5話 佐伯の茶と、言いかけたこと

佐伯義人の家は、木造の医院の脇に細い路地を挟んで建っていた。

医院の軒先には、雨に濡れた自転車が三台並んでいる。ひとつの籠に、薬局の白い袋が押し込まれていた。風が吹くたび、袋の口が開き、閉じる。中身のない呼吸のようだった。

私は玄関前で傘を閉じた。雫が石の上へ落ち、薄い輪をいくつも作った。

表札には、かすれた墨で佐伯とある。文字の一部が雨に削られていたが、削れた箇所を誰かが黒く塗り直した跡があった。直すというより、消えかけたものを消えかけたままにしないための手当てに見えた。

呼び鈴を押すと、家の奥で何かが倒れる音がした。続いて、咳払いが一つ。

「開いている。入れ」

声は思ったより低かった。

玄関を上がると、湿った畳と薬の匂いがした。廊下の突き当たりに小さな石油ストーブが置かれ、その上で湯が沸いている。壁際には古い新聞の切り抜きが、年代順に紐で束ねられていた。束の端はすべて揃っている。薬袋は薬袋でまとめられ、眼鏡ケースは机の右隅、新聞は左隅。整頓というより、散らばるものを散らばらせないための執念が、部屋全体に沈んでいた。

窓辺に、佐伯が立っていた。

濃紺のカーディガンの肩が落ち、片手に湯飲みを持っている。外の雨脚を見ていたらしく、私が入ってもすぐには振り向かなかった。

「篠崎です」

「分かっている。源蔵さんの孫だろう」

「お会いしたことが?」

「何度か。お前が小さいころにも見た。源蔵さんの後ろに隠れて、こっちを見ていた」

「覚えていません」

「覚えていないほうがいいこともある」

佐伯はようやく振り返った。頬は痩せていたが、目の周りには昔の刑事らしい硬さが残っていた。私の顔を見ると、ほんの一瞬だけ視線を外し、窓の雨へ戻した。

「茶を飲むか」

「いただきます」

「薄いぞ。病院帰りの茶は、湯のほうが多い」

「構いません」

佐伯は薬袋の横に置いてあった急須を持ち上げ、二つ目の湯飲みへ茶を注いだ。色はほとんどついていない。湯気だけが立ち、茶葉の匂いはかすかだった。

「砂糖はない。昔は刑事も甘いものを飲んだが、今は血圧が許さん」

「佐伯さんは、五十年前の失踪事件を担当していたと聞きました」

「聞いた相手は誰だ」

「資料室の記録と、町の人の話です」

「町の人間は、よく話すな。話したことを忘れたふりも、よくする」

私は鞄から資料を取り出した。青柳写真店で複写したフィルム、町内会名簿の改訂部分、電報の控え。濡らさないよう一枚ずつ薄紙に包んである。

机の上を空けるため、佐伯が新聞の束を持ち上げた。持ち上げたあと、置き場所を決められず、束を一度机の中央へ置き、また左端へ戻した。その動きが祖父に似ていた。

私は資料を一列に並べた。

左から、写真、名簿、電報。

佐伯の喉が小さく鳴った。

「写真は、青柳のところか」

「はい。失踪当夜の坂道を写したものです。三人の影がある」

「三人?」

「若い女性と、工場帰りらしい男。もう一人は画面の端で切れています」

佐伯は湯飲みに口をつけた。茶は薄いはずなのに、飲み込むまでに妙な時間がかかった。

「写真は、証拠にならん」

「証拠だとは言っていません。記録です」

「同じことだ」

「違います。証拠にするには、撮影時刻や撮影者の確認が要る。ですが、記録としてなら、誰かが何を残し、何を切ったのかを考える材料になる」

私は写真の右端を指した。

「ここは、あとから切られています。青柳さんは祖父が切ったと言いました」

佐伯の指が、机の端を一度なぞった。

「源蔵さんが?」

「たぶん、と」

「青柳は、たぶんで話す男じゃない」

「五十年前の記憶です」

「だから余計に、細部だけは残る」

佐伯は窓の外を見た。雨の筋が硝子を斜めに走っている。医院の屋根から水が落ち、金属の樋を叩く音が一定の間隔で続いていた。

「朝倉ミツエは、失踪だったんですか」

私は訊いた。

佐伯はすぐには答えなかった。湯飲みを机へ置き、置いた位置が少しずれていることに気づくと、指で底を押して直した。

