1話 配られた白紙

朝の教室には、窓を開けても逃げない熱が溜まっていた。

三階の端にある二年A組まで上がってくる風は、階段の踊り場で力を使い果たしてしまうらしい。開け放した窓から入ってくるのは、ぬるい空気と、校庭の砂が焼ける匂いだけだった。天井近くの扇風機が、首を振るたびにきしむ。黒板の前で舞い上がった埃が、朝の光の中をゆっくり落ちていく。

席に着くなり、栗原ひよりが僕の机の端を指で叩いた。

「おはよ。今日、顔が昨日より三割くらい死んでる」

「昨日の僕、そんなに生きてた?」

「うん。昨日は二割くらい生きてた」

ひよりはそう言って笑った。肩までの髪をいつものように片側へ寄せ、机の上に小さなペンケースを置く。薄い黄色の布地に、見覚えのない猫の刺繍が増えていた。たぶん、またどこかで買ったのだろう。

「新しい?」

「昨日、駅前で見つけた。かわいくない?」

「猫なのか、たぬきなのか分からない」

「そこがいいんじゃん」

ひよりはペンケースを僕の机の角へ寄せた。僕がそこに教科書を置くから、いつも少しだけ場所を空けてくれる。その手つきは自然で、僕が礼を言うほどのことでもないように見えた。

朝のホームルームが始まる前、担任の先生が教室へ入ってきた。手には、白い紙の束を抱えている。

「進路調査票を配ります。今日は締め切りです。十五時までに職員室前の提出箱へ入れること。未提出の場合は、放課後に確認します」

教室の空気が、わずかに沈んだ。

先生が列の間を歩き、紙を一枚ずつ配っていく。机の上へ置かれるたび、紙の端が乾いた音を立てた。薄い紙なのに、音だけはやけに大きい。誰かがすぐに裏返し、誰かが隣の席へ身を寄せる。前の席の男子は、配られた瞬間に志望校の欄へ何かを書き始めた。

僕の前にも、進路調査票が置かれた。

白い。

紙というものは、何も書かれていなければただの白い面でしかないはずなのに、その紙にはこちらを見返す目があるように思えた。上から順に、名前、現在の成績、志望する進路、将来の夢、その理由。枠線に囲まれた欄が、僕の返事を待っている。

シャーペンを取り出す。芯を少しだけ出す。指でペンを回す。持ち直す。

名前は書ける。クラスも書ける。そこまでは、誰の名前を借りる必要もない。

問題は、その下だった。

将来の夢。

僕はその欄の上にシャーペンを置いたまま、動けなくなった。

窓の外では、体育の授業らしい笛が鳴った。遠くで誰かが笑い、廊下を走る足音が近づいて、また遠ざかっていく。教室の中では、紙をめくる音と、シャーペンの芯が走る音が混ざり合っていた。

僕のところだけ、時間が止まっている。

何もしたくないわけではない。嫌いなものだって、いくつかはある。朝早く起きること。人前で発表すること。夏の体育館。部活を辞めたあとも筆箱の中に残っている、古いチームのシールを見ること。

けれど、好きなものを一つ挙げろと言われると、途端に言葉が薄くなる。進路に結びつけられるほど好きなものはない。続けたいと言い切れるものもない。

部活だって、最初は続けるつもりだった。

入部した頃は、練習のきつさも、先輩の声も、むしろ気持ちよかった。汗で濡れたシャツが肌に張りつく感覚も、土の匂いも、嫌いではなかった。自分が少しずつうまくなっていると思えた時期もあった。

それでも、ある日、呼吸が先に切れた。

周りが走り続ける中で、僕だけが足を止めた。顧問の声が聞こえた。仲間の視線も分かった。大丈夫です、と笑ってみせた。けれど、その笑顔を作った時点で、もう戻れなかった。

