8話 呼吸の温度

みなみは少し離れた場所で、缶のプルタブを親指で弾いた。

金属音が、冷たい空気に小さく跳ねる。自動販売機の白い光は、僕たち三人の顔を均等に照らしていた。けれど、その光の外へ出れば、凛の表情も、僕の手元も、すぐに夜の色へ戻ってしまう。

「この空気、ほっとくと凍るね」

みなみは、凛のほうへ少し身体を向けた。

「凛ちゃん、もう少しだけこっちで息しよう」

からかうみたいな口調だった。けれど、これは場を軽くするための冗談ではない。壊れそうなものを踏まないために、みなみが置いた足場だとわかった。

凛はみなみから受け取った缶を、すぐには飲まなかった。両手で包み、掌へ熱が移るのを待っている。自動販売機から出たばかりの缶は、思ったより熱かった。凛の指先が缶の側面に触れるたび、白く強張っていた皮膚が少しずつ色を取り戻していく。

僕はその仕草を見て、勝手に気まずくなった。

彼女の指先には、さっき紙を裂いた人間の乱暴さが残っているはずだった。けれど目の前にあるのは、熱を逃がさないよう缶を抱える、冷えに負けそうな身体の弱さだった。僕はそこへ手を伸ばしたくなった。傷を見せてくれ、と言いたくなった。けれど、それは心配ではなく、僕自身の不安を鎮めるための行為かもしれなかった。

みなみが、白い息を吐いた。

「寒いね」

「……うん」

凛の返事は短かった。声はまだ掠れていたが、図書館を出た直後の拒絶とは違っていた。

「受験前夜って、どうしてこんなに冬っぽいんだろうね。教室も図書館も、自販機の前も、全部同じ顔してる」

「同じ顔?」

「白くて、眠そうで、誰も本当のことを言わない顔」

みなみは缶を傾けた。飲み口に唇をつける前に、凛の様子をちらりと見る。その視線は長く留まらなかった。見たことを見たままにして、決めつけないための短さだった。

「だから、みんな妙に姿勢がいいんだよ。背中を丸めたら、何かに負けたことになるみたいに」

凛の肩が、かすかに揺れた。

笑ったのかもしれない。息を整えたのかもしれない。僕にはまだ判別できなかった。けれど、彼女の肩がほんの少し下がったことだけは見えた。見えてしまったことに、僕はまた罪悪感を覚えた。

崩れた顔を見たくなかったはずなのに、今はその崩れ方から目を逸らせない。

「悠真も、ずっとそんな顔してたよ」

みなみが僕を見る。

「どんな顔だよ」

「順位表と喧嘩してる顔」

言い返そうとして、僕は黙った。

進路指導室で見た資料が、脳裏に浮かぶ。志望校の欄の横に並んだ判定。教師が赤いペンで囲んだ安全圏。上から順に並べられた合格可能性。数字の端には、僕の名前が薄く貼りついているようだった。

安全圏。

その言葉を聞くたび、僕は少しだけ安心した。けれど、安心するためにそこへ入ろうとすると、今度は安全圏から落ちる恐怖が生まれた。上がれば上がるほど、落ちたときの高さが増していく。

母が弁当袋に入れてくれた卵焼きも、凛の破れた単語帳も、みなみの缶コーヒーも、僕のなかでは同じ場所へ集まり始めていた。

勝つことのために机へ向かっていたはずだった。

けれど、いつの間にか、負けないことだけが支えになっていた。

「悠真」

凛が呼んだ。

「なに」

「さっきから、顔が変わってる」

「そう?」

「考えてるときの顔」

「いつも考えてるだろ」

「いつもは、誰かと比べてる顔」

凛の缶を持つ指が、少し強く側面へ食い込んだ。

「今は?」

僕は答える前に、一拍置いた。いつものように、正しい返事を頭の中で探した。けれど、正しさを選ぼうとした時点で、もう凛の言葉から逃げている気がした。

「今は、比べる相手がいないから困ってる」

「私がいる」

「いるけど、もう前と同じには見られない」

「それは、私が単語帳を破ったから?」

「たぶん、それだけじゃない」

凛は缶を見下ろした。

「どうして?」

「凛も、僕と同じように怖がってるってわかったから」

自分で口にしてから、その言葉の幼さが気になった。凛が怖がっていることなど、ずっと前からわかっていたのかもしれない。ただ僕は、それを彼女の弱さではなく、僕が追い越すための隙としてしか見ていなかった。

「同じじゃない」

凛が言った。

「うん」

「私は、期待されていることを失うのが怖い。悠真は、期待される場所から落ちるのが怖い。似ているけど、たぶん違う」

「そうだな」

「それに、私は悠真より上にいるつもりはなかった」

僕は顔を上げた。

凛と目が合う。

呼吸が、一拍止まった。

「いつも上にいたじゃないか」

「順位の話じゃなくて」

「じゃあ、何の話だよ」

「私は、悠真が私を見ていることを知っていた。だから、見られている側として、ちゃんとしていなきゃと思っていた。悠真に勝ちたかったのも本当。でも、勝てば勝つほど、悠真の視線を裏切れない気がした」

