第4話 青柳写真店の暗室

青柳写真店へ向かったのは、午後から雨が強くなるという予報が出ていたからだった。
瀬見坂の空は朝から低く、川沿いの家々は薄い灰色の膜をかぶっていた。軒先の鉢植えには昨夜の水が残り、葉の先から雫が落ちている。石畳の坂を下りるたび、靴底が濡れた石の上でわずかに滑った。
隣を歩く宮田理香は、革の鞄を胸元へ抱えていた。中には資料室から持ち出した台紙と手袋、それに祖父の書斎から見つかった町内会名簿の複写が入っている。理香は雨の日でも歩幅を変えない。滑りやすい場所へ来ると、足元を見ずに、石と石の境目を避けて進む。
「写真店の主人は、どんな人ですか」
私が訊くと、理香は前を向いたまま答えた。
「青柳重吉さん。八十を越えています。写真を撮るより、撮ったものを捨てないことに熱心な人です」
「それは、写真館の主人としては珍しいですね」
「珍しくありません。写真は撮った瞬間より、捨てると決めた瞬間にその人の考えが出ます」
「人の考えまで残るんですか」
「残そうとした考えは残ります。残すつもりのなかったものも、写ってしまえば残る。資料は、持ち主より正直なことがあります」
理香はそこで言葉を切った。
「ただし、正直だからといって、意味まで自動的に分かるわけではありません」
青柳写真店は、川沿いの古い商家の並びにあった。看板の青い文字は雨に削られ、ガラス戸の内側には色褪せた証明写真の見本が並んでいる。店先に立つと、硝子越しに、写真の中の若い顔が何十年も同じ表情でこちらを見返してきた。
理香が戸を開けた。
「ごめんください」
店の奥から、咳払いのような声が返ってきた。
「宮田さんか。今日は何を探しに来たね」
「先日お話しした、昭和の現像フィルムを見せていただけますか」
「見せるだけなら、誰にでも見せる。持ち出すのは駄目だ」
「預かる必要があります。状態を確認して、資料室で複製したいので」
「写真を複製して、またしまう。そうしているうちに、元の写真だけが古くなる」
奥から現れた青柳重吉は、細身の老人だった。白髪をきっちり撫でつけ、紺色の作業着を着ている。片方の手に古い鍵束を持ち、もう片方には乾いた布が握られていた。彼は私を一度見てから、理香へ目を戻した。
「この人が篠崎さんのところの孫か」
「蓮さんです」
「源蔵さんに似ている」
その言葉に、私は返事をしなかった。
青柳さんは気にした様子もなく、店の奥へ歩いていった。私と理香はそのあとを追った。写真店の裏側には、現像に使われていた小さな暗室が残っていた。扉を開けると、湿った壁の匂いに、酢酸の鋭い臭気が重なって鼻へ入ってくる。
赤い安全灯だけが点いていた。
壁には、使われなくなった現像皿や、黒い布で覆われた引き伸ばし機が置かれている。床板は水分を含んで暗くなり、歩くたびに小さく軋んだ。
「この中で見るのかい」
私が訊くと、青柳さんは棚から細長い箱を取り出した。
「外へ持っていくと、光が強すぎる。古いフィルムは、急に見られるのを嫌がる」
「フィルムに気持ちはありません」
理香が言った。
「気持ちがないものほど、扱いを間違えると壊れる。人間と同じだ」
青柳さんはそう言って、箱を作業台へ置いた。
理香は手袋をはめ、箱の蓋を開けた。中には黒い紙に包まれたフィルムが三本入っている。紙の表面には、白い鉛筆で日付が書かれていた。
五十年前の六月。 雨。 旧家町坂道。
「この日付は、誰が書いたんですか」
「私だよ。撮影した日ではない。現像した日だ」
「撮影日は分からない?」
「雨の日だったことは覚えている。だが、写真屋にとって雨は珍しくない。雨の写真を撮りたい客が来れば撮るし、来なければ撮らない。それだけだ」
理香が紙包みを開いた。
フィルムは薄い茶色に変色していた。端には指でつまんだ跡があり、ところどころに細かな傷が走っている。彼女はフィルムの両端だけを持ち、赤い灯りの下へ吊るした。
濡れた坂道が、逆さまの白黒の世界として浮かび上がった。
まず見えたのは、石畳だった。雨水が坂の中央を流れ、町家の庇から落ちた雫が、路面に小さな輪を作っている。画面の奥には工場の塀、その手前には川へ下りる道がある。
私はルーペを受け取り、フィルムへ近づいた。
人影が二つ、坂の途中にあった。
一人は若い女だった。髪をきつくまとめ、濡れた袖口を片手で押さえている。顔は横向きで、表情までは分からない。それでも、立ち方に見覚えのない強さがあった。足元を確かめるようにではなく、誰かの持ち物を見ているような姿勢だった。
