第10話 始発前の余白

河川敷を抜けると、古いバス停が見えた。
屋根の端に溜まった霜が、街灯の光を受けて白く浮いている。時刻表のケースには細かな傷が走り、透明な板の向こうで、始発の時刻だけが妙に鮮明だった。
五時十二分。
まだ十五分ある。
みなみはベンチに座るなり、背もたれへ身体を預けた。
「ここ、座っていいんだよね」
「バス停だからな」
「そういう意味じゃなくて。誰かの場所を取ってないかなって」
誰もいないベンチを見回しながら、みなみは言った。凛は座らず、バス停の柱に背を預けている。鞄の中には、破れた青い単語帳があるはずだった。
僕はポケットの中の封筒に触れた。
図書館で拾った紙片を、白石は捨てずに渡してくれた。何も言わず、封筒の表に日付だけを書いて。その字があまりに整っていたから、僕は一瞬、破れたものまできれいに扱える人間になったような気がした。
もちろん、そんな簡単な話ではない。
封筒の角は少し潰れている。中の紙片も、どのページのどの部分だったのか、もうわからないものがある。それでも、捨てる気にはなれなかった。
凛が、空を見た。
「明るくなってきたね」
「うん」
「朝って、もっと急に来るものだと思ってた」
「僕も」
「実際は、夜の色が少しずつ薄くなるだけなんだね」
凛の声には、図書館で聞いた硬さがなかった。けれど、完全に柔らかくなったわけでもない。言葉の端にはまだ、触れれば裂けそうな緊張が残っている。
みなみが靴先で地面の小石を転がした。
「朝も、いきなり完璧にはならないんだよ」
「朝に完璧とかあるの?」
「あるよ。寝坊しない、顔がむくんでない、前髪が変じゃない、靴下が左右同じ」
「受験生の条件じゃない」
「でも大事でしょ」
凛が小さく笑った。
その笑いを見て、僕は胸の奥に残っていた力がわずかに抜けるのを感じた。彼女が笑ったことに安心したのではない。笑える状態まで戻ったことを、僕が確認しなくてもよくなったことに安心したのだと思う。
みなみは僕のほうを見た。
「悠真、試験が終わったらどうするの?」
「寝る」
「それは全員そう。寝たあと」
「……まだ決めてない」
「決めてないんじゃなくて、考えないようにしてたんじゃない?」
すぐには返せなかった。
鞄のなかには、進路指導室でもらった資料が入っている。志望校の案内。学部の一覧。過去の合格者数。どれも何度も見た。けれど、そこに書かれているのは大学の情報であって、僕がなぜそこへ行きたいのかではなかった。
「僕は、国立のほうへ行くつもりだった」
言葉にすると、思ったより他人事のように聞こえた。
「つもり?」
「家から通えるし、判定も悪くない。先生にも、そこなら十分狙えるって言われた。母も、たぶん安心する」
「悠真は?」
「……わからない」
凛がこちらを見た。
「わからないまま、そこにするの?」
「わからないから、そこにするんだと思ってた。間違いが少ないから」
「それって、進路というより避難場所じゃない?」
言い方は冷たくなかった。ただ、凛らしい正確さで、逃げ道の形をなぞられた気がした。
僕は封筒の角を撫でた。
「凛は、決めてるのか」
「私は、東京の大学を受ける」
初めて聞いた。
「東京?」
「うん。文学部。小説を書くとか、そういう立派な理由じゃない。図書館が大きいから。知らない本がたくさんあるし、知らない人がたくさんいる。そういう場所で、自分がどんな人間なのか、少し見てみたい」
凛はそこで言葉を切った。
「でも、言えなかった。家では、地元で堅実なところにしなさいって言われていたし、学校では判定と通学時間の話ばかりだった。東京に行きたいと言ったら、今まで積み上げた成績を使って遊びたいだけだと思われそうで」
「遊びたいんじゃないだろ」
「うん。たぶん、逃げたいんだと思う」
凛の指が鞄の肩紐を握った。
「でも、逃げたいと思うことと、行きたいと思うことは、両立してもいいのかもしれない」
その言葉が、夜明け前の空気に静かに残った。
僕は自分の志望校を思い浮かべた。学びたいことも、そこで過ごす自分の姿も、これまで一度も考えなかった。ただ、凛より上に行けるか、判定が安全か、母が安心するか。それだけで選ぼうとしていた。
「僕も、変えたい」
「志望校?」
「うん。今すぐじゃない。家に帰って、母さんに話す。先生にも、どうしてそこへ行きたいのかを説明する。説明できなかったら、たぶんまた安全圏に戻ると思う。でも、戻る前に一回、自分で選んでみたい」
口にしながら、喉の奥が震えた。
怖かった。反対されるかもしれない。判定が足りないと言われるかもしれない。選んだ結果、落ちるかもしれない。
それでも、誰かに勝つための場所を選ぶよりは、落ちる可能性まで自分のものにしたかった。
「それ、怖くない?」
凛が聞いた。
「怖い」
「そうだよね」
「でも、凛が単語帳を破ったあとも、覚えた単語は残ってた」
凛が目を伏せる。
「だから僕も、選んだあとに怖くなっても、今までやったことまで消えるわけじゃないと思いたい」
始発のバスが遠くで音を立てた。
まだ姿は見えない。けれど、道路の向こうから低いエンジン音が近づいてくる。みなみが立ち上がり、髪を整えた。
「はい。朝、来ました」
「まだ来てないだろ」
「音がしたから、来たことにする」
凛は鞄から青い単語帳を取り出した。
表紙は裂け、ページの一部が不揃いに垂れている。彼女はそれを開かず、両手でまっすぐに揃えた。捨てるでも、直すでもなく、持っていくための形にしようとしているように見えた。
「これ、持っていく」
「使うのか?」
「全部は無理。でも、今日覚えたところだけ見る」
「破れたままで?」
「破れたままで」
凛は僕を見た。
「悠真も、封筒を持っていくの?」
「試験会場には置いていく。帰ったら、また見る」
「そう」
バスのライトが、曲がり角の向こうで白く滲んだ。
みなみが手を上げる。
「じゃあ、二人とも寝ないで来た仲間ってことで」
「仲間って言うなよ」
「嫌?」
答える前に、バスが停まった。扉が開き、温い空気が流れてくる。外気に慣れた頬には、それだけで別の季節のようだった。
凛が先に乗り込む。入口で振り返り、僕を見る。
「悠真」
「なに」
「明日、順位で見ないで」
僕は一拍置いた。
「努力する」
「それ、答えになってない」
「じゃあ、できない日もあるけど、気づいたら戻す」
凛は少し考えてから、頷いた。
「それならいい」
僕たちはバスに乗った。
窓の外で、空の端が白くほどけていく。まだ朝と呼ぶには薄い色だったが、もう夜だけの色ではなかった。
僕は座席に腰を下ろし、凛の隣ではなく、ひとつ後ろの席に座った。距離を取ったわけではない。これからは、隣にいることさえ証明にしなくていいと思ったからだ。
前の席で、凛が青い単語帳を開いた。
破れた紙が、朝の光のなかで揺れている。
僕は窓に映る自分の顔を見た。眠そうで、ひどく不安そうで、それでも昨日までより少しだけ、知らない人間に見えた。
バスが動き出す。
始発前の空は、まだ完成していない。
だからこそ、僕はその白みに向かって、自分の行きたい場所を考え始めた。
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