7話 冷たい椅子と、破れた残り

河川敷を離れるころには、空の底がわずかに白んでいた。

夜が明けるというより、暗闇の一部が薄くなっているだけだった。街灯はまだ点いている。けれど、その光はもう夜を支えるほど強くなく、歩道の端に落ちた影も、少しずつ輪郭を失っていた。

凛は僕の半歩前を歩いていた。

半歩、といっても、先を急いでいるわけではない。僕が歩幅を合わせると、自然に隣になる程度の距離だった。さっきまでなら、僕はその差を測っていたと思う。彼女が何センチ先にいるか、僕がどれくらい遅れているか。けれど今は、靴底が霜を踏む音のほうが気になった。

かさり。  かさり。

乾いた草が、夜の底で小さく折れていく。

凛は、河川敷から続く階段の前で足を止めた。階段の手すりには薄い水滴がつき、街の明かりを細く反射している。彼女は缶を持ったまま、階段の上を見た。

「バス、まだある?」

「始発まで、二十分くらい」

僕が答えると、凛は頷いた。

「じゃあ、行く」

返事は短かった。けれど、図書館で単語帳を破った直後の短さとは違っていた。あのときの言葉は、これ以上近づくなという刃のようだった。今の言葉は、疲れている身体を動かすための、必要な分だけの音だった。

僕たちは階段を上った。

上りきったところで、川の音が遠くなった。代わりに、まだ眠っている住宅街の向こうから、トラックの走る音が聞こえた。世界は少しずつ朝の準備を始めている。僕たちだけが、夜の続きを抱えたまま取り残されているようだった。

バス停には誰もいなかった。

古い時刻表のケースに、白い蛍光灯が取りつけられている。時刻の数字はところどころ擦れていて、次の便がいつ来るのか、目を凝らさなければ読めない。屋根の下にある金属のベンチは冷えきっていた。

凛が先に腰を下ろした。

制服のスカート越しに冷たさが伝わったのか、彼女の肩がわずかに上がる。それでも立ち上がらず、鞄を膝の上へ置いた。僕は隣に座る前に、ベンチの表面へ手を触れた。冷たさが掌から腕へ一気に上がってきた。

「冷たい」

「見ればわかる」

「いや、確認しただけ」

「誰に?」

「自分に」

凛が、ほんの少しだけ口元を動かした。

笑ったようにも見えたが、僕は確かめなかった。確かめることが、また採点の始まりになりそうだった。

僕は凛から少し間を空けて腰を下ろした。ベンチの冷たさが制服を通り抜け、腿の奥へじわじわ入ってくる。自動販売機で買った缶コーヒーは、もうぬるくなっていた。それでも両手で包むと、冷えた指先がかろうじて温度を思い出した。

凛は鞄から白い封筒を出した。

表面に、僕が何度も触った折り目がある。中には紙片が入っている。青い線や黄色い線の重なった、途中で裂けた単語たち。封筒の口を開けると、紙の匂いが夜気のなかでかすかに立った。

凛は紙片を一枚ずつ取り出し、膝の上へ並べた。

同じ向きに。文字が読める面を上にして。裂けた縁を外側へ向けて。

その几帳面さは、図書館にいたときと変わらなかった。単語帳を破った人間と、今、紙片の角を揃えている人間が、本当に同じ人なのかと疑いたくなる。けれど、彼女の指先には小さな傷が残っていた。紙で切ったのか、力を込めすぎたのか、薄い赤い線が一本、親指の付け根に見える。

僕は視線を外した。

「見ないで」

凛が言った。

「見てない」

「見てる」

「傷を見た」

「それも見ないで」

「わかった」

僕は川の向こうへ顔を向けた。

空はまだ灰色だった。雲の底に、朝の光が溜まり始めている。夜のあいだ黒かった川面は、少しだけ輪郭を取り戻していた。冷たい風が堤防を越え、首元へ入り込む。僕は制服の襟を立てた。

「……見ないでって言うの、疲れる?」

凛が聞いた。

僕はすぐには答えなかった。言葉を選ぼうとした。けれど、選びすぎるとまた遅れる。

「疲れると思う」

「正直だね」

「でも、見ないようにするのは、そんなに疲れない」

「どうして」

「凛がそう言ったから」

凛は紙片の角を揃える手を止めた。

「それだけ?」

「それだけでいいと思う」

「普通は、理由を聞くでしょう」

「聞きたいけど」

「聞きたいんだ」

「聞きたい。単語帳を破った理由も、何を考えていたのかも、いつから苦しかったのかも。でも、聞きたいからって、凛が今すぐ話す必要はない」

喉が乾いていた。缶コーヒーを飲もうとしたが、僕のものはすでにほとんど残っていなかった。苦味だけが舌に触れた。

「僕は、今まで相手の答えを待てなかった。模試の結果も、凛の手元も、表情も、勝手に見て、勝手に意味をつけてた。凛が黙っているなら、怒っている。手が止まれば、僕より遅れている。ページをめくるのが早ければ、僕より先にいる。そうやって、見えたものを全部、順位に変えてた」

