第2話 資料室の白い光

翌朝、雨は細くなっていた。
窓を打つ音は昨夜ほど強くない。それでも屋根のどこかに溜まった水が、一定の間隔で軒先から落ちていた。書斎を出る前に、私は机の上の封筒を見た。灰色の紙は、伏せたまま何も変わっていない。変わったのは、それを見つめる私のほうだった。
封筒を鞄へ入れるとき、私は薄い和紙を一枚挟んだ。直接ほかの資料と触れさせないためだった。祖父なら、そうしたはずだ。そう考えてから、また指が止まった。
祖父なら、ではなく、私はどうしたいのか。
答えは出なかった。
旧宅を出ると、坂道には雨水が細く流れていた。石畳の隙間から黒い苔がのぞき、靴底を置くたび、濡れた石がわずかに沈むような感触を返してくる。川沿いの商家では、店先の庇から雫が連なって落ちていた。閉じた雨戸の向こうに人の気配はあるのに、町全体が息を潜めている。
瀬見坂記念資料室は、旧い呉服商の土蔵を改修した建物だった。白い壁に細長い窓があり、入口には寄贈者の名を刻んだ小さな銘板が掛かっている。祖父の名も、その中にあった。
私は銘板を見ないようにして扉を開けた。
中は外より冷えていた。蛍光灯の白い光が、机と棚と床を均一に照らしている。明るいのに、温かさがない。紙の乾いた匂いと、古い木箱の底に残った埃の匂いが混ざっていた。
宮田理香は、奥の机で目録カードを整理していた。
濃い色の髪を後ろで束ね、薄い灰色のカーディガンを着ている。机の上には資料箱が二つ、鉛筆が三本、薄手の手袋が一組。物の数は少ないのに、置かれた位置には隙がなかった。私が近づくと、理香は顔を上げた。
「おはようございます。早いですね」
「雨が弱いうちに来たかったので」
「雨は弱くなっていません。音が変わっただけです」
彼女はそう言って、窓の外を見た。庇から落ちる水は細くなっていたが、石畳の流れは昨夜より深い。
「封筒を持ってきました」
私は鞄から和紙に包んだ灰色の封筒を出した。
理香はすぐに手を伸ばさなかった。机の上にあった目録カードを一枚ずつ揃え、角を合わせ、それから手袋を手に取った。
「まず、置いてください。こちらへ」
示された場所には、白い中性紙の台紙が敷かれていた。私は封筒をその上へ置いた。理香は手袋をはめ、封筒の表面を直接押さえず、両端をつまんで持ち上げた。
光の下で、紙が薄く透ける。
「触った感じはどうでしたか」
「ざらついていました。表面は埃を吸っていましたが、封の部分だけ滑らかです。糊は完全には死んでいない。内側に、一度剥がしかけたような筋がありました」
理香は封筒の口を見た。
「剥がしかけたというより、剥がれる寸前で止めた可能性があります。紙の繊維が浮いていない。刃物で開けた跡もない。指で何度も押さえたために、そこだけ繊維が寝ているんです」
「誰かが開けようとした?」
「そう考えるのが自然です。ただし、開けようとしてやめたのか、封をしたあと何度も確認したのかは、この状態だけでは決められません」
理香は封筒を裏返し、宛名の文字を確認した。薄い手袋の指先が、文字には触れない距離で止まる。
「朝倉ミツエ。宛名は篠崎源蔵さんの筆跡ですね」
「祖父の字です」
「いつ書かれたかは、紙だけでは断定できません。ただ、五十年前の日付メモと一緒に保管されていたなら、手紙と日付が関係している可能性は高いでしょう」
「ミツエの失踪の日付です」
理香は私を見た。
「ご存じだったんですか」
「名前だけは。家で、口にしてはいけない名前として」
理香は返事をしなかった。代わりに封筒を台紙へ戻し、机の端に置かれていた新聞の縮刷版をこちらへ引き寄せた。その動作があまりに迷いなく、私は自分の言葉がすでに資料の一部へ組み込まれたような気がした。
「五十年前の六月から、翌年の春までを見ます。失踪の記事だけでなく、訂正記事、地域欄、町内行事の記事も確認します」
「失踪の記事が載っていれば、それで十分では?」
「十分な記事なら、ここまで長く名前が残りません」
理香は縮刷版を開いた。紙面には、古い活字の黒が密集していた。雨で冷えた指先をこすりながら、私は彼女の隣に座った。
記事は地方版の端にあった。
朝倉ミツエさん、家出か。
見出しの下には、二十七歳の女性が勤務先の製糸工場を出たまま帰宅せず、家族が捜索願を出した、とある。所持品、服装、最後に目撃された場所。必要な情報は並んでいたが、どれも薄かった。誰が最後に見たのか、その人物が何を語ったのかは書かれていない。
「記事が短すぎます」
私が言うと、理香は紙面の余白を見た。
「短いこと自体は問題ではありません。地方欄なら、これくらいの分量はあります。ただ、ここを見てください」