「たしか……」

そこまで言って、咳が出た。

一度では終わらなかった。背中を丸め、左手で胸を押さえる。私は立ち上がりかけたが、佐伯が手を上げて制した。

「大丈夫だ。年寄りの咳は、返事をしたくないときにも出る」

「質問を変えます」

「変えるな。変えたら、また最初から逃げることになる」

「では、答えてください」

「失踪かどうかは、最初から分からなかった。家出の可能性もあった。女が男と駆け落ちした、仕事が嫌になった、家族と揉めた。そういう話は、どの町にもある」

「ミツエさんにも、その可能性が?」

「可能性は、誰にでもある」

「でも、彼女は何かを見た」

佐伯の目が、写真の女の影へ落ちた。

「誰から聞いた」

「佐伯さんの反応からです」

「反応で事件を作るな」

「作ってはいません。名簿の空白と、電報の順番と、写真の切断面を並べています。三つとも同じ方向を向いている」

「紙は方向を向かない」

「人が向けたんです」

佐伯は口を閉じた。怒った様子はなかった。ただ、言葉を探すためではなく、言葉を出したあと何が壊れるかを測っている顔だった。

「ミツエは、工場の帳面を見ていた」

「帳面に不正があった?」

「不正という言い方は、あとからならできる。あの頃は、数字を合わせるためのやり方と呼ばれていた」

「誰の数字を?」

「工場の原料仕入れ、製品の出荷量、賃金の計算。細かいところで数字が合わなかった。少しずつなら、誰も騒がない。だが積み上がれば、誰かが金を抜いていたことになる」

「北条家が関わっていた?」

佐伯は咳払いをした。

「北条は工場の所有者ではない」

「所有者ではないから、関係がないとは言えない」

「言っていない」

「では、何を言っているんですか」

「北条は、町の中で金の流れを止めたり、流したりできる人間だった。工場の経営者、町内会、銀行、警察。直接命令しなくても、誰かが先に顔色を見る。そういう位置にいた」

佐伯は湯飲みを両手で包んだ。指先がわずかに震えている。

「北条は、事件のあと町の顔役を集めた。工場の主人、町内会長、商工会の連中。それから私も呼ばれた」

「どこへ?」

「北条家の離れだ。雨が降っていた。畳が湿って、座布団の端が冷たかった」

それは、今の北条家の茶席と同じ空気なのだろうか。磨かれた板間、整えられた器、丁寧な声。五十年という時間が過ぎても、場所の作り方だけは変わらない。

「北条は何と言ったんです」

「町のために、騒ぎを大きくしないほうがいい、と」

「それだけですか」

「それだけで十分な人間もいる」

「佐伯さんは?」

「私は、捜索を続けると言った」

「続けたんですか」

佐伯は答えなかった。

私は机の上の名簿を、写真と電報の間へ移した。三枚の紙が一直線になる。佐伯はその並びを見て、目を細めた。

「捜索はした。工場の裏、川沿い、銭湯、親類の家。だが、北条のところへ行ったあと、上から方針が変わった」

「方針?」

「事件性が薄い。本人の意思による失踪の可能性が高い。家族もそれを望んでいる。そういう文言になった」

「家族が望んだ?」

「誰かが家族へ話をしたんだろう。家出にしておけば、ミツエの弟は工場に残れる。母親は町に住み続けられる。そういう説明だった」

「それを信じたんですか」

「信じたわけじゃない」

「では、なぜ署名した」

佐伯は目を閉じた。

「署名したことは覚えている。理由は、もう正確には覚えていない」

「記憶が曖昧なんですか」

「そうではない。理由を思い出すと、今でも自分が署名する瞬間に戻る。だから、記憶が曖昧になったふりをしている」

その言葉は、咳よりも苦しそうだった。

私は返事をしなかった。責める言葉はいくつも浮かんだ。刑事だったなら追うべきだった。圧力があっても記録を残すべきだった。だが、それを口にした瞬間、私は何も知らない側の人間になる気がした。佐伯が背負った五十年を、正義という薄い布で覆ってしまう。