もう一人は、少し離れた場所に立つ男だった。帽子のつばが顔を隠している。工場帰りに見える作業着の肩が雨を吸い、片手には布のようなものを持っていた。
そして、画面の右端にもう一つの影があった。
人の肩と、半分だけの横顔。身体の大部分はフレームの外へ切れている。だが、その人物が女と男の二人を見ていることだけは分かった。
私はルーペを外した。
「三人います」
理香は返事をしなかった。フィルムの端を見ていた。
「ここを見てください」
彼女の指が、画面の右端を示す。影のさらに外側に、細い白い線が走っている。フィルムを切断した跡だった。
「端が切られています」
「撮影のときに、画面へ入らなかっただけでは?」
「切断面が新しすぎます。撮影時にフレームへ収まらなかったなら、こういう切れ方にはなりません」
「誰かが切った」
「そう考える材料はあります。ただ、誰が、何を切ったのかはまだ分かりません」
理香はフィルムを裏返し、傷の位置を確認した。
「こちらの摩耗も不自然です。現像時の傷ではない。何度も巻き戻して、途中で止めた跡があります。保管庫で眠っていたフィルムではなく、長いあいだ誰かの手元にあった」
「誰かが見返していた?」
「見返すだけなら、ここまで端が擦れません。必要な場面を探して、何度も送り直したのでしょう」
私はもう一度、右端の影を見た。
切られた画面の向こうに、何があったのか。そこに立っていた人物の顔が見えれば、写真は別の意味を持つかもしれない。だが、見えないものを勝手に補うことはできなかった。
それでも、画面の構図が、祖父の書斎で見つけた名簿の空白と重なった。
名簿では、朝倉ミツエの名前が消されていた。その前後の行だけが残り、空いた一人分を埋めるように住所が書き替えられている。ここでも、何かが切り取られていた。違う紙の上で、同じ手つきが繰り返されている。
私は理香に複写を頼み、鞄から町内会名簿の写真を出した。
赤い灯りの下で、名簿のページをフィルムの横へ置く。削除された行の位置と、切断された影の高さが、妙に近かった。
「似ています」
理香が言った。
「何がですか」
「空白の置かれ方です。消したものを見えなくするのではなく、残ったものの並びを整えて、最初からなかったようにする。名簿も、フィルムも」
「同じ人間がやったと?」
「そこまでは言えません。ただ、隠す人間は、隠し方に癖が出ます」
その言葉を聞いたとき、祖父の机にあった喪中葉書の束が思い出された。紙の端は、どれも不自然なほど揃っていた。宛名の消し方も、差出人の印の残し方も、ばらばらではなかった。
私はずっと、祖父が几帳面だからだと思っていた。
だが、几帳面さは、ときに痕跡を消すための手つきにもなる。
「篠崎さん」
理香が言った。
「今、祖父のことを疑いましたね」
「疑うというより、同じ場所に置いてみたんです」
「同じ場所?」
「名簿の空白と、写真の切断面を。祖父が関わっていたかどうかを決める前に、同じ種類の操作として並べてみた」
「それは疑いと呼ぶこともできます」
「そうかもしれません」
私はフィルムから目を離さなかった。
「でも、祖父を無罪にするために資料を読むつもりはありません。祖父が何をしたかを、祖父に似た手つきのまま見つけたい」
理香はしばらく黙っていた。赤い灯りが彼女の横顔を薄く染め、眼鏡の縁だけが暗く光っている。
「その言い方は、少し危ういです」
「どこが」
「家族の資料を読む人は、いつも自分が公平だと思っています。でも、敬意も疑念も、資料を見る目を歪める。だから、私は断定しません。あなたにも断定させない」
「それでは、何も進まないのでは?」
「進みます。断定しないまま、照合する。写真の影と名簿の空白と電報の時刻を重ねて、同じ時間に成立するかを見る。人間の記憶は変わりますが、紙の傷は少なくとも傷の位置を変えない」
「傷の位置だけでは、誰が傷つけたか分からない」
「ええ。だから、人の証言が必要になります。けれど証言だけでも足りない。記憶は、罪悪感の形に変わることがある」
理香の声は低かった。暗室の湿気に吸われ、近くにいる私にだけ届く。
「私は、資料を信じているわけではありません。資料しか、信じるための手続きを持っていないんです」
青柳さんが、背後で小さく息を吐いた。
「若い人は難しいことを言うねえ」
「青柳さんは、この写真をいつまで持っていたんですか」
私が訊くと、老人は作業台の端へ腰を下ろした。
「店の棚だよ。売る客がいなかったから、捨てずに置いていた」