辞めた理由を聞かれたとき、僕は「ちょっと合わなくて」と答えた。誰もそれ以上は聞かなかった。ひよりだけが、帰り道でしばらく黙って歩いたあと、「そっか」と言った。

責められなかったことが、かえって苦しかった。

進路調査票の白い欄は、あの日の続きを書けと言っているようだった。今度は途中で辞めないものを。最後まで続けるものを。失敗しても言い訳できないものを。

シャーペンの芯先が紙に触れた。

小さな黒い点ができる。

僕はすぐに消しゴムをかけた。白い粉が細かく散り、指の腹にまとわりつく。消した跡は、完全には消えない。紙の表面が少し毛羽立って、そこだけ光を鈍く返した。

「結斗」

ひよりの声が、隣から落ちてきた。

「ん?」

返事をする前に一拍置いた。いつもの癖だった。その一拍のあいだに、ひよりが僕の手元を見ているのが分かった。

「そこ、名前じゃないよ」

「分かってる」

「名前の欄、もう終わってる」

「それも分かってる」

「じゃあ、何を書こうとしてたの」

僕は紙から顔を上げて、ひよりを見た。ひよりは笑っていたが、目だけが笑っていなかった。僕の答えを待つために、口元だけで笑っている。

「将来の夢かな」

「そう。将来の夢」

「今、書いてるところ」

「何を?」

「夢を」

「だから、何の?」

逃げ道が、ひよりの言葉で一つずつ塞がれていく。

僕は笑った。うまく笑えているかは分からない。

「まだ秘密」

「結斗の秘密って、だいたい何も決まってないだけじゃん」

軽口の形をしていたが、声の奥に焦りが混じっていた。

僕は紙の端を指で撫でた。ざらついた感触が、指先から腕の中へ這い上がってくる。ひよりは昔から、僕が困ると先に動いた。忘れ物をすれば自分の予備を出し、発表の順番が近づけば話す内容を一緒に考え、僕が返事に詰まれば隣から適当な言葉を差し出した。

助かってきた。

何度も。

だから、嫌だと言うのは難しかった。助けられることに慣れると、助けられたくない瞬間まで説明しなければならなくなる。

「あとで書くよ」

僕はそう言った。

「あとでって、いつ?」

「昼休みとか」

「締め切り、今日の十五時だよ」

「知ってるって」

「知ってる人の紙には見えないけど」

ひよりの指が、机の上で小さく動いた。ペンを握っていないのに、何かを書こうとするような動きだった。爪の先で机の表面を二度叩く。彼女が考えているときの癖だ。

僕は窓の外へ目を向けた。

校庭の端に植えられた木の葉が、風もないのに揺れている。下では一年生が列を作っていた。誰かが笑い、誰かが肩を押し、列が少しだけ崩れる。ああいうふうに、行き先が決まっているように動けたらいいと思う。たとえ行き先が体育館でも、教室でも、家でもいい。自分がどこへ向かっているのかを、いちいち考えずに済むなら。

そのとき、前の席から声が飛んできた。

「相沢、推薦の欄もう書いた?」

相沢蓮が顔を上げた。

「書いた」

「早っ。志望校、あそこだろ?」

「そう」

「判定、今回もAだったって?」

「まあ」

蓮は短く答え、すぐに自分の紙へ視線を戻した。机の上の書類は端まできっちり揃っている。シャーペンも消しゴムも、決められた場所にあるみたいに動かなかった。

「すげえな。もう決まってんの?」

「決めたから、書いた」

それだけ言って、蓮は手を止めなかった。

その声には自慢がなかった。だから余計に、僕の白紙が目立った。

教室の何人かが蓮の机を覗き込み、志望校の名前を確かめている。進路の話は、成績の話と同じように人を集める。誰がどこを目指すのか。推薦を狙うのか。家から通えるのか。何年後にどこへ行くのか。

まだ高校二年なのに、僕らの未来はすでに掲示板や紙の上へ並べられ始めていた。

「結斗は?」

蓮がこちらを見た。

返事をする前に、また一拍置いた。

「僕? まあ、これから」

「締め切りは今日」

「うん。それまでには」

蓮は僕の顔を見たまま、何も言わなかった。責めるでもなく、笑うでもない。ただ、僕がいつものように曖昧な言葉を置いたことだけを確かめるような目だった。

先に視線を逸らしたのは僕だった。

ひよりが、隣でペンを回し始めた。いつもなら三回目で指に収まるペンが、今日は二度、机に落ちた。

「ねえ、結斗」

「なに」

「ほんとに、何もないの?」

さっきまでより、声が小さかった。

僕は進路調査票を見つめた。将来の夢の欄は、まだ白い。白いままなのに、ただの空白ではなくなっている。僕が書けなかった時間や、辞めた部活や、笑って濁した質問の数が、そこに積もっている。