「源蔵は、あの場にいたんですか」

佐伯は指先で机の端をなぞった。

「いた」

「何をしていました」

「黙っていた」

「それだけ?」

「お前の祖父は、ああいう場ではよく黙った。反対しているのか、賛成しているのか、最後まで分からない黙り方だった」

「祖父はミツエさんを見捨てたんですか」

「違う」

初めて、佐伯の声に強いものが混じった。

「違うと言い切れるんですか」

「源蔵さんは、翌朝、私のところへ来た。捜査本部ではなく、署の裏口へ回ってきた。濡れた靴のまま立っていた。手に封筒を持っていた」

私は息を止めた。

灰色の封筒の表面が、脳裏に浮かんだ。宛名の「朝」の一画。封の甘さ。内側に貼りついた細長い影。

「その封筒は、ミツエさん宛てだった?」

「知らない」

「見たんでしょう」

「宛名までは見ていない」

「祖父は何と言ったんです」

「言わなかった。封筒を出して、またしまった。それから、私にこう聞いた。『家族に話せば、あの人は戻りますか』と」

「佐伯さんは?」

「戻らない、と言った」

「なぜ、そんなことを」

「刑事の言葉ではないな」

「でも、あなたはそう言った」

「そうだ。戻らない。話したところで、消えた人間が戻るわけではない。そう言ってしまった」

佐伯は湯飲みを口へ運んだ。中身はもう冷めている。

「今なら分かる。源蔵さんが聞いていたのは、ミツエのことだけじゃない。家族を巻き込まずに、見たことを残す方法があるかと聞いていた。私は、それを聞き取れなかった」

私は資料の一枚に手を伸ばしかけ、止めた。

「北条は、祖父に何をしたんですか」

「何かをした、という形ではない」

「脅した?」

「脅しは、言葉にした時点で弱くなる。北条は、源蔵さんの息子――お前の父親が、工場の帳簿を扱う仕事をしていたことを知っていた。もし騒ぎを起こせば、横領の疑いをかけられる。証拠は作れる、と言った」

「父に罪を着せると」

「そういう意味だ」

「それだけで、祖父は黙った?」

「お前は、家族の一人が明日から犯罪者として扱われるかもしれないと言われたら、黙らないのか」

「黙りません」

「今のお前なら、そう言うだろう」

佐伯は私を見た。

「だが、当時の源蔵さんには、ほかにも守るものがあった。ミツエの家族だ。町を出れば追われる。残れば仕事を失う。騒げば、誰かの罪が別の誰かへ移される。北条は、そういう移し替えを人の良心にやらせるのがうまかった」

「だから祖父は、手紙を投函しなかった」

「手紙を書いたのか」

「見つけました」

「そうか」

佐伯は目を伏せた。

「書いたなら、投函すべきだった」

その言葉に、私は初めて佐伯の怒りを聞いた。祖父への怒りなのか、自分自身への怒りなのか分からない。

「あなたは、投函しろと言わなかったんですか」

「言えなかった」

「刑事だったのに」

「刑事だったからだ。警察の中で、北条と正面からぶつかる覚悟がなかった。そんな人間が、他人にだけ覚悟を求められるか」

部屋の中で、雨の音が急に大きくなった。屋根を叩く水が、薄い壁を通して入り込んでくる。私は目の前の資料を見た。紙は静かだった。静かなまま、誰かが言わなかった言葉を保存している。

佐伯は引き出しを開けた。

中には古い万年筆、薬の包み紙、折れた鉛筆、それから小さな布袋が入っていた。彼は布袋を取り出し、紐をほどいた。

掌の上に、くすんだボタンが落ちた。

白に近い灰色の、四つ穴のボタンだった。表面には細かな傷があり、糸の一部がまだ穴に絡んでいる。雨に濡れて乾いた布のような匂いがした。

「現場で拾った」

「ミツエさんの服についていたものですか」

「分からない。上着のものかもしれないし、誰か別の人間のものかもしれない」

「なぜ保管していたんです」

「記録から落ちたものだったからだ」

佐伯はボタンを机の上へ置いた。私の並べた資料の端に、ぴたりと寄せる。

「現場写真には写っていない。拾得物の一覧にも入っていない。私が手帳へ書き忘れた。だから、せめて捨てなかった」

「それは証拠隠滅ではなく、証拠の保管ですか」

「きれいに言うな。私は、記録に載せるべきものを載せなかった。載せなかったまま、個人的に持ち続けた。警察官としても、遺族としても、どちらにもなれない中途半端なやり方だ」