「僕の視線を?」

「うん。悠真は、私が崩れないと思っていたから」

凛はそこで一度、息を止めた。答えを言う前に呼吸を閉じる、いつもの癖だった。

「できる人だと思われるのは、嬉しいことじゃない。嬉しいときもあるけど、それより先に、できないところを見せられないと思う。だって、最初からできる人として置かれていると、失敗したときに、失敗したのは問題じゃなくて、私自身になるから」

みなみは黙っていた。軽口を差し挟まなかった。

僕も何も言えなかった。

凛は続けた。

「単語帳を開けば、私がどれだけやったか確認できた。青い線が増えて、余白がなくなって、ページが膨らんでいく。そうすると、まだ足りないと思いながらも、これだけやったんだから、私は大丈夫だと思えた。でも、最後には、単語帳を開くこと自体が、自分を採点することになった」

「採点?」

「覚えた単語の数。書き直した回数。残っている余白。眠くても手が動くか。字が乱れていないか。ページをめくるたび、私は自分を見張っていた」

凛の声は平らだった。感情を抑えているというより、感情を順番に机へ並べているように聞こえた。

「それで、閉館の声がした。まだ覚えていない単語があった。明日までに全部は無理だと思った。でも、単語帳を閉じたら、今日までやったことも終わる気がした。やめたことになる。だから、閉じる代わりに破った」

「終わらせるために?」

「終わらせたかった。終わらせたくなかった」

凛は、缶の蓋を親指で撫でた。

「自分でも、よくわからない。全部を壊して、全部を捨てて、明日は何も持たずに行きたかった。でも、破れたあと、覚えた単語は頭のなかに残っていた。嫌だったことも、やったことも、明日が来ることも、何ひとつ消えなかった」

「壊せば、終わると思ったのに」

「うん」

「僕も同じだ」

僕の声は、思ったより低かった。

「凛に勝てば終わると思ってた。勝ったら、自分がここにいていいって証明できると思ってた。でも、勝っても次の模試が来る。次の順位が出る。次は落ちるかもしれない。だから、もっとやる。やればやるほど、落ちたときに失うものが増えていく」

僕は手の中の缶を見た。まだ温かい。けれど、その熱は少しずつ弱くなっていた。

「僕は、凛に勝ちたかったんじゃなくて、落ちたくなかったんだと思う」

言葉にすると、胸の奥に張りつめていたものが、わずかに形を変えた。

「順位から落ちるのも、期待から落ちるのも、今いる場所から落ちるのも怖かった。凛が一位にいるかぎり、僕は少なくとも二位だった。二位なら、まだ誰かに説明できる。自分が何者か、考えなくて済む。でも凛がいなくなったら、僕は自分で場所を決めなきゃいけない」

みなみが、ゆっくり息を吐いた。

「それ、やっと口にしたね」

「何を」

「順位じゃなくて、怖いってこと」

「……そうかも」

「たぶん、じゃないよ」

みなみは笑った。けれど、今度の笑いには少し疲れが混じっていた。

「でも、急に立派にならなくていいからね。明日になったらまた順位を見るだろうし、凛ちゃんの点数も気になるだろうし、帰ってから今日の会話を何回も思い出して、あれは何点だったとか考えるかもしれない」

「やめろよ」

「図星?」

「……たぶん」

「ほら」

凛が、ほんの少し笑った。

その笑いは、図書館で作ったものとは違っていた。大きくも、明るくもない。ただ、彼女自身の口元が、彼女の許可を取らずに緩んだように見えた。

僕は、その笑いを採点しなかった。

何点の笑顔か。どれくらい回復したか。僕が何を言ったからそうなったのか。そういうことを考えずに、ただ見ていた。

それができたことに、少し驚いた。

「凛ちゃん、もう一口飲んで」

みなみが言った。

「冷めるよ」

「冷めても飲める」

「そこは悠真と同じだね」

「何が」

「温度が下がっても、まだ使えるって言うところ」

僕と凛は、ほとんど同時にみなみを見た。

目が合ったわけではない。けれど、同じ方向を向いたことで、三人の距離が一瞬だけ縮まった。

「みなみは、何でも受験に絡めるな」

僕が言うと、みなみは肩をすくめた。

「だって今、受験の話しかしてないじゃん」

「おまえが始めたんだろ」

「始めたけど、終わらせる権利もある」

みなみは缶を振った。

「今日はこれ以上、採点しない。自分の顔も、凛ちゃんの単語帳も、私の進路も」

「おまえの進路はまだ聞いてない」

「聞いてもいいけど、今の悠真に聞かせると、頭のなかで表を作り始めるからやめとく」

「作らない」

「作る」

「……少しは作るかもしれない」

「正直でよろしい」

みなみは今度こそ笑った。

自販機の光の下で、缶の縁が三人の手のあいだを淡く照らしていた。温度は長く続かない。けれど、長く続かないからこそ、手のひらに残るあいだだけは確かだった。

凛が、校舎の暗い窓を見た。

「図書館、もう閉まったね」

「うん」

「赤い閲覧席も、今は誰もいない」

「明日になれば、また座れる」

「座る?」

僕は、すぐに答えなかった。

赤い閲覧席。擦れた布地。机の角。隣り合った二つの椅子。これまで僕たちは、そこに座ることで互いの位置を確かめていた。僕は凛の隣にいることで、自分がどこにいるかを知ろうとしていた。凛もまた、僕に見られていることで、自分を整えようとしていた。

