6話 自動販売機の熱

自動販売機の前で、みなみが足を止めた。

校門脇の屋根は薄く、風を防ぐには頼りなかった。図書館を出てからまだ数分しか経っていないのに、指先は紙を拾ったときの感覚を失い、冷たさだけが残っている。吐いた息が白く浮かび、機械の明かりの前でほどけた。

自動販売機は、夜の中でだけ妙に明るかった。

白い光が、濡れてもいないアスファルトを照らしている。赤や青のボタン、商品の写真、釣り銭の表示。どれも昼間なら見過ごす程度のものなのに、周囲が暗いせいで、そこだけが別の場所みたいだった。

「凛ちゃん、温かいのにする?」

みなみが聞いた。

凛は答えなかった。鞄を両手で抱え、視線を自動販売機の表示へ向けている。さっき封筒へしまった紙片が、その中に入っている。破れた単語帳の一部。どんなふうに裂けたのか、どんな単語が途中で途切れているのか、僕はもう見ないと決めた。それなのに、鞄の輪郭だけで中身がわかるような気がした。

みなみは返事を待たず、硬貨を入れた。

ちゃりん、と音がした。

その音が、閉館した校舎からまだ続いている図書館の音より、人間の生活に近く聞こえた。みなみは温かいミルクティーのボタンを押し、それから自分の缶を取り出す。落下口から缶が転がり出る音がした。

「凛ちゃんのは?」

「いらない」

「いらない人は、だいたいあとで手が痛いって言うよ」

「言わない」

「じゃあ、言わない人用」

みなみはもう一枚硬貨を入れた。

凛は止めなかった。断るために手を伸ばすことも、受け取るために手を出すこともしなかった。ただ、自動販売機の白い光のなかで、両手を鞄から離せずにいる。

僕は商品欄を見た。

温かい缶コーヒー。隣に、温かいお茶。さらにその隣に、ミルクティー。どれを選べばいいのかは、すぐには決められなかった。値段も容量も同じだったが、そんなことは問題ではなかった。凛がどれを飲むのか、知っているようで知らない。

これまで僕は、彼女の単語帳の色やページ数は知っていた。模試で何点取ったかも、答案を返されたときどんな順番で名前を探すかも知っていた。けれど、彼女が寒いとき何を飲むのか、手を温めたいとき何を選ぶのかは知らなかった。

僕は温かい缶コーヒーを二本買った。

一つは自分のため。もう一つは、凛へ差し出すためだった。

缶が落ちる。

ごとん、と低い音がして、僕は取り出し口へ手を入れた。金属の縁が冷たかった。二本を掌に並べると、缶の熱が皮膚へ移ってくる。その熱は図書館で飲んだみなみの缶より少し強く、指のこわばりをゆっくりほどいていった。

