5話 見ないで

「見ないで」

凛は、もう一度そう言った。

声は小さかった。けれど、図書館の奥まで届いた。書架の高い背が音を吸い込んでくれると思っていたのに、言葉だけが白い蛍光灯の下へ取り残された。

僕は立ち止まった。

手の中には、さっき拾った紙片がある。青いインクの一部と、途中で切れた日本語。紙の端が指の腹へ食い込み、強く握っているわけでもないのに、そこだけが痛かった。

「……わかった」

やっとそれだけ言った。

凛は僕を見た。目が合うまでに、彼女の呼吸が一度だけ浅くなる。目の下には、いつもの図書館の白さでは隠しきれない影があった。泣いてはいない。泣くことさえ、最後まで許さないように見えた。

「わかったなら、来ないで」

「でも、紙が」

「いらない」

「単語帳も」

「いらない」

「明日、試験だろ」

「だから?」

凛の声に、初めて棘が混じった。

「だから、何。単語帳が破れたら受けられないの? 紙がなくなったら、覚えたことも全部なくなるの? そんな顔で見ないで。私が今、一番見たくない顔」

「どんな顔だよ」

「助ける方法を探している顔」

言葉が、思いのほか鋭く胸へ入った。

凛は裂けた単語帳を胸に抱いていた。表紙の端から、細い紙の繊維が飛び出している。いつもは机の角さえ乱れていると直す彼女が、それを隠そうともせずに立っていた。

「助けてほしいって言ってない」

「言ってないけど」

「言ってないなら、勝手に決めないで。私はかわいそうじゃない。失敗したわけでもない。今、単語帳を破っただけ。……それだけだから」

「それだけには見えない」

言った瞬間、しまったと思った。

凛の顔から、わずかに残っていた色が引いた。僕はまた、見えたものに名前をつけようとしている。崩れている。限界だ。かわいそうだ。どれも僕の側の言葉で、凛が自分で選んだ言葉ではない。

「悪い」

「謝らないで」

「でも」

「謝られると、私が間違えたみたいになる」

凛は単語帳を抱えたまま、一歩下がった。書架の背に肩が触れ、乾いた音がした。

「私は、ちゃんと勉強してきた。誰かにやらされていたわけじゃない。眠いのも、苦しいのも、知ってた。それでもやった。やると決めたから。なのに、最後の最後で破った。だから、見ないで。今の私を見て、これまでの全部を無駄にしないで」

「無駄になんか」

僕は言いかけて、止まった。

何が無駄にならないのか、僕には言えなかった。努力か、覚えた単語か、彼女がここまで耐えてきた時間か。簡単な励ましを口にすれば、凛の苦しさを上から蓋することになる。

みなみが、少し離れた場所で息を吐いた。

わざと大きめの音だった。

図書館の静けさに、空気の通り道をつくるような息だった。

「凛ちゃん」

凛は答えなかった。

「今の悠真、助ける方法を探してるっていうより、自分が何をすれば間違いじゃないか探してるだけだから。そこまで頼れる人じゃないよ」

「みなみ」

「ほんとのことじゃん」

「……」

「でも、凛ちゃんが見ないでって言ったのは聞こえてる。だから、悠真はそこから一歩も近づかない。紙も、今は拾わない。私が見張るから」

みなみは僕へ顔を向けた。

「ね」

僕はうなずいた。

うなずくしかなかった。

手の中の紙片を机の端へ置く。置くとき、紙を乱暴に扱わないように指を開いた。たったそれだけのことなのに、ひどく難しかった。僕は何かを守ろうとすると、いつも力を入れすぎる。机の上の参考書も、順位表のファイルも、言葉も。

力を入れれば、壊れないと思っていた。

実際には、力を入れたところから傷がつく。

凛はしばらく動かなかった。書架の陰から、僕の手元を見ている。視線を感じると、僕は反射的に顔を上げそうになったが、こらえた。見ないでと言われた相手を見るのは、返事を無視することと同じだ。

「……悠真は」

凛が言った。

声の調子は、少しだけ戻っていた。

「なに」

「私が壊れたら、嬉しい?」

質問の意味がすぐにはわからなかった。

「何で」

「だって、ずっと私を見てたから」

図書館のどこかで、暖房が低く唸った。窓の向こうでは風がガラスを撫でている。僕の耳には、その音のほうが凛の声よりはっきり聞こえた。

「見てた。……見てたけど」

「模試のたびに、私の点数を確認してた。答案が返ると、先に私の名前を探してた。私が一位なら、悠真は二位。悠真が一位なら、私が二位。そういうふうにしか、私を見てなかった」