「現像したあと、誰かが受け取りに来ませんでしたか」
「写真を焼いた記憶はない」
「フィルムだけが残った?」
「そうだ。注文品なら、焼き増しの記録がある。これは記録がない」
「撮影者は?」
「それも分からない。雨の夜に、若い男が持ってきた。顔は覚えていない。フィルムを渡して、現像が済んだら連絡しろと言った。だが、連絡先の紙をなくしたのか、最初から書かれていなかったのか……」
青柳さんはそこで言葉を止めた。
「源蔵さんが来たことは?」
理香が訊いた。
老人はすぐには答えなかった。暗室の奥で、どこかから水滴が落ちる音がした。
「来たよ」
「いつですか」
「現像した翌日か、その次の日だ。源蔵さんは写真を見た。何も言わずに、フィルムを一度だけ持ち上げた」
「持って帰ったんですか」
「いや。置いていった」
「なぜですか」
「知らん。あの人は、預かると言ったものを、たまに預けたままにした」
私は祖父の下書きを思い出した。
――先にお詫びを申し上げるべきでした。
誰かの帳面を預かり、手紙を預かり、写真を預かる。祖父は物を引き受けることで、人の言葉まで自分の内側へしまい込んでいたのかもしれない。
「源蔵さんは、写真を見て何か言いましたか」
「言わない。だが、帰る前に、フィルムの端を切った」
赤い灯りの下で、私は右端の切断面を見た。
「祖父が?」
「たぶんね。刃物を使う手つきが、あの人は妙に丁寧だった。切るときでさえ、まっすぐだったよ」
理香の視線が私へ移った。
「確かな記憶ですか」
「確かだと思う。だが、五十年前のことだ。人間は、覚えていることほど間違える」
「それでも、今話してくださった理由は?」
青柳さんは乾いた布を膝の上で畳み直した。
「源蔵さんが死んだと聞いたとき、もう話してもいいと思ったからだ。あの人が生きているうちは、写真を渡した相手に義理があった。死んだあとまで黙るのは、義理じゃなくて怠慢だろう」
私は何も言えなかった。
青柳さんは棚の下から、焼け焦げた段ボール箱を引き出した。角が黒く変色し、蓋の一部が崩れている。
「もう一つ、似たような写真がある。これは町内行事の記録だ。祭り、消防訓練、工場の慰労会。どうでもいい風景ばかりだが、雨の日の写真も混じっている」
「どうでもいい風景が、あとから必要になることがあります」
私が言うと、青柳さんは笑った。
「源蔵さんも、同じことを言っていたよ。『どうでもいい紙ほど、あとで捨てにくい』とな」
箱の中には、茶色く焼けた写真が束になっていた。表面に薄い煤が付着し、何枚かは互いに貼りついている。理香は手袋を替え、写真の角へ薄いヘラを差し入れた。
剥がれた一枚には、雨上がりの坂道が写っていた。
撮影日は、失踪当夜と同じ日付だった。
画面の奥には、高台の旧家町へ続く石段がある。雨水が段の中央を流れ、石段の下に、傘を持たない男が立っていた。顔は横向きで、輪郭の半分が暗がりに沈んでいる。
私はその顔を見た瞬間、息を止めた。
北条泰三に似ていた。
似ている、というだけだった。年齢も、当時の顔も知らない。頬の線、耳の形、立ち方。そのどれもが決定的ではない。だが、知らない男として片づけるには、胸の内側に引っかかるものがあった。
「北条ですか」
私が言う前に、理香が訊いた。
「断定できません」
私は答えた。
「顔が半分しか写っていない」
「それでも、似ていると思った」
「思ったことは、記録とは別に書いてください」
理香は写真の余白を指した。そこには、坂道を横切る自転車が写っている。荷台に布が括りつけられ、結び目が雨に濡れて黒くなっていた。
「こちらを見てください」
布の結び方は、写真の中の工場帰りの男が持っていたものとよく似ていた。荷台の布と男の手元。二つの画面は別の写真なのに、結び目の端が同じ方向へ折れている。
「工場の人間が、荷台に布を括るときの結び方です」
理香が言った。
「どうして分かるんですか」
「工場の記録写真を何度も見ました。作業道具を運ぶ荷車も、従業員の自転車も。結び目は人によって癖が出る」
「では、写真の男は工場の人間で、石段の下の男は北条かもしれない」
「可能性はあります。でも、写真の撮影時刻が分かりません。二枚が同じ時間の出来事だとも限らない」
私は写真を台紙の上へ戻した。
そのとき、写真の端に、黒い点があることに気づいた。画面の外へ切り取られたフィルムの傷と同じ位置だった。祖父が切ったという端の影が、別の写真にも残っている。
「理香さん」
