2話 下書きの回収

昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気は一気にほどけた。椅子を引く音、弁当箱の蓋を開ける音、廊下から流れ込む食堂の匂い。窓際の席では誰かが購買のパンを取り合い、笑い声が波のように広がっていく。僕はその賑やかさの中で、机の中に手を突っ込んだまま固まっていた。

探しているのは、進路調査票のためにこっそり書いていた下書きだった。

誰にも見せるつもりのない紙だ。何度も書いては消し、消しては書き直した、汚い字の羅列。決められない理由を並べただけの、恥ずかしいくらい情けない文章だった。それでも、あの紙は僕にとって唯一、本音に近いものを吐き出した場所だった。将来の夢の欄に何も書けない代わりに、せめてその下書きの中でだけは、自分がどれだけ迷っているかを正直に書けた気がしていた。

机の中を探る指先に、消しゴムの粉のざらつきと、丸まった紙くずの感触が返ってくる。教科書の角、ノートの隙間、筆箱の下。何度確かめても、あの紙だけが見つからない。

焦りが喉の奥からせり上がってくる。

机を伏せて中を覗き込んだ拍子に、金属の脚が床に触れて、思ったより大きな音を立てた。近くの席の女子が一瞬こちらを見て、何でもないと分かるとすぐに視線を戻す。それだけのことなのに、僕の心臓は余計に速く動いた。

下書きがない。

誰かに拾われた。誰かに見られた。その可能性を考えるだけで、指先が冷たくなっていく。あの紙には、部活を辞めた理由をごまかさずに書いた部分がある。期待に応えようとして疲れたこと。呼吸が先に切れたこと。誰にも見せたくなかった、みっともない本音のかけらだ。

もう一度、机の奥を探る。

そのとき、廊下側の扉が開く音がして、栗原ひよりが戻ってきた。

購買にでも行っていたのか、彼女の手には何も持っていなかった。代わりに、進路調査票を両手できちんと持っている。ひよりはいつも通りの足取りで僕の席まで歩いてきたが、その顔を見た瞬間、僕は妙な違和感を覚えた。

頬はいつも通り明るいのに、目の奥だけが、笑っていなかった。

「結斗、ちょっといい?」

声のトーンも、いつもより少し低い。からかうような響きがない。

「あ、うん」

僕が生返事をすると、ひよりは僕の机の上に進路調査票をそっと置いた。紙が机に触れる音が、やけに丁寧に聞こえた。それから彼女は、もう一枚、小さく折られたメモを取り出して、進路調査票の隣に並べる。

僕はそのメモを見て、息を止めた。

そこには、僕の下書きに書いていた「まだ決められない」という言葉が、僕の乱雑な字ではなく、ひよりの丸みのある字で、丁寧に清書されていた。まるで、僕の迷いを誰かに読ませても恥ずかしくない形に、整えるみたいに。

「これ……」

「机の下に落ちてたよ。掃除のとき見つけた」

ひよりの声は淡々としていた。けれど、その淡々とした調子の裏に、何かをこらえるような硬さがあることに、僕は気づいていた。

「拾ってくれたのはありがたいけど」

僕はそこまで言って、視線を進路調査票の方へ落とした。

そして、言葉が続かなくなった。

将来の夢、と印刷された欄。そこに、僕の字ではない文字が、すでに埋まっていた。

ひよりの筆圧だ。すぐに分かった。丸くて、迷いがなくて、けれど僕の字よりずっと綺麗な文字。その欄には、僕が今まで一度も口にしたことのない言葉が並んでいた。

ありきたりな「先生になりたい」でも「公務員になりたい」でもない。もっと具体的で、もっと僕自身の輪郭に近い言葉だった。まるで、僕の頭の奥に眠っていた景色を、誰かが覗き見て、代わりに紙へ写し取ったみたいな。

喉が、ひりついた。

インクはもう乾いているはずなのに、僕の目にはまだ濡れて見える。触れたら滲んでしまいそうな気がして、指を伸ばせなかった。

「……なんで」

声が、自分でも驚くほどかすれた。

「なんでこんなことしたんだよ」

「だって」

ひよりは、そこで初めて笑おうとした。いつものように、軽く、何でもないことのように。けれど、その笑みは途中で止まった。

「結斗、ずっと書けなかったじゃん。朝からずっと。ペン持って、止まって、また持って。見てて、こっちが苦しくなるくらい」

「だからって」

「下書き見つけたとき、結斗が『まだ決められない』って書いてるの見て。それ、結斗の本音なんだって分かった。でも、本音だけ書いて出しても、先生に叱られるだけじゃん。だから、その気持ちを守ったまま、ちゃんと出せる形にしてあげたくて」