「そうだな」

「否定しないんだ」

「できない」

返事を考える前に、言葉が出た。

「否定したら、また嘘になるから」

凛は黙った。

僕は、書架の木目を見つめた。近づかない代わりに、視線をどこへ置けばいいのかわからなかった。

「勝ちたかったんだと思う」

「思う?」

「ずっとそう言ってきたから。でも、今はよくわからない。凛に勝ったら安心できると思ってた。次の模試で上に行ければ、次の週は眠れると思ってた。けど、勝ったことがあっても、朝になればまた次の順位を考えてた」

「それは、私のせいじゃない」

「わかってる」

「じゃあ、どうして私を見るの」

「見ないと、自分がどこにいるかわからなかった」

言ったあとで、喉の奥が乾いた。こんなことを誰かに話したのは初めてだった。僕は自分の考えを、いつも頭の中で採点していた。正しいか、弱くないか、言っても笑われないか。けれど今は、採点する前に声になってしまった。

「凛が一位にいると、少なくとも僕は二位だってわかる。二位なら、まだここにいていい気がした。順位が出れば、先生も家の人も、僕が何者なのか決めてくれる。自分で考えなくて済む。凛に勝てば、僕は僕でいられると思ってた」

「勝てたら?」

「勝てても、次が怖かった」

「じゃあ、勝ちたいんじゃなくて」

「……落ちたくなかった」

その言葉を口にすると、胸の奥で何かが静かに沈んだ。

落ちる。順位から。期待から。今いる場所から。

僕はそれをずっと恐れていた。だから凛を追いかけた。彼女が前を走っている限り、自分の位置が測れた。測れるうちは、まだ消えずに済むと思っていた。

「私がいなくなったら、困るね」

凛の声がした。

「困る」

「ライバルがいなくなるから?」

僕はすぐには答えなかった。

凛がどんな顔をしているのか、見なくてもわかる気がした。こちらの返事を待ちながら、同時に、どんな答えが返ってきても傷つかないように姿勢を固めている。

「それだけじゃない」

「じゃあ、何」

「わからない」

「また、それ」

「わからないけど、凛がいなくなったら、僕はたぶん、今までみたいに勉強できない。だからって、凛に勉強していてほしいとも言えない。僕のために壊れないでくれ、なんて、そんなこと言える立場じゃない」

紙の擦れる音がした。

凛が単語帳の残りを抱え直したのだと思う。

「……そういうところ、ずるい」

「何が」

「勝手に正しいことを言うところ。自分は何もしてないみたいな顔をして、相手のことだけ考えたふりをする」

「ふりじゃない」

「じゃあ、何?」

凛の声が揺れた。

「本当に心配なら、もっと早く言えばよかったじゃない。私が何周も同じ単語帳をめくって、同じページに書き足して、最後には余白がなくなって、それでも新しい紙を挟んでいたのを見てたんでしょう。私の手が震えても、姿勢だけは崩さないのを見てたんでしょう。それなのに、今日まで一度も何も言わなかった」

僕は息を吸った。

冷たい空気が喉に入った。

「怖かったんだ」

「何が」

「声をかけて、負けたくなかった」

凛が黙った。

「凛が苦しそうに見えたら、僕のほうがまだ余裕があるみたいになる。僕が気づいている側で、凛が気づかれている側になる。それが嫌だった。たぶん、凛を心配するふりをして、自分が上に立つのが怖かったんだと思う」

言葉にしてみると、自分の浅ましさが輪郭を持った。見たくなかったものほど、紙の裂け目から覗いてくる。

「僕は、凛に勝ちたかった。けど、凛を壊したいわけじゃなかった。そんな都合のいいこと、両立しないよな」

「……しないと思う」

「そうだよな」

「でも、私も同じ」

凛の声が、少し遠くなった。書架の陰から一歩離れたのかもしれない。

「悠真に勝ちたかった。毎回、名前の順番を確認してた。悠真が二位なら、私は一位。悠真が一位なら、私は一問分だけ足りない。悔しかったし、負けたくなかった。だから、隣に座っているときも、どのページを開いているか見てた。知らない単語があれば覚えて、悠真より先に書けるようにした」

「……そうだったのか」

「気づいてなかった?」

「気づいてた。気づいてたけど、僕が見てるのと同じだと思ってた」

「同じじゃないよ」

「違う?」

「私は、悠真に勝てたら、少しだけ休めると思ってた」

その言葉のあと、長い沈黙が落ちた。

「一回勝てば、次は頑張らなくてもいいと思った。でも、勝ってもすぐ次の試験が来た。次の順位が出た。先生が『今回も期待している』と言った。家では何も言われなかったけど、何も言われないことのほうが重かった。できて当然なら、できないときに説明できないから」

