第10話 提出箱の口

職員室前の廊下は、教室よりも静かだった。
さっきまで聞こえていた部活動の声も、ここまで来ると壁の向こうへ沈んでいる。蛍光灯の白い光が床に細長く落ちて、その先に提出箱が置かれていた。
箱の口は、思っていたより狭かった。
紙一枚なら入る。けれど、僕が今日一日抱えてきたものまで入るとは思えなかった。ひよりの字。消し跡。僕の一行。蓮の言葉。母さんの顔。全部を折りたたんで、四角い箱の中へ押し込めるような気がした。
足音が後ろから近づいた。
「結斗」
振り返ると、ひよりが立っていた。
鞄は肩に掛かっている。教室へ戻ると言っていたのに、まだ帰っていなかったらしい。息は切れていない。ただ、走ってきたのか、前髪が少し乱れていた。
「来たんだ」
「来た」
「教室、戻るんじゃなかったのか」
「戻ったよ。一回。机に座って、鞄を置いて、黒板を見て、窓を見て、それから出てきた」
「何しに」
「分からない」
ひよりはそこで笑おうとした。けれど、今日は笑いきれず、口元だけが動いた。
「結斗が出すかどうか、見に来たわけじゃないからね」
「じゃあ、何で来た」
「私がここにいたかったから」
その言い方は、以前のひよりならしなかった。いつもなら、僕のためだとか、心配だったとか、もっと分かりやすい理由を先に出したはずだ。
自分のために来た、と言われると、少しだけ困る。
「見ててもいい?」
「提出するところを?」
「うん。でも、何も言わない」
「それ、できるのか」
「できる」
「さっきも言ってた」
「さっきは練習。今は本番」
ひよりは提出箱から少し離れた壁際へ移動した。手を前で組み、僕の紙には触れない。僕の鞄にも、腕にも、視線以外では近づかない。
その距離が、妙に広かった。
僕は進路調査票を取り出した。
紙の表面は、何度も触ったせいで少し柔らかくなっている。夢の欄には僕の字がある。志望校の欄は、まだ空白だ。理由の欄にも、まとまった文章は書けていない。
これで提出していいのか。
紙を見れば見るほど、足りないところが目についた。志望校がない。職業名がない。理由も十分ではない。先生に見せたら、考え直してこいと言われるかもしれない。母さんに見せたら、これでは何も分からないと言われるかもしれない。
ひよりの書いた夢は、もっときれいだった。
誰かを支える仕事に就きたい。
僕のことをよく見ているようで、実際には僕が言っていない言葉だった。あれなら、先生も母さんも安心する。夢らしくて、理由もつけやすくて、未来の形をしている。
「まだ、空いてる」
僕は言った。
ひよりは答えなかった。
「志望校も、理由も。夢のところだって、これだけだ。こんなの提出したら、また呼び出される」
壁際のひよりが、組んだ指を少し動かした。
「呼び出されたら、行けばいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないよ」
ひよりは僕を見た。
「呼び出されたら、また書けばいい。書き直していいって、結斗が言ったじゃん」
「僕が?」
「先生が言った。蓮も言った。結斗も、たぶん分かってる」
「分かってるけど、何度も書き直すのは、最初から書けてないのと同じじゃないか」
「違うよ」
ひよりは少しだけ間を置いた。
「最初から書けてない人は、何もしてない人じゃない。書けるところまで来るのに時間がかかってる人でしょ。結斗は今日、書いた。あとで違うと思ったら、また書けばいい」
「ひよりは、そうやって何でも前向きにする」
「前向きじゃないよ」
ひよりの声が低くなった。
「私だって、今日のことは失敗したと思ってる。結斗の紙に勝手に書いたこと、まだ嫌だし、思い出すたびに手が勝手に動きそうになる。でも、失敗したからって、最初から全部なかったことにしたら、結斗が書いた一行まで消えるから」
僕は紙へ目を落とした。
「ひよりの字を消したから、ひよりのことも消したみたいになる」
「ならないよ」
「でも、そう見える」
「見えてもいい」
ひよりは、意外なほどはっきり言った。
「私が書いたものを消すのは、結斗が自分で決めるために必要だったんでしょ。だったら、消していい。私が傷つくから残してって言うほうが、また結斗に私の都合を背負わせる」
提出箱の中から、紙の重なる音がした。
誰かが少し前に投函した用紙が、底へ滑ったのだろう。乾いた音だった。紙は、落ちたあとに何も言わない。
僕は用紙を二つ折りにした。
折り目をつけると、僕の一行の真ん中に線が走った。文字が途切れたように見える。それでも、消えたわけではない。
箱の口へ紙を差し込む。
指先が、最後のところで止まった。
「結斗」
ひよりが呼んだ。
「なに」
「私は、ここにいる」
僕は振り返った。
「でも、押さない」
ひよりの手は、身体の横にあった。シャーペンも、消しゴムも持っていない。何も差し出さず、ただそこに立っている。
僕は紙から手を離した。
紙が箱の中へ落ちる。
小さな音がした。
それだけだった。
世界が変わる音ではない。廊下の蛍光灯も、職員室のドアも、遠くの運動部の声も、そのままだった。
けれど、僕の手の中から紙がなくなった。
もう、書き直す前の状態には戻せない。
職員室のドアが開いた。
「篠宮くん」
霧島先生が顔を出した。僕とひより、それから提出箱へ視線を移す。
「提出しましたか」
「はい」
「内容は見ました。空欄がありますね」
「……はい」
「明日、呼び出します」
心臓が一度、重く鳴った。
ひよりがこちらを見た。けれど、何も言わない。
「書き直しですか」
「確認です」
霧島先生はそう言って、提出箱の蓋を閉めた。
「空欄を埋めるためではありません。今日、あなたが何を書いたのかを、あなた自身に確認してもらいます」
「それで、まだ分からなかったら?」
「分からないまま来なさい」
霧島先生は職員室の中へ戻ろうとした。
「先生」
僕は呼び止めた。
「はい」
「この一行、消されませんか」
霧島先生は少しだけ目を細めた。
「あなたが書き直すまで、こちらから消すことはしません」
それだけ言って、ドアが閉じた。
ひよりが、壁から背を離した。
「帰る?」
「うん」
「アイス、食べる?」
「また?」
「今日は私が買う。勝手に選ばない。結斗が選んでから、同じのを買う」
「同じじゃなくていいだろ」
「じゃあ、隣にあるやつ」
「それも選んでるじゃん」
ひよりは、今度こそ少し笑った。
僕も笑った。うまく笑えたかは分からない。けれど、誰かの言葉に合わせた笑いではなかった。
昇降口へ向かう途中、僕は一度だけ振り返った。
提出箱は、何も知らない顔で職員室前に置かれている。中には、僕の紙がある。空欄も、消し跡も、はみ出した字も、そのまま。
明日になれば、また書くことになる。
そのことを考えると、喉は少し乾いた。
それでも、今度は白紙の前で立ち尽くしているわけではなかった。紙の上には、僕の一行が残っている。
ひよりは先に歩かず、僕の隣で足を緩めた。
僕はその速さに合わせた。
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