僕は凛の前へ一本差し出した。

凛の視線が、缶から僕の顔へ上がった。

目が合うまでに、互いの呼吸が一拍止まった。

「……何」

「これ」

「見ればわかる」

「温かいから」

「それも見ればわかる」

「冷たいの、苦手だろ」

言ってしまってから、余計だったと思った。凛の指が、鞄の持ち手を握り直す。僕は缶を差し出したまま、引くこともできなかった。

「いつ知ったの」

「前に、みなみが冷たいお茶を買ったとき。凛、飲まなかったから」

「見てたんだ」

「……見てた」

「ずっと?」

「ずっとってほどじゃない」

「どのくらい?」

凛の声には、問い詰める調子がなかった。むしろ、僕がどう答えるかを確かめるための、薄い警戒があった。

「隣にいるときは、だいたい」

「それ、ずっとって言うんじゃない」

「そうかも」

凛は缶を見た。

「私のこと、そんなに見てたのに、何も言わなかった」

「言えなかった」

「どうして」

「何を言っても、勝ち負けに変わりそうだったから」

「もう変わってるよ」

凛の指が、ようやく缶へ伸びた。受け取る寸前で止まり、それから側面に触れる。冷えた指が熱を探るように、缶の表面をゆっくり包んだ。

「単語帳を破ったから、私が落ちると思った?」

その問いは小さかったが、逃げ場を残していなかった。

僕は自動販売機の明かりを見た。白い光の下では、凛の頬の赤みも、目の下の影も、隠しようがなかった。

「一瞬、思った」

「正直だね」

「すぐ嫌になった」

「何が」

「そう思った自分が」

凛は缶を両手で包んだ。まだ開けてはいない。温度を確かめるだけで、飲むところまでは進めない。

「嫌になるなら、最初から思わなければいいのに」

「そうできたらよかった」

「できないんだ」

「できない。僕は、何でも順位にするから。凛の単語帳が破れたことも、凛が今どれくらい困っているかも、僕が何を言えば正しいかも、全部」

「正しいかどうかまで順位にするの?」

「する。たぶん、会話にも点数をつけてる」

「だから返事が遅いんだ」

「……そうかもしれない」

みなみは少し離れたところで、ミルクティーの缶を開けた。ぷし、と小さな音がする。彼女はすぐに口をつけず、僕と凛の間へ視線だけを置いていた。

「ねえ、悠真」

「何」

「その缶、いつまで差し出してるの。腕、固まるよ」

僕はまだ自分の缶を持ったまま、凛へ差し出していたことに気づいた。

「悪い」

「また謝った」

「癖なんだ」

「謝るのが?」

「間違えたと思ったときに、先に謝れば済むと思ってる」

「済まないけどね」

みなみは缶を一口飲んだ。

「謝るのって、相手のためみたいで、実は自分が早く楽になりたいだけのときがあるから。もちろん本当に謝るときもあるけど、今の悠真は、凛ちゃんに許可をもらおうとしてる。『僕が心配してもいいですか』『僕がここにいてもいいですか』って」

胸の奥に、冷たいものが触れた。

「……そうなのか」

「知らないよ。私は悠真じゃないから。でも、顔はそう言ってる」

凛は缶を見つめたまま、低く言った。

「みなみは、そうやって勝手に人の顔を読む」

「読むけど、答えは書き込まないようにしてる」

「そんなこと、できる?」

「できない日もあるよ。だから、できるだけ」

「私は、できない」

「何が」

「人の顔を読んで、何も決めないこと」

凛はそこで短く息を止めた。いつもの癖だった。答えを口にする前に、呼吸を一度だけ閉じる。

「誰かが私を見ると、何を考えているのか気になる。期待しているのか、がっかりしているのか、もう見限ったのか。見られているだけで、先に答えを出さないといけない気がする。だから姿勢を正す。手を止めない。顔を変えない。相手が何も言っていなくても、私のほうで失望されない形に直す」

「……疲れるだろ」

「疲れるよ」

凛の返事は、あまりにも素早かった。

言ってから、彼女自身がその速さに気づいたように、目を伏せた。

「疲れる。でも、疲れたと言ったら、次は『そんなに頑張らなくていい』って言われる。頑張らなくていいと言われたら、今まで頑張っていた私が間違いだったみたいになる。だから、何も言わないほうがいい」

「それで単語帳を破ったのか」

僕の声は、思ったより低く出た。

凛はすぐに顔を上げた。視線がぶつかり、僕の喉が詰まる。

「まだ、理由を聞かないで」

「……ごめん」

「だから、謝らないで」

凛は缶を持ったまま、白い光の外へ一歩だけ移動した。自動販売機の明かりが頬から外れ、表情の半分が夜に沈む。

「理由を言ったら、たぶん、あなたたちは私を理解したことにする。『ああ、そうだったんだ』って。そうしたら、私はもう、それ以上説明しなくてよくなる。説明しなくてよくなる代わりに、ずっとその理由の人になる。期待が重かった人。疲れて壊れた人。かわいそうな人。そういう名前で固定されるのが嫌」

