9話 河川敷の白み

駅へ向かう道を外れ、僕たちは河川敷の遊歩道へ出た。

街灯の数が減るほど、空の色が少しずつ薄く見えた。夜の底にへばりついていた黒さが、遠くの雲の縁から溶け出している。川面はまだ黒いが、風が撫でるたびに、表面だけが細かく割れて銀色を返した。それは、凛の破れた単語帳の断面が街灯に光った、あの一瞬とよく似ていた。

制服の裾が冷えて、僕は思わず足を速めたくなる。だが凛の歩幅は一定で、みなみもそれに合わせていた。置いていかれるのが嫌で、僕も黙って並んだ。

学校の話題は、誰も出さなかった。模試順位も、推薦枠も、志望校の判定も、口にするとこの夜の質感が壊れるような気がしたのだ。あの言葉たちは、教室の蛍光灯の下でこそ意味を持つ。この河川敷の、まだ何色にも決まっていない空の下では、ただの記号に戻ってしまう。

代わりに先に出たのは、眠れなさだった。

「最近、寝つけないときある?」

みなみが聞いた。軽い調子だったが、僕は彼女がその質問を選ぶまでに、いくつか別の言葉を捨てたのだろうと感じた。

「ある」

僕は答えた。答えたあとで、こんなに簡単に言っていいものかと少し戸惑う。いつもなら、眠れない理由を説明しろと言われている気がして、身構えるはずだった。今は、ただ事実を置くだけで済んだ。

凛も、少し遅れてうなずいた。

「……ある」

「なに考えてるの」

凛は、少しだけ視線を下げた。河川敷の草は霜を踏んで固く、靴底の下でかさりと鳴る。彼女はしばらく黙ってから、短く言った。

「失敗したあと、どう見られるか」

その一言は、思ったより静かに落ちた。だが僕の胸の奥には、鋭く食い込んだ。

「それだけ?」

僕が聞くと、凛はわずかに首を横に振った。

「それだけじゃない。でも、一番怖いのはそれ」

僕は自分の中で、その言葉を何度か繰り返した。失敗したあと、どう見られるか。凛はずっとそれを恐れていた。整った字も、隙のない姿勢も、余白のない単語帳も、すべてはその恐怖から身を守るための鎧だったのかもしれない。

「僕は、失敗そのものより、落ちることが怖かった」

僕は言った。言ってから、その違いをうまく説明できるか自信がなかったが、続けた。

「失敗って、一回きりのことだろ。テストで間違える。答えを外す。それだけなら、次で直せばいい。でも、落ちるっていうのは、そこにいた場所からいなくなることだ。順位から落ちる。期待から落ちる。今まで自分がいた場所から、誰かに押し出される。僕はそっちのほうが怖かった」

「同じことじゃない?」

「似てるけど、少し違う気がする。凛は、失敗したときの他人の目を怖がってる。僕は、失敗したあとの自分の居場所を怖がってる」

凛は、しばらく黙って歩いていた。

「……悠真の言うことのほうが、正確かもしれない」

「そう?」

「うん。私も、たぶん、他人の目より先に、自分がどこにいるかわからなくなるのが怖かった。できる人だと思われている場所から落ちたら、私はもう、どこにも立てない気がしてた」

川の向こうで、始発前の空がひと筋だけ白く滲んだ。雲の縁がほどけている。凛はその白さを見ないふりをするように、缶を持つ手に力を入れた。

僕は、紙片を入れた封筒の角を、無意識に指でなぞった。自分の不安も、凛の疲れも、あの薄い紙に似ている。強く握れば裂けるし、放しても風で飛ぶ。守ろうとするほど、扱い方を間違えれば壊れてしまう。そういう脆さを、僕たちはずっと隠していた。

「みなみは」

凛が、前を歩くみなみへ声をかけた。

「なに考えてるの、って聞かれたら、何て答える?」

みなみは振り返らず、缶を軽く振った。

「私? 今考えてるのは、この河川敷、思ったより広いなってことと、あと、明日の試験で寝坊しないかなってこと」

「それだけ?」

「うん。それだけ」

凛が少し驚いたように、みなみの背中を見た。

「軽いね」

「軽いよ。私、悠真や凛ちゃんみたいに、深く考えるの得意じゃないから」

みなみはそこで足を止め、こちらを振り返った。街灯の少ない道の途中で、彼女の顔は半分だけ夜の色に沈んでいた。

「でも、深く考えないってことは、何も考えてないってことじゃないよ。私は、失敗したらどう見られるかとか、落ちたらどうなるかとか、そういう先のことを、今この瞬間より優先させないようにしてるだけ。だって、先のことを考えすぎると、今隣にいる人の顔を見忘れるでしょ」

その言葉に、僕は思わず凛の横顔を見た。凛もまた、同じ瞬間に僕を見ていた。目が合う。呼吸が一拍だけ止まる。けれど、今度はどちらも、その止まった呼吸を気まずさで埋めようとはしなかった。

