みが終わる少し前、僕は教室を出た。
ひよりに何か言われたわけではない。むしろ、彼女は何も言わなかった。自分の席で弁当箱を片づけ、僕のほうを一度も見ないようにしていた。見ないようにしていることだけは、よく分かった。
僕は進路調査票をクリアファイルに挟み、制服のポケットへ入れた。紙の角が太腿に当たるたび、ひよりの字がそこにあることを思い出した。
夢の欄に書かれた、僕のものではない言葉。
消していない。消せてもいない。
廊下へ出ると、教室の熱が背中にまとわりついた。さっきまでいた場所なのに、扉一枚で空気が違う。廊下は窓が開いていて、風が通っていた。ただし、風は涼しくなかった。汗で張りついたシャツの襟を、内側から乾かすように撫でていく。
僕は昇降口のほうへ歩いた。
特に目的はなかった。進路調査票をどうするか考えるには、教室の机が近すぎた。机の上に置けば白紙が見える。机の中へしまえば、ひよりの字が見える。どちらにしても、僕は紙から逃げられない。
三階から階段を下りる。踊り場を曲がるたび、下の階の音が少しずつ大きくなる。体育館へ向かう生徒の笑い声、誰かが廊下を走って教師に注意される声、購買の袋を揺らす音。学校はいつも通り動いているのに、僕だけがその流れから外れているようだった。
昇降口前の掲示板には、模試結果と推薦希望者の仮調査が貼り出されていた。
透明なカバーの中に、何枚もの紙が並んでいる。紙の端はきれいに揃えられ、四隅にはテープがまっすぐ貼られていた。誰かが時間をかけて整えたのだろう。その几帳面さの上に、名前と数字だけが冷たく並んでいる。
校内順位。
判定。
志望校。
推薦希望。
白い紙に黒い文字が並んでいるだけなのに、そこには生徒の未来が、本人より先に公開されていた。
僕は掲示板の前を通り過ぎようとした。視線を上げなければいい。靴箱の番号でも、床の汚れでも見ていればいい。
けれど、相沢蓮の名前だけは目に入った。
名前の横に、志望校の名前。その下に、今回の模試判定。さらに右には、前回からの推移まで載っている。数字は大きく変わっていない。いつものように、蓮は安定していた。
僕はその欄の前で足を止めた。
掲示板のガラスに、自分の顔が薄く映っている。輪郭がぼやけ、後ろの紙と重なっていた。相沢蓮の名前が、僕の額のあたりに浮いている。
顔色が悪い。
そう思った。ひよりに言われた通りだった。目の下に薄い影があり、口元は笑っていない。自分の顔なのに、他人の成績表に付属した、名前のない写真みたいに見えた。
「そこ、見ても順位は上がらない」
横から声がした。
振り向くと、相沢蓮が立っていた。片手に予備校のテキストを抱えている。表紙の角は少し擦れていたが、紙の束はきっちり揃っていた。蓮は掲示板を見上げたまま、こちらを見なかった。
「分かってる」
「なら、見ないほうがいい」
「蓮は見るだろ」
「確認はする」
「同じじゃないか」
「違う。確認は次に何をするか決めるためにする。見て落ち込むだけなら、時間の無駄だ」
相変わらず、言葉が短い。余計なものを削り落として、必要な部分だけを机の端に並べるみたいに話す。
僕はガラスに映る自分を見たまま、笑おうとした。
「じゃあ、僕は時間を無駄にしてるってことか」
「そうは言ってない」
「でも、そういう顔してる」
「どんな顔だよ」
「何も決めてない人を見る顔」
蓮はそこで初めて僕を見た。
目が合う。
先に逸らしたくなったが、今日は逸らせなかった。蓮の目には、からかいも同情もなかった。ただ、僕がどういうつもりでここに立っているのか、答えを待っているような静けさがあった。
「進路調査票、持ってる?」
蓮が言った。
「持ってない」
「嘘」
「なんで分かる」
「さっきから右手でポケットの端を押さえてる」
僕は反射的に手を離した。
クリアファイルの角が、制服の布越しに触れている。蓮はそれを見ていたらしい。僕は自分の手元を見た。指先に汗が滲んでいる。
「ひよりが書いたんだろ」
その名前を聞いた途端、喉の奥が固くなった。