凛は紙片を一枚、膝の中央へ置いた。

「それで、わかったつもりになった?」

「なってた」

「今も?」

「まだ、なる」

凛は顔を上げなかった。

「そういうところ、嫌いじゃない」

僕は一瞬、聞き間違えたと思った。

「……嫌いじゃない?」

「全部嫌いなら、こんなところまで来ない」

「来たのは、僕がついてきたからだろ」

「ついてきていいって言ったのは私」

「そうだった」

「そこは、ちゃんと覚えてるんだ」

「覚えてる」

凛は、紙片の上に置いた指をゆっくり引いた。

「私、単語帳を破ったとき、本当に全部捨てるつもりだった」

声はまだかすれていた。けれど、逃げるための言葉ではなかった。

「勉強も、明日の試験も、今までの時間も、全部どうでもいいってことにしたかった。そうすれば、できなかった自分を見なくて済むから。覚えられなかった単語も、眠れなかった夜も、先生に言われたことも、家で何も言われなかったことも、全部、単語帳と一緒に破れたことにしたかった」

風が吹いた。

凛の髪が頬へかかる。彼女は直そうとしたが、途中で手を止めた。紙片を押さえる指に力が入る。

「でも、破れた瞬間に、覚えている単語までなくなるわけじゃないってわかった。紙を破っても、頭の中には残ってる。嫌なことも、やったことも、明日が来ることも消えない。だから、余計に困った」

「……うん」

「壊せば終わると思ってたのに、終わらなかった」

「終わらないよな」

自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。

「僕も、凛に勝てば終わると思ってた。勝ったら安心できる。順位が出たら、自分がここにいていいって証明できる。けど、終わらなかった。勝っても次が来る。次で負けたら、今度は全部が崩れる。だからまた勉強する。勉強すればするほど、次に落ちる高さが高くなる」

凛は紙片を見つめていた。

「落ちるのが怖い?」

「怖い」

今度は、すぐに言えた。

「順位から落ちるのも、期待から落ちるのも、今いる場所から落ちるのも。凛に負けるのが怖いんじゃなくて、負けたあとに自分が何になるのか、わからないのが怖かった」

「私は、失敗したあとにどう見られるかが怖い」

「似てるな」

「似てるけど、同じじゃない」

「うん」

「私は、失敗したら自分の努力まで嘘になる気がする。できる人だと思われていたから、できない私を見せたら、今までの私が全部演技だったみたいになる。だから、単語帳を埋めた。ページを汚した。これだけやったと、自分に見せるために」

凛の指が、破れたページの断面に触れた。

「でも、最後には、それを見せられるほど自分がきれいじゃなくなった」

「きれい?」

「整っていないと、私は自分を許せない。字が乱れる。姿勢が崩れる。眠くて同じ単語を何度も間違える。そういうものを見つけるたびに、直した。直して、直して、直して……気づいたら、直すためのものが自分を追いかけてきた」

凛は息を止めた。

短い間のあと、吐き出す息が白くほどけた。

「だから、破った。努力をやめたかったんじゃない。努力をしている自分を、ずっと監視しているのをやめたかった」

僕は、何も言わずに紙袋へ手を伸ばした。

中には、封筒に入りきらなかった紙片が数枚残っている。凛が見落としたものではなく、僕が途中で拾ったまま、渡すタイミングを失っていたものだ。

封筒を開き、そのうちの一枚を取り出した。

青いインクの線と、途中で切れた文字。その下に、凛の字で小さく書かれている。

――もう一度。

僕は紙片を膝の上へ置いた。

「これ、入ってなかった」

凛が見る。

「……見たの?」

「文字は見た。勝手に読んだ」

「そう」

「ごめん」

「今度は、謝っていい」

「え?」

「今のは、謝っていい。私がまだ見せていないものを、勝手に見たから」

僕は紙片を見下ろした。

「でも、返す」

「何を」

「その言葉」

僕は紙片を凛へ差し出した。凛はすぐには受け取らなかった。指先が紙の上で止まり、僕の手と紙片を交互に見る。

「もう一度、って書いたのは、覚え直すためじゃない」

「じゃあ、何のため?」

「……わからない」

「また?」

「うん。まだ、うまく言えない」

凛は紙片を受け取った。彼女の指が僕の指先に触れた。冷たい。けれど、紙のざらつきとは違う、生きているものの冷たさだった。触れたのは一瞬で、凛はすぐに手を引いた。

「ただ、破ったあとに、もう一度だけ見てもいいと思った。全部をやり直すんじゃなくて、今日までの私を、最初から間違いだったことにしないために」

「それで、持ってきた」

「うん」

「捨てるつもりだったのに?」

「捨てきれなかった」

凛は紙片を封筒へ戻した。

「覚えた単語まで捨てたかったわけじゃない。できなかった私を捨てたかっただけ。でも、そんなふうに分けられなかった。努力と失敗と、できたこととできなかったことが、全部同じ紙に書いてあったから」

