4話 紙片のざらつき

弁当箱の蓋を閉じたあとも、卵焼きの甘い匂いが机の上に残っていた。

凛は単語帳へ視線を戻していたが、シャーペンは動いていなかった。みなみも何も言わず、机の上でペンを転がしている。白石さんだけが、受付卓の時計と、館内に残った生徒たちの様子を交互に見ていた。

時計の針が、閉館時刻へ近づいていく。

僕は問題集を開いたまま、同じ行の上に目を置いていた。文字は読めなかった。さっき凛が言った「こういうお弁当、あんまりない」という言葉が、紙の上に薄い影を落としていた。

何か返すべきだったのだと思う。

けれど、どんな言葉を選んでも、相手の家のことを覗き込むみたいになりそうだった。大丈夫か、と聞けば、簡単に大丈夫ではないと決めつけることになる。何があったの、と聞けば、聞く権利があるような顔をすることになる。

僕は人の沈黙を読むのが得意なつもりでいた。実際には、沈黙を読んだあとで、勝手に答えを書き込んでいただけだった。

凛のシャーペンが、紙の上へ落ちた。

小さな音だった。

彼女はすぐに拾おうとしたが、指先が机の上で止まった。シャーペンの軸に触れたまま、握ることができない。僕はそれを見た。みなみも見た。けれど、誰も手を伸ばさなかった。

凛は自分でシャーペンを拾い、机の端へきっちり置いた。

その動作だけは、いつもと同じだった。

姿勢を正し、机の角と単語帳の端を揃え、呼吸の乱れを見えないところへ押し込む。だが、単語帳を押さえている左手の指は、紙の上で小さく震えていた。震えを隠そうとするほど、指先が紙へ食い込んでいく。

僕は無意識に、彼女の単語帳の表紙を見た。

青い表紙は、何度も擦られて色が薄くなっている。背の部分には透明なテープが貼られ、角は潰れて丸い。ページの隙間から、青や黄色の蛍光ペンが見えている。僕なら、と考えた。僕なら、これだけ書き込んだものを捨てるなんてできない。努力の量が見えるものを、手放すなんて。

その瞬間、凛が単語帳を閉じた。

ぱたん、と乾いた音がした。

みなみのペンが止まる。

白石さんが、受付卓の時計を見る。

「閉館まで、あと五分です」

声はいつもより低かった。館内の空気に触れたまま、どこにも跳ね返らずに沈んでいく。

凛は返事をしなかった。

青い単語帳の表紙へ両手を置いている。指の関節が白くなっていた。彼女の視線は、表紙の中央に印刷された小さな英字へ向けられている。そこには、僕の位置からは読めないほど細い傷がいくつも走っていた。

僕は立ち上がりかけた。

理由はわからなかった。声をかけるつもりだったのか、弁当箱を片づけるつもりだったのか、それともただ凛の手元から目を逸らしたかったのか。

椅子の脚が、床を擦った。

その音に反応したのかもしれない。

凛は単語帳を開いた。最後のページだった。余白のない紙面に、青い線と黄色い線が重なり、隙間へ小さな文字が押し込まれている。ページの端には、何度もめくった指の脂が黒く残っていた。

凛の右手が、単語帳の中央を掴んだ。

僕は、何をするのか理解できなかった。

次の瞬間、紙が裂けた。

ぱき、と、細い木の枝を折るような音だった。

単語帳は一度では裂けなかった。凛は両手に力を込めたまま、紙の束の抵抗に耐えた。表紙のテープが伸び、糊の剥がれる音がした。彼女の肩がわずかに震える。けれど顔は上がらない。

もう一度、音がした。

今度は長く、低く、ページの束全体が悲鳴を上げるようだった。

青い単語帳が、細長い二つの塊に分かれた。

蛍光ペンの青と黄色が、空中でほどけた。紙片が机の下へ落ち、床の上で裏返り、白い光をばらばらに返した。

「真鍋……」

呼んだ声は、自分でも驚くほど弱かった。

凛は動かなかった。

裂けた単語帳を両手に持ったまま、ただ俯いている。顔は見えない。長い髪が頬の横へ落ち、表情を隠していた。けれど、制服の袖から出た手首が細かく震えていた。

僕は床へ膝をついた。

紙片を拾わなければと思った。そうしなければいけない気がした。何かをしないまま立っていることが、ひどく卑怯に思えた。

最初に触れた紙は、表面がざらついていた。蛍光ペンのインクが厚く重なり、指の腹に引っかかる。紙の縁は鋭く、爪の際を小さく刺した。

単語が途中で切れている。

英単語の前半だけが残った紙片。日本語の意味が二文字だけ見える紙片。凛の整った字が、裂け目によって唐突に失われている。

僕はそれらを一枚ずつ拾った。

拾うたびに、彼女がこれまで書いた時間へ触れている気がした。朝の電車の中で書いたのかもしれない。授業と授業の間に書いたのかもしれない。眠れない夜、机の明かりの下で、同じ単語を何度もなぞったのかもしれない。