「僕は、固定しない」

「どうして言えるの」

「固定されたくないから」

凛は黙った。

みなみが缶を傾ける。甘い匂いが、冷たい夜気のなかでかすかに漂った。

僕は自分の缶のプルタブに指をかけた。開ける前に、凛の缶を見る。彼女はまだ飲んでいなかったが、缶の側面を包む指からは少しずつ力が抜けていた。

「僕も、固定されてると思ってた」

「何に」

「真面目で、成績がよくて、凛を追いかけてるやつ。そういうふうに見られていれば、何をしたらいいか迷わない。順位が出れば、次にやることが決まる。凛より上なら、そのまま続ければいい。下なら、もっとやればいい。簡単だった」

「簡単?」

「簡単に見えるだけだ。勝っても、安心するのは一晩くらいで、次の日にはまた不安になる。負けたら、全部が足りないと思う。寝る前に、今日の自分を採点する。勉強時間、解いた問題、覚えた単語。点数にできないものは、最初からなかったことにする」

「たとえば?」

「……食べたかどうかとか」

言葉にした瞬間、母の弁当袋が頭に浮かんだ。二重に包まれた布。甘すぎる卵焼き。結果は今度でいい、という声。

「帰る場所があるかどうかとか。誰かと話したかどうかとか。そういうものは、点数がつけられないから、勉強より下に置いてきた」

凛はようやく缶を開けた。

ふたが上がる、乾いた音。彼女はすぐには飲まず、缶の口から立つ匂いを確かめるように、ほんの少し顔を近づけた。それから一口だけ飲んだ。

「甘い」

「嫌だった?」

「そうじゃない」

凛はもう一口飲んだ。白い息と缶コーヒーの匂いが混ざる。

「甘いもの、久しぶりに飲んだ」

「いつも何を飲むんだ」

「お茶」

「温かい?」

「ぬるいの」

「それは温かいって言わないだろ」

「冷たくないから、十分」

みなみが吹き出した。大きな笑いではなかったが、肩が揺れた。

「凛ちゃん、そこだけ基準が低いんだ」

「みなみは、何でも大げさ」

「大げさじゃないよ。ぬるいと温かいは、けっこう違う」

「でも、熱いと飲めない」

「猫舌?」

「そういうわけじゃない。熱いものを持つと、熱いことに集中するから」

僕はその言葉を聞き、凛が缶を握る手元を見た。彼女は、温度を感じているあいだだけ、単語帳のことを考えずにいられるのかもしれない。そう思ったが、すぐにその考えを引っ込めた。僕はまた、彼女の内側を勝手に説明しようとしていた。

「僕も、ぬるいほうがいいかも」

「コーヒーは熱いほうが好きそう」

「前はそうだった」

「前は?」

「熱いものを持っていれば、手を動かせる気がした。勉強を続けられる気がした。でも、冷めても捨てられない。まだ飲めるから」

凛は僕を見た。

「それ、単語帳と同じだね」

目が合った。

今度は、呼吸が止まらなかった。

僕は自動販売機の横にある低い柵へ背を預けた。金属が制服越しに冷たい。凛は僕から少し離れた場所に立っている。みなみはさらに離れている。三人の間には、手を伸ばしても届かないほどではないが、勝手に縮めてはいけない距離があった。

「凛」

「何」

「破れた単語帳、どうする」

「わからない」

「明日の試験に持っていくのか」

「持っていく。たぶん」

「たぶんでいいのか」

「今日は、たぶんでしか決められない」

その言葉を聞いて、僕は白石さんの声を思い出した。たぶん、で十分な夜もあります。

あの人は、凛のために言ったわけではないのかもしれない。僕たちの事情を知らないまま、ただ置いた言葉だった。それでも、今になってその言葉が、冷えた夜のなかでゆっくり効いてくる。