私はボタンへ顔を近づけた。表面に、細い赤い繊維が付着している。赤い糸ではない。布のほつれのような繊維だった。

「この赤いものは?」

「最初からあった」

「ミツエさんの服に、赤い布の部分は?」

「覚えていない」

佐伯はそこで、目を細めた。

「いや。覚えている。袖口の内側に、赤い糸で補修した跡があった」

私は青柳写真店のフィルムを思い出した。画面の中の女が押さえていた濡れた袖口。赤いものは写っていなかったが、彼女の手元には何かを隠すような動きがあった。

「それなら、このボタンはミツエさんのものかもしれない」

「かもしれない。だが、そう書くな」

「なぜです」

「分からないものを分かったことにすると、また記録を曲げるからだ」

佐伯の声が震えた。

「私は五十年前、それをした。自分が見たものを、見たまま残さなかった。北条に言われたからでも、署の命令だからでもない。最後は、自分の手で書き換えた。だから今、お前に同じことをさせたくない」

私はボタンを見つめた。小さな円形の物体の中に、雨の夜と、濡れた服と、誰かが踏み出せなかった道が押し込められている。

「ミツエさんは、何を見たんですか」

佐伯の指が止まった。

「そこまでは、まだ……」

「あなたは知っている」

「知っているのではない。気づいていた」

「何に」

「ミツエが、工場の帳簿だけを見ていたわけではないことに」

佐伯は窓の外へ顔を向けた。雨脚が弱まり、屋根から落ちる水滴の間隔が広がっている。

「彼女は、帳簿の数字が合わない理由を追っていた。原料の横流しだけなら、工場の中の話で済む。だが、帳簿の端に、別の名前があった」

「北条?」

「名前ではない」

「では?」

佐伯は答えようとした。喉が動き、息を吸い、言葉の最初の音が口元まで上がった。

だが、出てこなかった。

代わりに咳が一度、二度と続いた。佐伯は顔を伏せ、掌で口を覆った。私は背中へ手を伸ばしかけ、やめた。触れることが、かえって相手の逃げ場を奪う気がした。

咳が収まると、佐伯は目を閉じたまま言った。

「源蔵さんに聞け」

「もう亡くなっています」

「だからだ。生きている人間より、死んだ人間のほうが正確に残すことがある」

「祖父は手紙を投函しなかった」

「投函しなかったが、捨てもしなかった」

「それが何だというんです」

「捨てなかった理由を探せ。あの人は、何もかも隠したわけじゃない。隠したもののそばに、必ず別の記録を置いた」

私は書斎の名簿を思い出した。喪中葉書、電報の控え、名前を消された下書き。整いすぎた資料の束。その中に、まだ読んでいない順番がある。

「佐伯さんは、祖父が何を残したか知っているんですか」

「一つだけ」

「何ですか」

「雨の火曜日の夜、源蔵さんは北条の屋敷から帰ってきた。靴は濡れていたが、傘は持っていなかった。手には封筒があった。帰る途中で、誰かに追われたように何度も後ろを見ていた」

「そのあと、祖父はあなたのところへ?」

「いや。家へ戻った」

「なぜそれを知っているんです」

佐伯は答えなかった。

私は、部屋の空気が一段重くなったことを感じた。彼は見ていたのだ。祖父の帰宅を。あるいは、祖父の家までついて行った誰かから聞いたのだ。

「佐伯さんは、その夜、祖父を見張っていたんですか」

「見張ったわけじゃない」

「では、なぜ」

「北条に頼まれた」

短い言葉だった。

そこだけは、咳も間もなく出た。

「源蔵さんが何か持ち出していないか、確かめろと言われた。私は、確かめた」

佐伯は机の上のボタンを見た。

「だから、私も沈黙の側にいた」

私は胸の奥に湧いた怒りを、すぐに言葉へしなかった。自分の中で、紙の束を仕分けるように並べた。祖父への敬意。佐伯への苛立ち。ミツエへの遅すぎる痛み。どれも角を揃えられず、机の上で重なった。

