3話 封の甘さ

その夜、私は書斎の机に資料を並べ直した。

封筒、日付メモ、改訂版の町内会名簿、喪中葉書、名前を消された下書き。いったんすべてを畳の上へ移し、机の表面を乾いた布で拭いてから、左上を基準に一枚ずつ戻していく。

紙の角が揃っていないと、何かが見えなくなる気がした。

資料の並びには、読むための順番がある。仕事で原稿を扱うとき、私はいつもそう考えていた。冒頭に置かれた一行が、後ろの文章の意味を変えることがある。削られた一文が、残された文章より多くを語ることもある。だから、順番を飛ばしてはいけない。空白を、都合のいい言葉で埋めてはいけない。

けれど、目の前にある紙は原稿ではなかった。

書いた本人はもういない。反論も訂正もできない。残された文字だけが、死んだ人間の代わりにそこにいる。

私は灰色の封筒を、日付メモの右側へ置いた。封筒の表面には、昼間に資料室で付けた薄い白い紙の帯が巻かれている。理香が保護用に渡してくれたものだった。

「封を切るなら、先に状態を記録してください」

資料室を出る前、理香はそう言った。

「開封するつもりだとは言っていません」

「つもりがなくても、開ける人はいます。手が震えたり、糊の状態を確かめようとして端を押したりする。開けるなら、開ける前の状態を残してください」

「記録しておけば、何をしてもいいということですか」

「逆です。記録が残ると、自分の手がしたことを自分で見なければならなくなる」

理香はそう言って、台紙の上の封筒を私のほうへ戻した。

「資料は、触れた人間の言い訳まで保存します」

その言葉を思い出しながら、私は封筒の封緘部分を見つめた。

祖父の文字は、いつものように端正だった。朝倉ミツエ様。文字の大きさも間隔も乱れていない。ただ、「朝」の一画だけがわずかに深く沈んでいる。筆圧が強かったのではない。書き始めたあと、一度ためらって筆を戻したために、紙の繊維がそこだけ潰れている。

私は細い鉛筆で、封筒の脇に小さく記した。

宛名筆圧――「朝」の一画に戻り。

書き終えてから、馬鹿げたことをしている気がした。祖父の手紙を、校正記号のように扱っている。感情を紙の状態へ置き換えることで、私自身の動揺から逃げている。

だが、ほかに方法を知らなかった。

私は封筒を光にかざした。紙の内部に、便箋らしい影が一枚、わずかに透けている。折り方は二つ折りではない。三つ折りに近い。封筒の幅に対して、便箋は少し大きいらしく、中央に厚みの偏りがあった。

便箋は一枚ではないかもしれない。

私はペーパーナイフへ手を伸ばした。

祖父が使っていた細身の刃は、机の右端に置かれている。柄を握ると、黒い木の表面に残った脂が指へ移った。刃先を封の端へ当てる。紙は抵抗しなかった。

そのとき、封の甘い匂いがした。

甘いというのは、菓子のような匂いではない。古い糊が湿気を含み、わずかに発酵したような、鼻の奥へまとわりつく匂いだった。半世紀前のものなら、もっと乾いていてもおかしくない。だが封の中央だけは、今日閉じたばかりのように柔らかい。

指先でそっと撫でる。

紙の下に、別の硬さがあった。

封筒の口を閉じるための糊ではない。折り返しの内側に、薄い紙片が貼りついているようだった。

私は刃を抜き、封筒を裏返した。封の端を光にかざす。灰色の紙の中に、細長い影が見えた。便箋の影とは別に、上部へ横たわっている。

何かが貼られている。

祖父が意図して貼ったのか。誰かがあとから差し入れたのか。封を開けずに確かめる方法はなかった。

私は机の引き出しから拡大鏡を出した。レンズ越しに見ると、封の合わせ目にごく細い裂け目があった。切った跡ではない。糊が一度浮き、また押し戻された痕だった。

誰かが開けようとした。

私はそう考えた。

だが、すぐに考え直した。開けようとしたのではなく、封をしたあと、もう一度中を確かめた可能性もある。便箋を入れ忘れていないか、宛名を書き間違えていないか、何度も指で押さえた。その結果、紙の繊維が寝たのかもしれない。