「はい」
「この写真の余白は、あとから切られています」
理香は写真を取り上げ、裏側を見た。台紙の角に、古い糊の跡が残っている。写真を一度別の台紙へ貼り直したあと、余白だけを切り落としたようだった。
「誰かが写真の周囲を整理した」
「整理という言い方でいいんですか」
「切り取ったことに変わりはありません。ただ、目的はまだ分かりません」
私は赤い灯りの下で、切り取られた坂道を見つめた。
写っていない部分に、何かがある。だが、その何かを想像だけで呼び戻すことはできない。祖父は写真の端を切り、名簿の行を消し、喪中葉書の宛名を削った。残されたものはどれも整っている。整っているからこそ、失われた部分の輪郭だけが濃くなる。
青柳さんは、箱の中の写真を一枚ずつ重ね直していた。
「持っていくなら、全部持っていきなさい」
「すべてを?」
「一枚だけ抜くと、残りの順番が分からなくなる。写真は並び方で嘘をつくからね」
「写真が嘘をつくんですか」
「写真は何も言わない。だから、人間が勝手にしゃべらせる。これが誰だ、あれは何時だ、これは事件に関係がある。そうやって、写っていないものまで説明しようとする。だが、何も言わないものを何も言わないまま残すのも、写真屋の仕事だ」
理香が写真の束を薄紙で包んだ。
「預かります。撮影順と保管状態を記録して、複製を作ります」
「戻してくれるかね」
「必ず」
「源蔵さんは、戻らなかった」
青柳さんの指が止まった。
「写真ではなく、あの人自身がね。あの人も、戻すつもりで預かったものがあったのかもしれない。けれど、返す時期を逃すと、預かったものは自分の罪になる」
その言葉は、暗室の湿った壁に吸われず、私の中に残った。
店を出るころには、雨が本降りになっていた。
理香は預かった箱を布で包み、濡れないように抱えている。私はフィルムの入った台紙を鞄の内側へしまった。歩き始めると、指先にまだフィルムの冷たさが残っているようだった。
坂を上る途中、私は何度も振り返った。
青柳写真店の看板は雨の向こうで滲み、青い文字が水面に沈んだように揺れている。川から吹き上げる風が濡れた木材の匂いを運び、暗室の酢酸の刺激と混ざった。古いインクの甘さまで、鼻の奥に戻ってくる。
写真は、誰かの善意で残ったのではない。
残すべきだったからではなく、捨てる理由を決められなかったから残ったものもある。あるいは、誰かが残ることを恐れ、別の誰かがそれを隠し、さらに別の誰かが隠されたものを捨てずに抱えた。
記録は、善意だけで続かない。
罪悪感や恐怖や、返せなかった恩のようなものが、紙やフィルムを次の手へ渡していく。
旧宅へ着くころには、靴の中まで雨が染みていた。私は玄関先で水を払い、二階の書斎へ上がった。机の上には、灰色の封筒が置かれている。宛名は伏せていない。
朝倉ミツエ様。
その横へ、私は写真の複写を置いた。
切り取られた画面の端と、名簿から消された行。二つを並べても、まだ何も証明できない。だが、同じ形の空白が、別々の紙の上でこちらを向いていた。
私は写真の余白に写った自転車の荷台を、もう一度拡大鏡で見た。布の結び目は、右側へ一度折れ、端が下へ垂れている。工場帰りの男が持つ布にも、同じ折れ方があった。
その一致を手帳へ書き留めようとして、私は手を止めた。
書く前に、写真の端を揃えた。
祖父と同じ手つきだった。
けれど今度は、揃えたあとに写真を伏せなかった。見えるものを見える向きに置き、切り取られた部分を切り取られたまま残した。
雨が窓を叩いている。
私はまだ、北条泰三の名を写真の横へ書かなかった。書いてしまえば、似ているだけの影が、私の中で一人の人間に変わってしまう。そうなれば、写真は証拠ではなく、私の怒りを支える道具になる。
そのことだけは避けたかった。
机の上で、灰色の封筒と古い写真が向かい合っている。どちらも、言葉を持たない。だが、言葉を持たないものの周囲には、言わなかった人間の指跡が残っている。
私は湿った指先を布で拭い、手帳を開いた。
記録する。
雨の火曜日。 坂道。 三人の影。 切断されたフィルム。 名簿の空白。 自転車の荷台。 顔の半分しか見えない男。
そこまで書いてから、最後に一行を加えた。
――整いすぎたものほど、何かを隠している。
書き終えると、雨音が少し遠のいた。
だが、暗室の赤い灯りは、目を閉じても消えなかった。
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