けれど、明日から同じ席に座ったとしても、もう以前のようには戻れない。

「座ると思う」

僕は言った。

「また比べるかもしれない。でも、座らない理由を作るのも違う気がする」

「どうして?」

「隣にいることまで、勝ち負けにしたくないから」

凛は黙って僕を見た。

「それ、できるの?」

「できないかもしれない」

「じゃあ、どうするの」

「できないまま座る」

みなみが、少しだけ目を細めた。

「それは、わりといい答えじゃない?」

「採点するなって言っただろ」

「採点じゃないよ。感想」

凛が缶を口へ運んだ。今度はためらわずに飲んでいる。甘さが気に入ったのか、ただ身体が求めていたのか、僕にはわからない。わからないまま、彼女が飲み込むのを見た。

「私も、明日座る」

「単語帳は?」

「持っていく。破れたまま」

「使うのか」

「使うかもしれない。見ないかもしれない」

「それでいいと思う」

「また簡単に言う」

「今度は、凛が決めたから」

凛の視線が、僕へ向いた。

呼吸が、一拍止まった。

けれど、前のような緊張だけではなかった。見られていることから逃げるのではなく、見られたままでも、すぐに整った顔へ戻らなくていい。そんな余地が、わずかに残っているように思えた。

「悠真」

「なに」

「明日、私がまた一位だったら」

「うん」

「悔しい?」

「悔しいと思う」

「それでも?」

「それでも、凛が壊れないことを期待しない」

凛は目を伏せた。

「私が二位だったら?」

「悔しいだろ」

「そっちじゃなくて」

「……わからない」

「それでいい」

凛は缶を両手で包んだ。

「私も、悠真が一位だったら、たぶん悔しい。でも、悠真が一位だからって、私が何者かまで決めないようにする」

「できる?」

「できないかもしれない」

「じゃあ」

「できないまま、見る」

みなみが、わざと大きめに息をついた。

「はい、二人とも合格。今日はそこまで」

「何に合格したんだよ」

「夜をまだ終わらせずに済んだこと」

その言い方が妙に気に入らず、僕は笑いそうになった。笑えば、何かが軽くなりすぎる気がして、口元を手で隠した。

凛が僕を見た。

「今、笑った?」

「笑ってない」

「笑った」

「見ないでくれ」

「それは私の台詞」

「……そうだった」

凛の口元が、また少し緩んだ。

僕たちは自動販売機の前を離れた。みなみが先に歩き、凛がその後ろへ続く。僕は凛の隣に並んだ。肩は触れない。手の甲も触れない。ただ、缶の温度だけが、それぞれの掌に残っている。

校門の外には、河川敷へ向かう道が伸びていた。街の明かりは次第に減り、住宅の窓もひとつずつ暗い。道路の端には薄い霜が張り、靴底で踏むと、かすかな音を立てて砕けた。

僕は歩幅を測らなかった。

凛がどれだけ先にいるかも、みなみがどれだけ離れているかも考えなかった。考えないようにすると、かえって気になった。けれど、気になったまま歩くことはできた。

「河川敷、寒いよ」

みなみが前から言った。

「今より?」

「今より。風が、受験生に容赦ない」

「誰にでも容赦ないだろ」

「だから受験生には特に容赦ないの」

凛が、かすかに息を吐いた。

その白い息が、街灯の下でほどける。消えるまでの短いあいだ、僕たち三人の呼吸は同じ高さにあった。

道の先で、川面が夜の光を鈍く返している。

僕は缶を握り直した。熱は弱くなっていた。けれど、まだ冷たくはない。

凛の隣を歩く。

勝つためでも、追いつくためでも、彼女の答えを盗むためでもない。ただ、同じ夜を越える人間として、そこにいるために。

河川敷へ下りる階段の手前で、みなみが振り返った。

「ねえ、二人とも」

「なに」

僕と凛の声が重なった。

みなみは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。

「明日、ちゃんと起きてこようね。受験より先に、朝が来るから」

僕は空を見上げた。

まだ黒い。けれど、遠い雲の底には、夜とは違う薄さが生まれていた。

凛はその空を見て、缶を持つ手の力を抜いた。

僕たちは階段を下りた。

川の音が近づいてくる。街の音が遠のいていく。冷たい風が堤防を越え、頬の熱をさらっていく。

それでも、さっきより息がしやすかった。

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呼吸の温度 - 裂けた夜明け - 誰でも作家life