彼女の指が、本文の下の空白を示した。
「行間と段組みが不自然です。この記事だけ、前後の広告との間に妙な余裕がある。いったん別の記事を外して、あとから組み直したように見えます」
「削られた記事があった?」
「可能性はあります。新聞社の原版が残っていれば確認できますが、ここにはありません。だから、紙面の痕跡だけで断定はできない」
理香はそこで言葉を止めた。断定しないことが、彼女の慎重さであり、同時に誠実さなのだと思った。
私は記事の活字を目で追った。「家出」という言葉の横に、小さな赤鉛筆の印があった。祖父の字ではない。誰かが後から記事を確認した印だろうか。
「この印は?」
「資料室に入った時点で付いていたものです。誰のものかは分かりません」
「祖父が見た可能性は」
「寄贈者が篠崎さんの家なら、あります。ただ、資料は持ち主の意図を証明しません。見たから印をつけたのか、見せるために印をつけたのか、その違いは大きいです」
私は返事をせず、印の周囲を見つめた。赤鉛筆の線は、文字を囲んでいない。「家出」の二文字の左脇に、短く引かれているだけだった。強調というより、ためらいの印に見えた。
理香は別の棚へ向かった。戻ってきたとき、手にしていたのは薄い茶封筒だった。
「これは電報の控えです。寄贈資料の中に混じっていました」
封筒から出てきた紙は、名刺ほどの大きさしかなかった。日付と送信先、短い文面が活字で印刷されている。
午後七時四十分。 朝倉家へ連絡。 本人帰宅せず。 北条方へ確認依頼。
その下に、手書きで訂正された時刻があった。七時四十分が、八時十分に直されている。訂正印はない。
「誰が直したのでしょう」
「分かりません。ただ、同じ筆跡の訂正が別の紙にもあれば意味が出ます」
「電報の控えに、北条の名前がある」
「正確には、北条方へ確認依頼、と書かれているだけです。北条泰三さん本人へ送ったとは限りません」
「でも、失踪した女性の家族より先に、北条家へ確認を取っている」
「そう読めます」
理香は淡々としていたが、その声の底にわずかな硬さがあった。
「記録は、人が考えた順番を残すことがあります。誰へ連絡したかだけでなく、誰へ先に連絡したか。そこを消すと、出来事の重心が変わる」
「重心?」
「事件の中心が、朝倉さんの不在ではなく、北条家の判断に移ってしまう。だから誰かは、その順番を直したかったのかもしれません」
白い蛍光灯の下で、電報の紙はひどく小さく見えた。短い文面の中に、町の人間が誰の顔色を先にうかがったのかが残っている。
私は紙の端に触れようとした。理香の手が、静かに私の指を止めた。
「素手では触らないでください」
「すみません」
「謝る必要はありません。まだ慣れていないだけです」
「祖父の書斎では、いつも素手で触っていました」
「だから、祖父の書斎ではなく、ここでは別の扱いをしてください」
言い方は厳しかったが、理香は怒っていなかった。私が紙を乱暴に扱えば、そこに残った過去まで傷つくと考えているのだろう。
「資料を守ることが、事実を守ることになるとは限りません」
私は言った。
「封筒をきれいに保存しても、書かれたことが正しいとは限らない。改竄された名簿を傷つけずに残しても、消された人が戻るわけではない」
「戻りません」
「それでも保存するんですか」
「します」
理香の返事は短かった。だが、そこで終わらなかった。
「戻らないからです。戻らないものを、戻らないまま残すために保存します。資料をきれいに整えて、過去を美しくするためではありません。破れたものは破れたまま、欠けたものは欠けたまま、どこが欠けているのか分かる形で残す。その欠落を、誰かの想像や善意で埋めないためです」
「欠落を埋めなければ、何も分からないままでは?」
「分からないことと、分からないようにされたことは違います。そこを一緒にしてはいけない」
彼女は電報の控えを台紙へ戻した。
「記録がないから分からない。そう言われることは多いです。でも実際には、記録がないのではなく、記録のない状態を作った人がいる。空白を自然現象のように扱えば、消した側の仕事を完成させることになります」
私は返す言葉を失った。
自分もまた、祖父の書斎にある紙をただ整理するだけで、祖父が残した空白をそのまま受け継ごうとしていたのかもしれない。
午後、私は資料室を出て、町の古書店へ向かった。理香から渡された失踪記事の複写を鞄に入れていた。尋ねる相手を決めていたわけではない。ただ、資料室の白い光の下に長くいると、紙の中だけで息をしているような感覚になった。町の人間が名前を聞いたとき、どんな顔をするのか見てみたかった。