「追いかけたんですか」

「家まで行った。だが、声はかけなかった」

「何を見た?」

「書斎の灯りが一つだけ点いていた。源蔵さんは机に向かい、手紙を書いていた。書いて、封をして、また開けようとしていた」

「中身を見たんですか」

「見ていない」

「なのに、どうして手紙だと?」

「便箋を折る音がした」

佐伯は、濡れた靴先を見下ろした。

「紙を折る音は、雨の中でも分かる。刑事を長くやっていると、そういう余計なことだけ覚えている」

私は目を閉じた。

祖父はその夜、手紙を書いた。封をした。開けようとした。佐伯は外でそれを見ていた。北条は、誰かを見張らせていた。

けれど、核心はまだ封の内側にある。

佐伯はボタンを布袋へ戻した。紐を結ぶ指は震えていたが、結び目はきっちり揃っていた。

「持っていけ」

「これを?」

「お前が必要だと思うなら」

「証拠ではないと言いましたね」

「そうだ。だから、証拠としてではなく、記録から落ちたものとして持っていけ」

私はボタンを受け取らなかった。

「佐伯さんが持っていてください」

「なぜだ」

「あなたが捨てなかったものなら、あなたの記憶と一緒に置かれているほうが正確です。私が持ち帰れば、私の推測のそばに置くことになる」

佐伯は初めて、まっすぐ私を見た。

その目に、わずかな驚きが浮かんだ。やがて、疲れたように笑った。

「源蔵さんに似ているな」

「それは、褒め言葉ですか」

「分からん。あの人に似ると、ものを抱え込みすぎる」

「祖父の沈黙を、同じ形では受け継ぎません」

「そう言えるうちは、まだ間に合う」

私は資料を鞄へ戻した。写真、名簿、電報の控え。最後に、ボタンの位置を手帳へ記した。

――佐伯義人所蔵。現場拾得。由来未確認。赤色繊維付着。

書き終えて立ち上がると、佐伯が背後から言った。

「篠崎君」

私は振り返らなかった。

「何でしょう」

「ミツエは、失踪したんじゃない」

声は小さかった。雨の音に紛れそうだった。

続きが来るのを待った。

佐伯は長く黙った。私はその沈黙を、急かさずに聞いた。だが、やがて咳が出た。言葉はそこで途切れた。

振り返れば、佐伯は何かを言わなければならなくなる。言えないものを、もう一度喉の奥へ戻すことになる。

私は玄関へ向かった。

外へ出ると、雨は細くなっていた。雲の切れ目から夕方の白い光が落ち、濡れた石畳が鈍く光っている。医院の屋根から雫が一滴ずつ落ち、私の足元で小さな音を立てた。

傘を開く前に、私は一度だけ振り返りかけた。

やめた。

振り返らないことで、佐伯が言えなかったものを、ほんの少しだけ守れる気がした。けれど同時に、その守りがまた別の沈黙を生むことも分かっていた。

坂を上り始める。

鞄の中で、資料の角が触れ合った。写真の切断面、名簿の空白、電報の訂正。どれもまだ一つの答えにはならない。ただ、佐伯の「失踪したんじゃない」という声だけが、紙よりも重く残っていた。

祖父は、何を見ていたのか。

ミツエは、何を見たのか。

そして佐伯は、何を見ながら、見なかったことにしたのか。

濡れた石畳を踏むたび、足元から古い水が押し返してくるようだった。私は手帳を取り出し、歩きながら一行だけ書いた。

――佐伯は、最後の言葉の手前で咳をした。

その下に、もう一行を加えた。

――手前に立ち続けることも、沈黙の一部である。

← 横にスクロールして読み進められます

佐伯の茶と、言いかけたこと - 雨の封印 - 誰でも作家life