バス停の向こうで、鳥が一羽鳴いた。

朝の気配が、夜の静けさへ細い穴を開けていく。

僕は膝の上で両手を組んだ。以前なら、ここで何か正しいことを言おうとしていたと思う。「努力は無駄じゃない」とか、「明日は大丈夫」とか、「凛ならできる」とか。けれど、そのどれも彼女の時間を軽くするだけに思えた。

「僕は、凛なら壊れないと思ってた」

「壊れたよ」

「うん」

「なのに、驚いてる」

「驚いた。凛が壊れることじゃなくて、壊れたあとも凛が凛のままだったことに」

凛の目が、こちらへ向いた。

目が合った瞬間、互いの呼吸が一拍だけ止まった。けれど、今度はどちらもすぐに視線を逸らさなかった。

「どういう意味?」

「単語帳を破っても、覚えたものは消えなかった。凛がここまでやったことも、凛が怖がっていることも、破ったことでなくならなかった。壊れたのは凛じゃなくて、凛が自分を閉じ込めていた形のほうだったんじゃないかと思う」

「……それ、慰めてる?」

「違う」

「違うと言い切るんだ」

「慰めるなら、もっと簡単なことを言う。大丈夫とか、明日はできるとか。でも、僕は凛が大丈夫かどうか知らない。できるかどうかも知らない。ただ、単語帳が破れたことだけで、凛の今までが消えたわけじゃない。それは、たぶん本当だと思う」

凛は黙った。

白み始めた空の下で、彼女の手が封筒の角を撫でている。折れた角を戻そうとするのではなく、折れたままの形を指で確かめているようだった。

「悠真は、これからどうするの」

「何が」

「私を追うの?」

胸の奥に、古い癖が反応した。

追う。  追いつく。  追い越す。

いつもなら、その三つの言葉から次の予定を立てる。今日の勉強量、明日の試験、次の模試。けれど今は、どれも口にできなかった。

「追うと思う」

凛がわずかに眉を動かした。

「結局?」

「でも、前とは違う」

「何が違うの」

「凛より上に行くためじゃなくて、自分がやることをやるために追う。たぶん、まだ比べる。急には変わらない。でも、凛の順位を見ないと自分が消える、とは思わないようにしたい」

「できる?」

「わからない」

「また」

「うん。でも、わからないままでも、やってみる」

凛はしばらく僕を見ていた。

「それ、選んだことになるの?」

「たぶん」

「白石さんの真似?」

「少し」

凛の口元が、今度ははっきりと緩んだ。

大きな笑いではなかった。けれど、作った表情ではないことだけはわかった。僕はその笑いを点数にしなかった。何点の笑顔か、どれくらい回復したのか、そんなことを考えずに見ていられた。

バスの音が、遠くから近づいてきた。

低いエンジン音が、まだ薄暗い道路を揺らしている。凛は封筒を鞄へしまい、ファスナーを閉じた。閉めたあとも、鞄の表面へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。

「明日、持っていく」

「単語帳?」

「残りも、紙片も」

「使うのか」

「わからない。見るかもしれないし、見ないかもしれない」

「それでいいと思う」

「簡単に言うね」

「今度は、凛が決めたから」

バスが停留所へ入ってくる。白いヘッドライトが、始発前の空気を切り裂いた。ベンチの足元に落ちていた紙屑が、風に押されて転がっていく。

凛が立ち上がった。

僕も立つ。冷たいベンチから身体を離すと、腿に残った感覚だけが妙に鮮明だった。

凛はバスの扉へ向かいかけて、振り返った。

「悠真」

「何」

「今日、私のことを見たこと」

「うん」

「忘れないで」

僕は、返事の前に一拍置いた。

「忘れない」

「でも、何度も思い出して採点しないで」

「努力する」

「それ、私の言うことじゃない」

「そうだな」

凛は小さく息を吐いた。白い息が、朝の光の前でほどける。

「じゃあ、また学校で」

「うん。また」

凛はバスへ乗り込んだ。

窓際の席に座ると、鞄を膝へ置き、封筒の入ったあたりを一度だけ撫でた。その手が窓の下へ隠れる。発車のベルが鳴り、扉が閉まった。

バスが動き出す。

僕は手を上げなかった。凛も上げなかった。ただ、窓越しに目が合った。呼吸は止まらなかった。

バスが角を曲がり、赤い尾灯が見えなくなる。

僕は一人、始発前のバス停に残った。手の中の缶コーヒーはすっかり冷めていた。けれど、捨てようとは思わなかった。冷めたものを温かいと呼ぶつもりはない。ただ、冷めたあとにも、そこにあった温度を覚えていることはできる。

空が、少しずつ明るくなっていた。

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