古書店の店主は、私が朝倉ミツエの名を出すと、棚から本を抜く手を止めた。
「その人がどうかしたのかね」
「祖父の書斎から、宛名の書かれた手紙が出てきました」
「源蔵さんの?」
「はい。ミツエさん宛てです」
店主は本を閉じ、表紙の埃を指で払った。
「古い話だよ。もう、覚えている人も少ない」
「覚えている人が少ないことと、起きなかったことは別です」
「若い人は、そういう言い方をするね」
「編集の仕事をしています。書かれていない一行が、原稿全体の意味を変えることを知っています」
「だからといって、昔の人間を紙の上で裁くのかい」
「裁きたいわけではありません。誰が何を見て、何を見なかったのかを知りたいだけです」
店主はしばらく私を見た。やがて、低い声で言った。
「ミツエは、見なかったことにできない女だった。帳面の数字が合わないと、誰が相手でも聞いた。工場の親方にも、北条の使いにもね。そういう人間は、町では好かれない。でも、嫌われるのとは少し違う。みんな、あの人が正しいと分かっていたから、そばにいると自分のほうが恥ずかしくなった」
「失踪した夜のことを、ご存じですか」
「知らんよ」
答えは早かった。
だが、湯飲みを置く音がそのあとに続いた。店主の指が、縁を二度撫でた。
「知らん。ただ、翌朝にはもう、話し方が決まっていた。家出だ、男ができた、仕事が嫌になった。誰が言い出したのかは覚えていない。でも、みんな同じ言葉を使った」
「同じ言葉を使うように、誰かが頼んだ?」
「頼む必要なんてない。町では、言ってはいけないことが決まると、誰もが自分から言葉を選ぶ」
その言い方は、祖父の家の食卓を思い出させた。誰かに命令されたわけではない。けれど、誰もが醤油を取り、新聞を開き、箸の音を立てた。
店主は棚の奥から古い地図を取り出した。
「これを持っていきな」
「売り物ですか」
「いや。見せるだけだ」
地図には、工場から川沿いへ下りる道と、高台の旧家町へ続く坂が記されていた。失踪記事に書かれた「最後に目撃された場所」は、工場の裏手だった。だが、電報が送られた時刻には、ミツエがそこにいたとは限らない。
「この道は、昔は夜でも使われていた。工場の人間が川のほうへ抜けるときにね。雨の日は滑るから、女一人なら通らないと思うだろう。でもミツエは、雨を気にする人じゃなかった」
「高台へ来た可能性は?」
「あるだろうね。だが、誰に会うためかまでは知らん」
店主は地図を私から取り上げ、折り目を一つだけ直した。
「源蔵さんは、ミツエのことを何も言わなかった」
「祖父と面識があったんですか」
「面識というほどじゃない。あの人は、誰かの話を聞くとき、最後まで口を挟まない人だった。ミツエが帳面を持って来たときも、黙って読んで、返すときに『預かっておく』と言ったそうだ」
「何を預かったんですか」
「それを聞かなかったから、今も分からん」
店主は地図を畳み直した。
「聞かなかったことを、あとから悔やむ人は多い。だが、聞いたことで誰かが壊れることもある。町の年寄りは、その二つを混同したまま死んでいく」
帰り道、雨はまた少し強くなっていた。
私は地図を鞄の内側へしまい、資料室の複写を濡らさないように胸元へ抱えた。坂道を上ると、靴の中へ冷たい水が染みてきた。濡れた石畳は、下りるときより上るときのほうが滑る。足を取られるたび、体が後ろへ引かれ、私は手すりに指をかけた。
町を歩くことが、過去を遡ることに似ていると思った。前へ進んでいるのに、足元には古い水が流れ続けている。踏み外せば、今いる場所と五十年前の場所が簡単に重なってしまう。
旧宅へ戻ると、縁側の雨戸は閉じたままだった。私は濡れた上着を脱ぎ、書斎へ上がった。机の上には、朝出る前に伏せておいた灰色の封筒がある。
その脇に、喪中葉書の束を置いた。
朝、資料室へ向かう前には気づかなかったが、束の一枚だけ、ほかより紙が白い。宛名は削られ、差出人の印も薄れている。裏返すと、祖父の字があった。
――先にお詫びを申し上げるべきでした。
前日に見つけた下書きと同じ一行だった。ただし、こちらには続きがある。
――しかし、あなたを探せば、家族が。
そこで筆が止まり、下の余白には何も書かれていない。
私は立ったまま、紙を見つめた。
家族が、何をするのか。 家族が、何をされるのか。 祖父はどちらを書こうとしたのか。
雨音が屋根を細かく叩いていた。私は喪中葉書を封筒へ戻し、灰色の封筒の隣へ揃えて置いた。置き方を整えることでしか、今は考えを保てなかった。
守ったのではなく、守れなかった。
その言葉が、ようやく輪郭を持ちはじめていた。
← 横にスクロールして読み進められます