「守ったって……」

僕は言葉に詰まった。守る、という言葉が、今の僕にはひどく歪んで聞こえた。

「これ、僕の夢じゃないだろ」

「知ってるよ、それくらい」

「知ってて書いたのかよ」

「知ってるからこそ、書けたんだよ」

ひよりの声が、少しだけ早口になった。彼女が焦っているときの癖だ。

「結斗がずっと言ってたこと、私、全部覚えてるから。将来の話になると、いつも笑ってごまかして、でもその笑い方、全然楽しそうじゃなくて。何が好きなのって聞いても、はぐらかすだけで。でも、たまにぽつっと言うことあったじゃん。ああいう場所で働けたらいいなとか、こういうの見るとちょっと憧れるなとか。私、それ全部覚えてて、それを繋げただけだよ」

「繋げただけって……それ、僕の言葉じゃなくて、ひよりが繋げた僕の言葉だろ」

僕は自分の声が、思ったより尖っているのに気づいた。だが止まらなかった。

「僕がまだ、自分でも繋げられてなかったものを、勝手に繋げるなよ」

ひよりの表情が、ふっと固まった。

教室のざわめきは変わらず続いている。誰かが弁当のおかずを分け合い、誰かが笑い、窓の外では体育の授業らしい号令が響く。けれど僕らの机の周りだけ、空気がやけに重かった。

「ごめん」

ひよりは、そう言った。だが、すぐに続けた。

「ごめん、でも、私も分かってなかったわけじゃないよ。結斗が、自分の言葉で書きたいって思ってるの、本当は分かってた。でも、時間がなかったから。今日、十五時が締め切りで、結斗はまだ何も書けてなくて、このままじゃ提出できなくて、担任に呼び出されて、また結斗が『すみません』って謝るだけの時間になるのが、嫌だった」

「僕の問題だろ、それは」

「結斗の問題だけど、私にとっても他人事じゃないよ」

ひよりは、机の上の進路調査票を指先で軽く押さえた。

「結斗が何も書けないまま提出箱の前で立ち尽くしてるところ、私、想像できるんだよ。今日だけじゃなくて、今までも何度も見てきたから。文化祭の出し物決めるときも、修学旅行の班決めるときも、結斗はいつも最後まで何も言わないで、周りが決めたことに合わせて、それで平気な顔して笑って。私、それを見るたびに、少しずつ心配になってた」

「心配だからって、代わりに書いていいわけじゃない」

「分かってる。分かってるけど……」

ひよりの声が、初めて震えた。

「分かってても、結斗が黙ってるのを、ただ見てるだけの方が、私には苦しかったんだよ」

その言葉に、僕は一瞬、返す言葉を失った。

ひよりの目には、いつもの明るさの奥に、何か焦りに似たものが揺れていた。それは僕を試すためでも、からかうためでもない。彼女なりの、不器用な必死さだった。

けれど、その必死さが、僕の空白を勝手に埋めてしまったことは、変わらない事実だった。

僕は進路調査票を手に取った。紙の重さは、さっきまでと変わらないはずなのに、やけに重く感じた。ひよりの字で埋められた「将来の夢」の欄を、もう一度見つめる。

具体的な言葉だった。僕がいつか誰かに、ほんの一言だけこぼしたことのある景色。だがそれは、僕がまだ自分自身の言葉として完成させていない、曖昧な断片に過ぎなかった。

それを、ひよりは僕より先に、僕よりも整った形で、紙の上に固定してしまった。

「これ、消すから」

僕はそう言って、消しゴムに手を伸ばした。

ひよりの手が、一瞬だけ動きかけて、止まった。止めたい、という気持ちが見えた。けれど、彼女はそれ以上、手を伸ばさなかった。

「……うん」

小さな声だった。いつもの早口でも、いつもの明るさでもない。

僕は消しゴムを紙の上に置いたまま、けれど、すぐには動かせなかった。

消せば、ひよりが必死に繋げてくれた言葉を、跡形もなく消し去ることになる。それは彼女の善意への裏切りのようにも思えた。だが、残せば、これは一生、僕の言葉にはならない。

どちらも選べないまま、僕はただ、白かったはずの紙の上で、他人の筆圧に押し潰されそうになっている自分の名前を見つめていた。

昼休み終了のチャイムが鳴る。

教室のざわめきが、潮が引くように静まっていく。ひよりは何も言わずに自分の席へ戻り、椅子に座った。いつものように隣に座っているのに、その距離が、今日はやけに遠かった。

僕は進路調査票を、折らずにそっと机の中へしまった。

指先には、まだ消しゴムの粉のざらつきが残っていた。

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