「みなみは、ずるいな」

僕が言うと、みなみは笑った。

「ずるいんじゃなくて、楽な場所を選んでるだけ。楽な場所にいる人間の言うことは、あんまり信用しないほうがいいよ」

「信用してる」

「じゃあ、信用のしすぎには気をつけて」

みなみはそう言って、また前を向いて歩き出した。

僕たちは黙って、しばらく歩いた。河川敷の遊歩道は、街灯の光が届かない場所で急に暗くなり、また次の街灯の下でぼんやりと明るくなる。その繰り返しのなかで、僕は自分の足音と、凛の足音、みなみの足音が、少しずつ同じ拍子に近づいていくのを感じていた。

「悠真」

凛が、前を見たまま言った。

「なに」

「私、明日の試験、たぶんまた緊張する。単語帳がなくても、あっても、たぶん同じくらい緊張する」

「うん」

「それでも、失敗したらどう見られるかを、今より先に考えないようにしたい。みなみみたいに、軽くはできないけど」

「できなくていいと思う」

「そう?」

「凛は凛のやり方でいいだろ。みなみの真似をしなくても」

凛は小さく頷いた。頷いたあとで、少しだけ口元を緩めた。

「悠真も、私の真似をしなくていい」

「わかってる」

「わかってないと思う。まだ、私が一位だったら悔しいって、心のどこかで数えてる」

「……否定できない」

「うん。だから、まだ変わってない。でも」

凛はそこで一度、言葉を止めた。答えを口にする前に呼吸を止める、いつもの癖だった。

「でも、それでも、今夜みたいに歩けるなら、それでいいと思う」

川の向こうの白い筋が、少しずつ広がっていた。雲の底に溜まっていた光が、ゆっくりと空全体へにじみ出している。夜が終わるというより、夜の一部が薄くなって、朝という別の色に置き換わっていくようだった。

僕は、その白さを見つめながら、自分の中にあったものの輪郭を、初めてはっきりと感じ取った。

勝ちたいのではなかった。

安心したかったのだ。

誰かに勝った証明が欲しかったわけではない。壊れない答えが欲しかった。凛より上にいれば、自分の場所は確かなものになると思っていた。だがそれは、本当は誰の場所でもなく、誰かと比べることでしか測れない、頼りない場所だった。

「悠真、また黙って考えてる」

みなみの声がした。

「うん。ちょっと」

「今度は、何を数えてるの」

「数えてない」

「珍しいね」

「たぶん、初めてかもしれない」

みなみは、それ以上聞かなかった。ただ、缶を軽く持ち上げて、乾杯するような仕草をした。中身はもうほとんど残っていないはずだった。

「河川敷、寒いね」

みなみが言った。

「今より?」

僕が聞くと、みなみは笑った。

「今より。風が、受験生に容赦ない」

「誰にでも容赦ないだろ」

「だから受験生には特に容赦ないの」

凛が、かすかに息を吐いた。その白い息が、街灯の下でほどける。消えるまでの短いあいだ、僕たち三人の呼吸は、同じ高さにあるように見えた。

道の先で、川面が夜の光を鈍く返している。僕は缶を握り直した。熱はもうほとんど残っていなかった。それでも、まだ冷たくはなかった。

凛の隣を歩く。

勝つためでも、追いつくためでも、彼女の答えを盗むためでもない。ただ、同じ夜を越える人間として、そこにいるために。

僕はふと、母の声を思い出した。結果は今度でいい、ちゃんと帰ってくるのが先——あの言葉は、今この瞬間の僕にとって、進路指導室の資料よりも、ずっと確かな道標のように思えた。安全圏という言葉には、帰る場所も、隣を歩く誰かの呼吸も含まれていなかった。

河川敷へ下りる階段の手前で、みなみが振り返った。

「ねえ、二人とも」

「なに」

僕と凛の声が重なった。

みなみは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。

「明日、ちゃんと起きてこようね。受験より先に、朝が来るから」

僕は空を見上げた。

まだ黒い部分が残っている。けれど、遠い雲の底には、夜とは違う薄さが確かに生まれていた。それは誰かに与えられた判定でも、誰かと比べて測る順位でもなく、ただそこにあるだけで、僕たちの歩く先を照らしていた。

凛はその空を見て、缶を持つ手の力を抜いた。

僕たちは階段を下りた。

川の音が近づいてくる。街の音が遠のいていく。冷たい風が堤防を越え、頬の熱をさらっていく。

それでも、さっきより息がしやすかった。

破れた単語帳は、まだ凛の鞄の中にある。直せないまま、捨てられないまま、それでも今夜という時間の中で、確かな形を持って残っている。僕はそれを、失敗の証としても、乗り越えた証としても、名付けないでおこうと思った。ただ、二人で越えた夜の記憶として、そこに置いておけばいい。

白みはじめた空の下、僕たちはまだ、互いのすべてを知らない。凛が本当に何を望んでいるのかも、僕が明日どこへ向かいたいのかも、言葉になりきってはいない。それでも、歩幅を合わせることはできた。

誰が先かを測らずに歩くのは、思っていたより難しい。けれど、難しいままでも、僕は凛の半歩後ろへ下がることも、先へ出ることもしなかった。

隣にいた。

ただ、それだけだった。

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