「……見たのか」
「廊下で。お前が持っていた」
「どこまで」
「夢の欄に何か書いてあるところまで」
「何が書いてあったかは?」
「そこまでは見てない」
蓮はそう答えて、テキストの端を親指で押さえた。折れかけた紙を戻すような仕草だった。
「なら、いい」
「よくないだろ」
思わず声が大きくなった。
昇降口を行き交う生徒が、何人かこちらを見た。僕はすぐに声を落としたが、胸の内側に溜まっていたものは、もう簡単には戻らなかった。
「勝手に書かれたんだぞ。僕がまだ何も決めてないのに。僕が書けなかったところを、僕の字じゃない字で埋められた。しかも、僕が一度だけ言ったこととか、たぶんそういうのを勝手に拾って、つなげて、これが結斗の夢ですって顔をして置かれた」
蓮は黙っている。
「それなのに、ひよりは助けたつもりなんだ。困ってるから、締め切りがあるから、僕がまた謝るだけになるのが嫌だからって。そう言われると、怒るほうが悪いみたいになる。僕だって、ひよりが悪意でやったわけじゃないのは分かってる。分かってるから、余計に何も言えないんだよ」
自分でも、なぜ蓮にこんなことを話しているのか分からなかった。ひよりには言えなかった。ひよりの前では、怒りの中に彼女の気遣いまで見えてしまう。だから、怒りだけを取り出して渡すことができない。
蓮なら、少なくとも僕の言葉を勝手に丸くしない気がした。
「じゃあ、消せばいい」
蓮は掲示板を見たまま言った。
「消せるなら、とっくに消してる」
「消せない理由は?」
「……ひよりの字だから」
「意味が分からない」
「分かるだろ」
「分からない。お前が自分で書いてないなら、消してもひよりを消したことにはならない」
その言い方が、少しだけ鋭かった。
「でも、ひよりが書いたものを消すんだぞ」
「書かれたものを消すだけだ」
「同じだよ」
「違う」
蓮はそこで僕のほうへ体を向けた。テキストを脇に抱え、まっすぐに僕を見る。
「お前は、ひよりが助けようとしたことと、ひよりが勝手に書いたことを一緒にしてる。分けろ。助けようとした気持ちは残る。勝手に書かれた文字は消せる。両方を残す必要はない」
言葉が、掲示板のガラスに跳ね返ったように聞こえた。
僕は返事をしなかった。
蓮は続けた。
「俺だって、決めたときは迷った。志望校を決めたら、そこに向かっているふりをしないといけなくなる。模試の判定が落ちたら、決めたこと自体を笑われる。家でも、塾でも、友達にも、決めたならやれと言われる。決めないうちは、可能性がいくつもあるように見える。決めた瞬間に、残りが全部、捨てたものに見える」
蓮の声は、普段より少し遅かった。
「だから、怖くないわけじゃない。怖いから、毎日同じ時間に勉強して、同じページを開いて、やることを決めてる。迷っていることを考えないために、先に手を動かしてるだけだ。俺が強そうに見えるなら、それは強いからじゃない。止まったら、たぶん戻れないから止まらないだけだ」
蓮の指が、テキストの角を何度もなぞっていた。きっちり揃っているように見えた紙の束には、細かな折れ跡がいくつも残っていた。
僕はそれを見た。
蓮もまた、何かを押さえつけている。
ただ、押さえつける場所が僕とは違うだけだった。
「お前は、まだ決めてない」
「そうだな」
「でも、決めてないことと、何も考えてないことは違う」
その言葉に、胸の奥がわずかに動いた。
「同じに見えるけど」
「見えるだけだ。何も考えてないやつは、そんなふうに紙を握らない」
僕は右手を見た。いつの間にか、ポケットの上からクリアファイルを強く押さえていた。指先が白くなっている。
「じゃあ、どうすればいい」
聞いたあとで、ひどく情けない質問だと思った。
蓮はすぐには答えなかった。口を一度引き結び、掲示板へ視線を戻す。
「知らない」
「蓮でも?」
「俺はお前じゃない」
「役に立たないな」
「慰めてほしいなら、ひよりに言え」

その名前が出ると、僕は黙った。
蓮は少しだけ息を吐いた。笑ったわけではない。
