第1話 雨漏りの机

雨の火曜日に瀬見坂へ戻るのは、祖父の四十九日を終えた翌朝になった。
駅から高台の旧宅まで、私は傘を差して歩いた。川沿いの商家はどこも雨戸を半分だけ閉め、軒先から落ちる雫が、石畳の目地に細い流れを作っていた。坂を上るにつれて川の音が遠のき、代わりに、濡れた木材の匂いが濃くなった。古い町は雨の日になると、建物の内側へ沈み込むようだった。
祖父の家は、坂の終わりにある。薄い煉瓦を張った洋館風の外壁と、深い軒を持つ日本家屋が一つの建物に収まっている。子どものころは大きく見えたが、今は使われていない部屋の多さばかりが目についた。人が暮らしていたというより、暮らしの抜け殻を何部屋も抱えている家だった。
玄関の鍵は、葬儀のあと私が預かった。鍵を回すと、錠の奥で金属が湿った音を立てた。
家の中には、誰もいない家だけが持つ匂いがあった。畳の乾ききらない草の匂い、古い柱に染みた煙草の残り香、閉め切った部屋の薄い黴臭さ。その奥に、祖父が使っていた石鹸の匂いがまだ残っているような気がした。
「帰ったよ」
返事がないことを知りながら、私は声に出した。
祖父はもういない。分かっている。それでも家に入ったときだけは、書斎の奥から低い声が返ってくるような気がする。
「蓮か。そこに置くな。紙が湿る」
記憶の中の祖父は、いつも物の位置を気にしていた。新聞を畳む角度、湯飲みを置く場所、封筒を重ねる向き。私が小学生のころ、学校から持ち帰ったプリントを机の端へ置くと、祖父は叱らずにそれを取り上げ、紙の角を揃えてから返してきた。
「乱れていると、書いてあることまで乱れて見える」
「紙が曲がってるだけだよ」
「曲がった紙に慣れると、曲がった言葉にも慣れる」
当時の私は、その意味を考えなかった。ただ、祖父の指が紙の端を撫でるのを見ていた。あの指先には、怒りも悲しみもほとんど現れなかった。感情は表に出る前に、紙の束の下へ押し込まれていた。
二階の書斎へ上がると、天井の中央に黒ずんだ染みがあった。昨夜の雨が屋根を抜けたらしい。畳の一枚が暗く濡れ、机の脇には水滴の跡がいくつも残っていた。祖父の文鎮のそばに落ちた雫が、木の天板に小さな輪を作っている。
私は押し入れから古い布を出し、畳の上に膝をついた。
水は冷たかった。布を絞るたび、指の関節に湿気がまとわりつく。天井からまた一滴落ち、文鎮の横で弾けた。雨漏りを直す業者には午後に来てもらうことになっている。それまでに、濡れた資料を移さなければならない。
机の上には、祖父の死後も手をつけずにいたものが残っていた。町内会の帳面、古い電報の控え、封筒の束、新聞の切り抜き。私は一つずつ持ち上げ、乾いた場所へ移した。紙の端を揃える。左上を合わせ、厚みの違う束は別にする。
手が勝手に動いた。
そうしてから、私は手を止めた。
祖父と同じやり方だった。
似ていることが嫌だったわけではない。ただ、その似方が、祖父の死を私の指先へ移してくるように感じられた。祖父が何十年も続けた整理を、私は何も知らないまま引き継いでいる。紙を揃えるたび、知らない沈黙まで受け取っている気がした。
書棚の下段にある引き出しを動かそうとしたとき、片側だけ抵抗がなかった。ほかの引き出しには湿気を吸った木の重さがあるのに、それだけは妙に乾いている。取っ手を引くと、内部にほこりの筋が残っていた。
中は空だった。
だが、奥の板と側面の隙間に、薄い紙が挟まっている。
私は細身のペーパーナイフを取り、紙を傷つけないように差し込んだ。祖父が使っていたものだった。刃は鈍く、柄の黒い部分には指の脂が染みている。紙片を引き抜くと、それは一枚の日付メモだった。
雨の火曜日。
その下に、年月日が記されていた。今から五十年前の日付だった。
メモの裏側に、灰色の封筒が重なっている。表面は埃を吸ってざらつき、封の部分だけが不自然に滑らかだった。切手はない。消印もない。郵便へ出される前の、ただ宛名だけを与えられた封書だった。
宛名を見た瞬間、目が止まった。
朝倉ミツエ様。
字は祖父のものだった。旧字体の使い方も、ひらがなの丸みも、町内会の帳面に残る筆跡と一致している。だが、宛名の「朝」の一画だけがわずかに震えていた。書き始めに迷いがあったのか、紙の上で筆先を一度戻している。
私は名前を声に出さず、口の中で読んだ。
朝倉ミツエ。
その名を知っていた。
知っていたというより、家の中で決して呼ばれなかった名前として覚えていた。
幼いころ、祖父の家で何度か夕食を食べた。祖父、父、母、私。食卓には煮魚や味噌汁が並び、テレビの音が小さく流れていた。大人たちは天気や学校の話をした。誰かが瀬見坂の昔の話を始めそうになると、母が醤油を取ってくれと言い、父が新聞を開いた。祖父は箸を置き、紙の端を揃えた。
その名前だけが、いつも話題の手前で消えた。
子どもの私は、名前が消えることを不思議に思いながら、問い方を知らなかった。
今なら分かる。あれは沈黙ではなかった。何人もの大人が、沈黙を続けるために互いの手元を監視していたのだ。