物証は、行為を一つに決めてはくれない。

人間だけが、そこへ意図を持ち込む。

私は拡大鏡を置いた。

机の端には、名前を消された下書きがある。祖父の字で、途中まで文章が書かれていた。

――先にお詫びを申し上げるべきでした。

そのあとに続くはずだった文は、何度も削られている。紙を傷めないよう薄く消したため、消し跡は白くならず、文字の周囲だけが毛羽立っていた。

私は下書きの裏側を見た。

消し跡は表面だけではなかった。紙を反対側から光にかざすと、鉛筆の圧でできた溝が残っている。最後の一文だけ、筆圧が弱い。途中で言葉に詰まったというより、相手の顔を思い浮かべたあと、書く手が止まったように見える。

告発の文章なら、ここまで弱くはならない。

祖父は誰かを責めようとしていたのではない。誰かに謝ろうとしていた。

そう思った瞬間、胸の奥で別の声がした。

謝るだけなら、なぜ投函しなかったのか。

私は椅子の背へ身を預けた。窓の外では、雨が細く降り始めている。屋根から落ちた雫が、軒下の金属板を叩き、一定の間隔で乾いた音を返していた。

祖父の姿が記憶の中に浮かんだ。

雨の日の書斎。灯りは一つだけ。祖父は机に向かい、古い便箋へ何かを書いていた。私は階段の途中から、その背中を見ていた。声をかけると、祖父はすぐに紙を伏せた。

「何を書いているの」

「帳面だ」

「帳面って、横に長い紙じゃないの?」

「何でも帳面になる」

そう言って、祖父は笑おうとした。けれど、口元だけが少し動いて、目は動かなかった。

あのとき祖父が伏せたのは、帳面ではなかった。

私は封筒へ視線を戻した。

家族を守るために書かなかったのか。ミツエを守るために書けなかったのか。それとも、自分が何かに加担したことを認めるのが怖くて、宛名の前で手を止めたのか。

どの可能性にも、祖父の顔が当てはまった。

私は立ち上がり、書棚の前へ歩いた。棚には町内資料が年代順に並んでいる。祖父の几帳面さは、死んだあとも崩れていなかった。背表紙の高さが揃い、厚い帳面の間には薄い資料が挟まれている。けれど、その整い方の中に、ひとつだけ不自然な場所がある。

五十年前の町内会名簿と、その翌年の名簿の間に、空白があった。

私は二冊を抜き出し、机へ戻った。改訂版のほうには、朝倉ミツエの名がない。失踪したから削除されたのだろうか。だが、削除理由は記されていない。住所の欄には別人の名が入り、行番号だけが連続している。

人間が消えるとき、記録はその人のいた場所まで消す。

私は名簿の余白に、薄く残る筆跡を見つけた。消しゴムで何度も擦られたらしく、紙が柔らかく毛羽立っている。鉛筆を寝かせ、横から光を当てると、文字の溝が浮かんだ。

朝倉。

その下に、別の名前が続いていた。判読できない。けれど、最初の一字だけは分かる。ミツエの「ミ」ではない。

私は手帳を開き、見えた文字をそのまま書き留めた。読めない部分は、読めないまま線を引いた。祖父なら、ここで勝手に推測しただろうか。いや、祖父は推測を記録へ混ぜることを嫌った。だからこそ、推測できないものまで抱え込んでしまった。

その几帳面さが、今は罪の形に見えた。

階下で、電話が鳴った。

誰からかは分かっていた。親族の誰かだろう。私はすぐには降りなかった。二度、三度と呼び出し音が続き、やがて切れた。しばらくして、留守番電話のランプが点いた。

再生すると、母の声が流れた。

「蓮、まだそっちにいるの。雨も続いているし、片づけは急がなくていいから。書斎のものは……その、必要なものだけ残して、あとは資料室へ渡せばいいでしょう。お祖父さんも、それを望んでいたと思うから」

声が途切れた。

母は何かを言いかけたのだろう。だが、続きはなかった。

必要なものだけ残す。

その言い方が、名簿から名前を削る手つきと重なった。

私は受話器を取り、母へかけ直した。呼び出し音が二度鳴ったところで、相手が出た。

「もしもし」

「書斎のこと、知っていたの?」

返事はすぐにはなかった。電話の向こうで、食器を置く音がした。

「何のこと?」

「朝倉ミツエという名前を知っているでしょう」

「蓮、その話は――」

「どうして知っているのかを聞いている」

「昔の話よ。あなたが気にするようなことではないの」

「気にするようなことかどうかを決めるために、聞いている」

声を荒げたつもりはなかった。けれど、自分の声が祖父に似ていることに気づいた。低く、短く、相手へ逃げ道を渡さない声だった。

電話の向こうで、母が息を吸った。

「お祖父さんは、あの人を助けようとしたの」

初めて、母の口から「ミツエ」という人物についての言葉が出た。

「助けようとした?」

「そう聞いているだけ。私は何も知らない」

「知らない人のことを、どうして助けようとしたと言えるの」

「蓮、あなたは何も知らないから、そうやって簡単に聞けるのよ。あの町で誰かに関わるというのは、その人だけの問題ではなかった。家族も、仕事も、住む場所も、全部一緒に揺れるの。お祖父さんは、それを分かっていた」