「ただ、ひとつだけ言える。誰かが書いたものを、自分のものにする必要はない。逆に、自分で書いたものなら、あとで変えてもいい。最初から最後まで同じでいることを、責任とは言わない」
「でも、変えたら逃げたことになる」
「変えた理由を自分で言えるなら、逃げたとは限らない」
「言えなかったら?」
「そのときは、まだ途中だ」
蓮はそう言って、テキストを鞄へしまった。ファスナーを閉める音が、短く響く。
「俺は予備校に行く」
「もう?」
「予定がある」
「そういうところだよな。蓮は」
「何が」
「全部、次が決まってる」
「決めてるだけだ」
「決められない人間からすると、それが一番遠い」
蓮は少しだけ首を傾けた。
「遠いなら、歩けばいい」
「歩き出せるなら苦労しない」
「走れるだろ、お前は」
思いがけない言葉だった。
僕は蓮を見た。蓮はもう掲示板の紙を見ていない。昇降口の外、校門の向こうにある道路へ視線を向けている。
「この前、体育の持久走で最後尾から一番前まで来ただろ。途中まで歩いてたのに」
「あれは、たまたま」
「たまたまでも走った」
「進路とは違う」
「同じだとは言ってない。ただ、止まってるように見えるやつが、ずっと止まってるとは限らないって話だ」
蓮は鞄の肩紐を直した。
「十五時まで、まだ時間はある」
「あと二時間もない」
「二時間あれば、紙一枚は書ける」
「何を書けばいいか分からない」
「分からないなら、分からないところから書け」
あまりにも簡単に言うので、僕は笑いそうになった。けれど、笑いは喉の途中で止まった。
蓮は軽く手を上げると、昇降口を出ていった。校門へ向かう背中は、迷いなく歩いているように見えた。けれど一度だけ、靴紐を確かめるように足を止めた。結び目を見下ろし、すぐに歩き出す。
僕はその背中が角を曲がるまで、掲示板の前に立っていた。
人がいなくなると、昇降口は急に広く感じられた。遠くでチャイムが鳴る。昼休みの終わりを知らせる音だった。
僕はポケットから進路調査票を取り出した。
クリアファイルの中で、紙は少し波打っている。ひよりの字が書かれた欄。その周囲には、僕が消しゴムをかけた跡が薄く残っていた。消すために触れたのに、まだ消えていない。むしろ、そこに誰かがいたことだけが濃くなっている。
「見ないふりしても、紙は白いままよ」
背後から声がした。
振り向くと、霧島奈々先生が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。片手に進路資料のファイルを抱え、もう片方の手には、赤いペンが一本挟まっている。霧島先生は僕の顔ではなく、持っている紙の端を見ていた。
「……聞いてました?」
「全部ではないわ」
「どこからですか」
「あなたが、走れると言われたあたりから」
「そこだけ聞かれると、すごく恥ずかしいです」
「恥ずかしいことを言われたからではなく、恥ずかしいと思うことを言われたからでしょう」
先生の声は平たい。責める響きはない。だからこそ、言葉がそのまま胸に落ちてくる。
「相沢くんは、あなたに答えを渡していなかった」
「はい」
「あなたも、答えをもらうつもりではなかった」
「……たぶん」
「たぶん、では困る?」
僕は紙の端を指で撫でた。ざらつきが指腹に引っかかる。ひよりが書いた文字の上には触れないようにしていたが、避けるほど、その存在を意識してしまう。
「先生は、これを見てどう思いますか」
僕は進路調査票を少し持ち上げた。
「夢の欄に、僕じゃない人の字があります。消したほうがいいですか。それとも、書いてあるなら出していいんですか」
霧島先生はすぐには答えなかった。
廊下を、遅れてきた生徒が走っていく。上履きが床を叩き、角を曲がる音が遠ざかる。掲示板のカバーが、空調の風でかすかに鳴った。
「私が決めていいなら、簡単でしょうね」
先生は言った。
「消しなさい、と言えば消す。残しなさい、と言えば残す。けれど、それではあなたの進路調査票にはならない」
「提出物なのに」