みなみが缶を振った。中身はもう半分ほどしか残っていない。

「私、先に駅へ行くね」

凛がみなみを見る。

「ひとりで?」

「駅までなら、ひとりでも行けるよ。むしろ、三人で歩くと悠真がまた、私たちの歩幅を比較し始めるから」

「しない」

「する」

「……少しはするかもしれない」

「正直でよろしい」

みなみは笑った。けれど、その笑いのあと、僕へ視線を向けた。

「凛ちゃんを送るなら、送ればいい。でも、答えを聞くために隣を歩くのはやめなよ。聞きたいなら、聞きたいって言えばいい。心配なら、心配だって言えばいい。理由をつけて近づくと、相手も自分も苦しくなるから」

「そんな簡単に言えるかよ」

「簡単じゃないよ。だから、今すぐ言えとは言ってない」

みなみはそこで言葉を切った。ペンを回すときのように、缶を指先でゆっくり回す。

「ただ、悠真がずっと『何をすれば正解か』で立ってると、凛ちゃんまで採点されてるみたいになる。私はそれが嫌。凛ちゃんも、きっと嫌だと思う」

凛は否定しなかった。

みなみはそれを見て、駅の方向へ歩き出した。数歩進んだところで振り返る。

「缶、ちゃんと飲んでね。冷めたら気休めの合格点から落ちるから」

「そんな基準、まだ使ってるのか」

「基準は多いほうが人生、暇つぶしになるよ」

みなみは手を上げ、そのまま校門の外へ消えていった。

自動販売機の光の前に、凛と僕だけが残った。

僕は缶を開けた。

泡の立つ音が、誰もいない校門に大きく響いた。苦味が舌に触れ、少し遅れて甘さが来る。温度はまだ残っている。熱いわけではない。けれど、冷たい夜のなかで掌を預けるには十分だった。

凛は缶を両手で包んだまま、校舎のほうを見ていた。図書館の窓はもう暗い。赤い閲覧席も、白石さんの受付卓も、今は壁の向こうに閉じている。

「悠真」

「何」

「さっき、冷たいのが苦手だって言ったけど」

「うん」

「覚えてたんだね」

「……覚えてた」

「私が言った?」

「言ってない。飲まなかったから」

「それも、見てたんだ」

「隣だから」

反射的にそう答えてから、僕は違うと思った。

凛も気づいたらしく、少しだけ目を細めた。

「便利な言葉だね」

「うん」

「隣だから、見える。隣だから、気づく。隣だから、比べる」

「でも、隣だから、渡せるものもある」

言ってしまった。

凛の指が、缶の側面で止まる。

「それは、何」

「今は、これくらいしかない」

僕は缶を見た。

「温かい缶を一本渡すこと。破れた紙を勝手に直さないこと。見ないでと言われたら、見ないこと。それくらいしかできない」

「できないことのほうが多いね」

「多い」

「それでも、やるの」

「やる。できることがそれしかないなら」

凛は長いあいだ黙っていた。

冷気が首元から入り込み、制服の襟を立てたくなる。凛の髪が風に揺れ、頬にかかった。彼女は手を上げて直そうとしたが、途中でやめた。缶を持っているためか、ただ面倒だったのか、僕にはわからない。

「……少しだけ、歩く」

凛が言った。

「駅まで?」

「駅とは反対。河川敷のほう」

僕は返事をする前に、一拍置いた。

「わかった」

「今のは考えた?」

「考えた。けど、正解はわからない」

「それでいい」

凛は自動販売機の光から離れた。

僕も隣へ並ぶ。肩は触れない。手の甲も触れない。ただ、缶の温度だけが、それぞれの掌に残っている。

校門を出ると、街の明かりが途切れ、夜の冷たさがはっきりした。僕たちはまだ、互いのことを十分に知らない。破れた単語帳の理由も、凛が本当に望んでいることも、僕が明日どこへ向かいたいのかも、言葉になりきってはいない。

それでも、歩幅を合わせることはできた。

誰が先かを測らずに歩くのは、思っていたより難しい。けれど、難しいままでも、僕は凛の半歩後ろへ下がることも、先へ出ることもしなかった。

隣にいた。  ただ、それだけだった。

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自動販売機の熱 - 裂けた夜明け - 誰でも作家life