封筒を裏返す。差出人の名はない。封の糊は半世紀を経ても完全には死んでいなかった。紙の端を光にかざすと、封の内側にごく薄い筋が見えた。いったん剥がしかけて、閉じ直したような跡だった。
開けようと思えば、すぐに開けられる。
ペーパーナイフを差し込めば、封は音もなく裂けるだろう。中身を読めば、祖父が何を知っていたのか分かるかもしれない。あるいは、何も分からないかもしれない。五十年前の手紙が、すでに答えではなく、答えを失った紙になっている可能性もある。
それでも私は刃を封の端へ置けなかった。
封筒を開けることは、過去を読むことではない。祖父が生涯閉じていた場所へ、私の手で入ることだった。
雨音が強くなった。屋根を打つ音が書斎の壁を細かく震わせ、窓硝子に水の筋を増やしていく。私は封筒を机の中央へ置いた。濡れた資料を避け、日付メモをその隣に並べた。
そのとき、書棚の奥から別の紙束が崩れた。
町内会名簿の改訂版だった。表紙の角が擦れている。開くと、何人かの名前が黒く塗られ、住所の一部が別の筆跡で書き直されていた。朝倉という姓を探したが、見つからない。ページの途中に、不自然な空白がある。前後の番号は続いているのに、一人分だけ行が抜けていた。
名簿の間には、喪中葉書が数枚挟まっていた。宛名は消されている。差出人の印だけが残り、誰の死を知らせるものだったのか判別できない。一枚の裏には、祖父の字で短い下書きがあった。
――先にお詫びを申し上げるべきでした。
その一行の末尾で、筆圧が崩れている。
私は朱色の校正ペンではなく、鉛筆を取り出した。文章の横に、日付と「筆圧変化」とだけ記す。仕事で原稿を読むときと同じ手つきだった。書かれているものをそのまま受け取り、書かれていないものを勝手に補わない。だが、祖父のこの紙だけは、空白のほうが大きく見えた。
告発の文章ではない。
誰かを責めるための言葉なら、祖父はもっと平らに書いたはずだ。町内会の通知や帳面の記録は、どれも線の終わりまで抑制されている。感情を切り落とし、必要なことだけを残す字だった。
この下書きは違う。
謝ろうとしている。けれど、謝る相手の前へ出ていけない。そんなためらいが、紙の繊維にまで沈んでいる。
私は灰色の封筒を取り上げ、親指で表面を撫でた。
古い紙の匂いに、雨の匂いが混じっていた。甘いインクの香りが鼻の奥へ入り、祖父の書斎に座っていた幼い日の記憶を引き寄せる。祖父はいつも、雨の日には灯りを一つだけ点けていた。外が暗くても、書斎の照明を増やそうとはしなかった。
「明るくしたら、見えるものが増えるよ」
子どもの私がそう言うと、祖父はしばらく黙ったあと、帳面の端を揃えながら答えた。
「見えるものが増えると、見なければならないものも増える」
あのときの意味を、私は今になって考えている。
夕方、雨漏りの修理を終えた職人が帰ったあと、私は一人で台所に立った。親族へ連絡すべきことはいくつかあったが、誰にも電話をかけなかった。書斎で見つけた封筒のことを話せば、きっと誰かが先に結論を言う。「古い話だ」「祖父も忘れていた」「触れないほうがいい」。そういう言葉を聞くのが嫌だった。
食卓に湯気の消えかけた飯を置き、箸を取る。
ひとりの食事では、箸が器に触れる音がやけに大きい。家の軋み、雨樋を流れる水、川の増水を知らせる遠い警報。そのすべての隙間に、幼いころの食卓が戻ってくる。
誰もミツエの名を口にしなかった。
私は食事を途中でやめ、再び二階へ上がった。
書斎の机には、灰色の封筒と改訂名簿、喪中葉書、名前の消された下書きが並んでいる。祖父なら、これらをどの順番で置いただろう。私は一度すべてを崩し、それから机の左上から順に並べ直した。
封筒。 日付メモ。 名簿。 喪中葉書。 下書き。
紙の端を揃えるたび、祖父の手つきが自分の指に重なった。敬愛は、死んだ人を無傷のまま保存することではない。傷の位置まで確かめることだと、編集の仕事を通じて私は知っていた。だが、祖父に対してそれを実行する覚悟はまだなかった。
封筒の封を撫でる。
冷たい。
私はそれを伏せた。
開ければ、何かが終わると思ったからではない。むしろ、開けた瞬間から終わらないものが始まると分かっていたからだ。
窓の外では、雨が夜の町を覆っていた。高台から見える家々の灯りは、水の膜越しに滲んでいる。川は暗く、音だけが近い。
机の上で、灰色の封筒は何も語らなかった。
それでも私は、祖父の沈黙を単なる頑固さとして片づけることができなくなっていた。彼は何かを隠した。誰かを守ろうとしたのかもしれない。けれど、守ろうとした沈黙が、別の誰かを傷つけた可能性もある。
そのどちらも、まだ捨てられなかった。
私は灯りを消し、書斎を出る前に一度だけ振り返った。
伏せた封筒の灰色が、暗がりの中で雨雲の切れ端のように浮かんでいた。
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