「分かっていたから黙った?」

「黙ったから、家族が残ったの」

「残っただけだろ」

言葉が、思ったより早く出た。

「家族は残った。でも、何も知らされないまま残された。食卓で誰も名前を言わない。何かを聞けば、昔のことだと返される。そういう残り方を、守ったと言うのか」

「お祖父さんを責めるの?」

「責めているんじゃない。知りたいんだ。守ったのか、守れなかったのか、それを曖昧にしたまま、また同じ沈黙を私に渡すな」

電話の向こうで、母の呼吸が乱れた。

「あなたは、あの人に似てきたわね」

「誰に?」

母は答えなかった。

その沈黙だけで、私は十分だった。

「母さん。祖父は、ミツエさんが消えた夜に何をしていたの」

「知らない」

「本当に?」

「知らないの。聞かなかったから」

その言葉は、祖父の手紙のように途中で力を失った。

聞かなかった。

母もまた、聞かないことで何かを守ろうとしたのかもしれない。だが、守られた側にいるはずの私は、その守りの内側で、ずっと理由のない恐怖を覚えていた。

「封筒が見つかった」

私は言った。

電話の向こうで、息を呑む音がした。

「ミツエさん宛ての手紙。祖父が書いたものだ」

「蓮、それは開けないで」

「なぜ」

「開けても、あなたが楽になるとは限らないから」

「楽になりたいわけじゃない」

「だったら、なおさらよ。知ったことは、知らなかったことには戻せない。あなたは東京へ戻ればいい。仕事もあるでしょう。あの家は売ればいい。書斎のものは、資料室に任せれば――」

「母さん」

「何?」

「あなたは、祖父が投函しなかった理由を知っているの?」

長い沈黙があった。

「知っている人は、もう少ないわ」

母はそれだけ言った。

通話が切れたあとも、私はしばらく受話器を耳へ当てていた。切断音はとっくに消えている。代わりに、雨の音が電話線の奥から続いているように聞こえた。

机へ戻ると、灰色の封筒の封緘部分が、先ほどより濃く見えた。甘い糊の匂いが、まだ残っている。

私はペーパーナイフを手に取った。

刃先を封の端へ置く。

そのまま、力をかけずにしばらく待った。

開ければ、祖父が守ろうとしたものの一部が壊れる。開けなければ、私もまた、家族の沈黙を引き継ぐ。どちらを選んでも、誰かの言葉を傷つけることになる。

私は刃を抜いた。

封筒を開く代わりに、裏側をもう一度光へかざす。内側に貼りついた細長い紙片の影が、雨雲のように浮かんでいる。その端に、黒い点が一つあった。文字の一部か、印章の跡かは分からない。

分からないものを、分からないまま記録する。

それが今の私にできる、唯一の誠実さだった。

私は封筒を白い台紙へ戻し、机の中央へ置いた。名簿、喪中葉書、下書きも、その周囲へ並べ直す。祖父がしたように、角を揃える。

だが、最後に一枚だけ、置き方を変えた。

封筒を伏せず、宛名が見える向きにした。

朝倉ミツエ様。

名前を隠さないためだった。

深夜、川の水音が壁の向こうで大きくなった。雨水が坂道を下り、古い家の基礎を濡らしている。私は灯りを落とす前に、祖父の机を見た。

封の甘さは、時間の名残ではなかった。

誰かが最後まで、そこに触れていた痕跡だった。

祖父なのか。別の誰かなのか。まだ分からない。

ただ、手紙はもう、祖父ひとりの沈黙ではなかった。町の名前と、家族の息づかいと、言わなかった者たちの指先が、半世紀のあいだ封の内側に重なっている。

私は書斎を出る前に、封筒の宛名を声に出して読んだ。

「朝倉ミツエ」

雨が窓を叩いた。

その名前は、今度はどこにも消えなかった。

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