「提出物だからこそです。学校へ出す紙である前に、あなたが自分の名前で持ってくる紙でしょう」
僕は黙った。
「書けない理由を探すのは、悪いことではありません。理由が分からないまま、無理に前へ進むよりはいい。ただ、探すことを続けていれば、いつか誰かが代わりに結論を置いていく。家族かもしれない。友達かもしれない。学校かもしれない。あるいは、世間の平均や、模試の数字かもしれない」
先生の視線が、掲示板の紙へ移った。
「数字は便利です。誰がどれくらい進んでいるか、すぐに比べられる。けれど、数字に並ばない迷いまで、なかったことにはできません」
「迷いを残したまま、出してもいいんですか」
「迷いを残してはいけない、と誰が決めましたか」
問い返されて、僕は答えられなかった。
「ただし、空白のまま出すことと、迷いを書いて出すことは違います。白紙は、何も言っていない。迷いは、少なくとも自分の状態を引き受けている」
先生は赤ペンを指先で回した。僕と同じ癖なのに、先生の手元では迷いに見えなかった。回したあと、ペン先を机の端に揃えるように止める。
「十五時までに提出箱へ入れてください。完成した答えでなくてもいい。ただし、他人が完成させたものを自分の答えとして出すのは、やめなさい」
「ひよりは……」
名前を口にした途端、先生の目が僕へ戻った。
「栗原さんを責めたいのなら、まず自分の言葉を書いてからにしなさい。自分の空白を預けたまま、預かった相手だけを責めるのは、少し違うでしょう」
胸の奥を、指で押されたような気がした。
ひよりが勝手に書いたことは、ひよりのしたことだ。けれど、僕が何も言わず、笑って、あとでと言い続けたことも消えない。空白は僕のものだった。その空白を、僕は誰にも触れられない場所として守っていたつもりで、実際には誰かが埋めるのを待っていたのかもしれない。
そんな考えが浮かんだ瞬間、胃のあたりが冷えた。
「先生は、書けない生徒を見たら、どうしますか」
「すぐには何もしません」
「何もしない?」
「見ています。本人が紙を折るのか、隠すのか、誰かに渡すのか。書けないにも、いくつか種類があるので」
「見てるだけって、助けることになりますか」
「助けるために、必ず手を出す必要はありません」
霧島先生はそこで一度、言葉を切った。
「手を出さないことが、いちばん難しい場合もあります。相手が苦しそうにしていると、大人はすぐに答えを与えたくなる。けれど、答えを与えられた人が、その答えを生きられるとは限らない」
赤ペンが、先生の指から机へ置かれた。
「自分で書くまで待つ。それも指導です」
先生はそれ以上、何も言わなかった。
僕の視線の先には、昇降口から職員室へ続く廊下がある。その途中に、提出箱が置かれている。白い箱。黒い口。遠くからでも、口の中だけが深く見えた。
時計を見る。
十三時二十分。
十五時まで、百時間あるようにも、数分しかないようにも感じた。
僕は進路調査票をクリアファイルへ戻した。紙の角が少し折れかけていたので、指で押さえて伸ばす。ひよりの字が見える。消し跡も見える。どちらも、まだそこにある。
霧島先生は先に歩き出した。
僕も続こうとしたが、すぐには足が動かなかった。
廊下の突き当たりに、屋上へ続く立入禁止扉がある。灰色の扉はいつも閉じられていて、上から細い光だけが漏れていた。あの向こうには、校舎のどこからも見えない空があるのかもしれない。開けられない場所を想像すると、少しだけ息がしやすくなる。
けれど、扉は開かない。
僕はそこへ向かう代わりに、職員室のある廊下へ足を向けた。
歩き出すと、思ったより速くなった。紙を握った手が汗ばんでいる。シャツの襟が首に貼りつく。廊下の窓から入る風が、今度は逃げ道ではなく、背中を押すものに変わっていた。
提出箱は、まだ遠い。
それでも僕は、進路調査票を握り直した。ひよりの字を消すのか、自分の言葉を重ねるのか、そのどちらも決めてはいない。
ただ、白紙のまま隠しておくことだけは、もうできなかった。
← 横にスクロールして読み進められます