「ないっていうか」

喉が乾いていた。唾を飲み込むと、ひどく大きな音がした気がする。

「決めたら、変えられない感じがするから」

言ってしまってから、しまったと思った。

ひよりのペンが止まった。

教室の騒めきは続いている。誰かが椅子を引き、窓の外で笛が鳴り、扇風機が首をきしませている。それなのに、僕らの机の周りだけ音が遠くなった。

ひよりは、僕の顔ではなく、白紙の欄を見ていた。

「変えていいじゃん」

「簡単に言うなよ」

「簡単じゃないよ」

ひよりはすぐに返した。反応が速すぎて、考える前に言葉が出たのだと思う。

「変えていいって言うのは、簡単に決めろって意味じゃない。書いたあとで違うと思ったら、違うって言えばいい。やってみて無理なら、やめてもいい。結斗は、やめたことをずっと失敗みたいに持ってるけど、続けるのが無理なときにやめるのだって、決めることじゃん」

「でも、途中でやめた」

「うん。やめた。でも、それで結斗が何もできない人になったわけじゃない」

「そういうふうに、すぐきれいにまとめるなよ」

声が、自分でも驚くほど尖った。

ひよりの指が止まる。明るい表情から、薄い笑いだけが落ちた。

「きれいにまとめてない」

「まとめてるよ。僕が書けないから、書ける理由を作ってる」

「理由くらい作ったっていいでしょ」

「よくない」

言葉が先に出た。胸の奥で長いあいだ折り畳まれていたものが、紙の角のように急に跳ね返った。

「僕が書けないのは、ひよりが思ってるより単純じゃない。頑張ればいいとか、変えていいとか、そういう話じゃなくて……僕は、書いたものを自分で引き受けられるか分からないんだよ。書いて、誰かに見られて、違ったら笑われる。続かなかったら、また途中で投げたって思われる。だから、何も書かなければ、少なくとも失敗したことにはならない」

ひよりは黙っていた。

言葉にしてみると、ひどく幼い考えに聞こえた。そんなことを恐れて、今まで何度も笑って逃げてきたのかと思うと、紙より自分のほうが白々しく感じられた。

「……結斗」

「だから、今はまだいいんだよ。白紙で」

ひよりの目が、わずかに揺れた。

「白紙なら、誰にも何も言われないから」

その言葉を口にした瞬間、教室の時計が秒針を刻んだ。

ひよりは何かを言いかけた。けれど、結局、唇を閉じた。いつもなら、ここで冗談を言う。僕の気を逸らすために、昼の購買の話でも、駅前の新作アイスの話でもする。

今日はしなかった。

彼女は自分の進路調査票を机の中へしまい、僕の紙には触れなかった。

それだけのことなのに、僕はひどく落ち着かなかった。

ホームルーム終了のチャイムが鳴る。先生が黒板に「提出十五時」と書き、教室を出ていく。生徒たちは一斉に立ち上がり、机の脚が床を擦った。白紙を隠すように、みんなが紙を教科書の下へ滑り込ませる。

僕も進路調査票を折らずに机の中へ入れた。

そのとき、ひよりが立ち上がった。いつもならすぐに次の授業の準備を始めるのに、今日は机の中を覗き込んだまま動かない。

僕の机の奥には、数日前から挟みっぱなしにしていた下書きがある。

進路調査票に向き合うために、誰にも見せないつもりで書いた紙だ。そこには、決められない理由をいくつか並べたあと、最後に一行だけ、途中で消しかけた言葉が残っている。

僕はそれを思い出し、慌てて机の奥へ手を伸ばした。

しかし、指先に触れたのは消しゴムの粉と、折れた紙の角だけだった。

下書きがない。

僕は机の中をもう一度探った。教科書を出し、ノートをめくり、筆箱の下を確かめる。何もない。紙の切れ端すら見つからない。

「どうしたの?」

ひよりが、すぐ隣に立っていた。

「いや……なんでもない」

そう答えながら、僕は笑おうとした。

けれど、ひよりは笑わなかった。

僕の机の中と、僕の顔を交互に見ている。いつものように、僕が何かを隠した瞬間を見逃さない目だった。

その目が、今日は妙に静かだった。

窓の外から、遅れてきた風が教室へ入ってきた。熱を含んだ風が、机の上の進路調査票をわずかに震わせる。白紙の欄が、僕の手の届かない場所へ滑っていくように見えた。

僕は慌てて紙を押さえた。

指先に、ざらついた感触が返ってきた。

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