凛の声は、淡々としていた。泣き言を言うために話しているのではない。自分の中へ押し込んでいたものを、順番に机へ並べているようだった。

「単語帳も、最初はただ覚えるために使ってた。忘れたら線を引いて、覚えたら丸をつけて、間違えたら書き直す。それだけだった。でも、いつからか、書き込みが増えるほど安心するようになった。こんなにやった、これだけ埋めた、ここまで汚した。そういうものがないと、私は何もしていない気がした」

「だから、破った?」

「だから、破った」

短い返事だった。

けれど、そのあとに続いた言葉は長かった。

「単語帳を見れば、まだ足りないところが見えた。覚えていない単語、書き直していない単語、線を引いていない余白。ページをめくるたびに、やっていないことが出てきた。最後のページまで行っても終わらない。終わったと思ったら、最初のページに戻って、また足りないところが見える。私が勉強しているのか、単語帳に勉強させられているのか、わからなくなった」

凛の声が、そこで初めて途切れた。

「今日、閉館の声が聞こえて、まだ覚えていない単語があると思った。明日までに全部覚えられない。なのに、やめたら、今までの時間までやめたことになる気がした。単語帳を閉じれば休めるのに、閉じたら負ける。だから……」

紙を握る音がした。

「一度、全部壊したくなった」

僕は目を閉じた。

白い図書館の光が消えて、紙の裂ける音だけが残った。あの音は努力を捨てる音ではなかった。努力に押しつぶされる前に、彼女が自分の手で境界を引いた音だった。

それでも、壊れたものは壊れたままだ。

僕はそう思った。思ったが、口にはしなかった。凛がすでに知っていることを、わざわざ言い直す必要はなかった。

みなみが、静かに言った。

「そろそろ本当に出ないと、白石さんが閉館後の見回りを二周することになるよ」

その声には、ほんの少しだけ普段の軽さが戻っていた。

僕は書架の向こうを見た。凛はまだこちらを見ない。けれど、先ほどほど遠くにはいなかった。

「凛、紙片は」

「……持っていく」

「わかった」

「直さない」

「うん」

「今は、直せない」

「うん」

「でも、なくしたくはない」

「じゃあ、封筒に入れる」

言ってから、僕は鞄の中を探った。母の弁当袋の下に、模試の受験票を入れていた白い封筒がある。封筒を取り出し、机の上へ置いた。

「これなら、紙が折れにくい」

凛はしばらく黙っていた。

「……見ないで入れて」

「わかった」

僕は紙片へ視線を落とさず、封筒の口だけを開いた。凛が近づいてくる気配がした。靴底が床を擦る音。制服の袖が机の角へ触れる音。彼女の手が、紙片を一枚ずつ拾う音。

僕は顔を上げなかった。

見ないことが、今の僕にできる唯一のことだった。

「これ、裏返し」

「ごめん」

「謝らなくていい」

「……うん」

「それも違う」

「何が」

「すぐ返事するところ。考えてないみたい」

「考えてる。考えすぎてる」

「知ってる」

凛の指が、封筒の中へ最後の紙片を滑らせた。

紙が擦れる音は、裂けたときとは違っていた。細く、乾いていて、それでもどこか落ち着いている。封筒の角を折り、凛はそれを自分の鞄へしまった。

「帰る」

「うん」

僕たちが歩き出すと、みなみが先に図書館の扉を開けた。冷気が一気に流れ込んできた。頬が痛み、指先に残っていた紙のざらつきが、急に遠いものになる。

受付卓の前で、白石さんが閉館札を手にしていた。僕たちを見て、視線を一度だけ凛の鞄へ落とす。それから何も聞かず、扉の鍵を確認した。

「忘れ物はありませんか」

白石さんが言った。

「……たぶん」

凛が答えた。

白石さんは、ほんの少しだけ首を傾けた。

「たぶん、で十分な夜もあります」

それ以上は言わなかった。

校舎の玄関を出ると、夜の冷気が頬を切った。吐いた息が白くほどけ、すぐに暗がりへ消える。校門前の街灯は、昼間よりずっと高いところにあるように見えた。

みなみが先に歩き、自動販売機の前で立ち止まる。

「凛ちゃん、温かいのにする?」

凛は答えなかった。

僕は自動販売機の明るい表示を見た。赤い閲覧席の白い光とは違う、安っぽくて、眠そうな明るさだった。缶の並ぶ音が、夜の中で乾いて響く。

凛はまだ、こちらを見ていない。

僕も、急いで見ようとはしなかった。彼女が「見ないで」と言った言葉を、今度は勝手に別の意味へ置き換えたくなかった。

ただ、彼女が歩き出すまで、僕はその場に残った。

紙片を入れた封筒の角が、凛の鞄の中で小さく折れている。

それだけを、僕は見ていた。

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見ないで - 裂けた夜明け - 誰でも作家life