その時間を、凛は自分の手で裂いた。

僕の中に、ひどく浅い考えが浮かんだ。

これで、凛はもう僕より上ではない。

単語帳を失くした。明日の試験で困る。集中も切れる。もしかしたら、僕が勝てる。

その考えは、浮かんだ瞬間に吐き気へ変わった。

僕は何を考えているのだろう。

凛が崩れたことを、勝敗の表へ書き込もうとしている。彼女の指から力が抜けた、その一瞬を、自分の順位に換算している。

紙片を握る手に、余計な力が入った。

「悠真」

みなみが呼んだ。

「なに」

返事をするまでに一拍かかった。

「それ、強く持つとまた破れるよ」

みなみの声は、軽くなかった。責めてもいなかった。ただ、僕の指先を見ていた。

僕は手の中の紙片を開いた。折れ目がつき、青い線が指の腹へ移っている。

「……わかってる」

「うん。わかってる顔じゃないけどね」

みなみは立ち上がり、僕のそばまで来た。けれど、肩には触れなかった。手を伸ばしかけて、途中で下ろしたように見えた。

「全部拾わなくていいよ」

「でも」

「全部拾って、元の形に戻せるわけじゃないから」

「だからって、放っておけないだろ」

「放っておくのと、今すぐ直そうとするのは違うよ」

僕は床を見た。

赤い閲覧席の下には、青い単語帳の紙片が散らばっている。青、黄色、緑。色だけ見れば、花びらのようにも見えた。けれど、どの片にも文字があり、文字があるせいで、ただの紙屑にはなれなかった。

「凛ちゃん」

みなみが声をかけた。

凛の肩が揺れた。

「今、拾われたくないなら、そう言っていいからね。拾ってほしいなら、それも言っていい。どっちでも、私たちは勝手に意味を決めないから」

凛は顔を上げなかった。

「……勝手に、って」

声が掠れていた。

みなみはすぐに答えなかった。凛の言葉が続くのを待っている。僕も息を止めたまま、床に膝をついていた。

「勝手に、かわいそうとか、限界だったとか、そういうことにしないで」

「しないよ」

「本当に?」

「本当に。私、そこまで親切じゃないもん」

みなみは少しだけ肩をすくめた。

「人が何か壊したときに、すぐ『かわいそうな人』にするの、あれ失礼だと思ってる。壊したくなるくらい追い詰められてたのかもしれないし、ただ腹が立っただけかもしれないし、本人にもまだわからないのかもしれない。こっちが先に名前をつけたら、その人はもう、自分で考える場所をなくすでしょ」

凛の指が、裂けた表紙の端を撫でた。

テープの剥がれた部分が、細く毛羽立っている。

「……みなみは、いつもそうやって、わかったみたいに言う」

「わかったみたいに言ってるんじゃなくて、わからないまま置いてるだけ」

「同じじゃない」

「違うよ。わからないのにわかった顔をするのと、わからないから触らないでおくのは、全然違う」

みなみの声が、少しだけ低くなった。

「私だって、凛ちゃんが何を考えてるかなんて知らない。悠真が何を怖がってるかも、全部は知らない。でも、知らないまま隣にいることはできる。答えを聞き出さなくても、ここにいる人がひとりにならないようにすることはできる。それくらいなら、私にもできるから」

凛は何も言わなかった。

僕は紙片を拾い続けた。

机の脚のそばに、細い紙が落ちている。青いインクで、単語の横に小さく「もう一度」と書かれていた。凛の字だった。整っている。けれど、その三文字だけが、ほかの文字より濃く見えた。

もう一度。

覚え直すという意味なのかもしれない。間違えたから、やり直すという意味なのかもしれない。

僕はその紙片を、ほかのものとは分けて机の端へ置いた。

「佐伯くん」

白石さんが呼んだ。

顔を上げると、白石さんが受付卓からこちらへ歩いてきていた。急いでいるようには見えなかった。いつものように動作がゆっくりで、けれど紙片の落ちた場所はすべて把握しているらしかった。

白石さんは僕の隣で屈み、床に手を伸ばした。拾った紙片を裏返し、文字の面を上にして、机の端へ揃える。

「白石さん、これ……」

「ええ」

それだけ言って、また一枚拾う。

「破れたままでも、覚えたものまで消えるわけではありません」

凛の手が止まった。

白石さんは彼女の顔を見なかった。紙片の角を揃え、机の上に置いた。

「ただ、今すぐ元に戻す必要もないでしょう」

「……そんなの、無責任じゃないですか」

凛の声が、初めて少し強くなった。

「明日、試験なんです。単語帳がなかったら困る。覚えたものが残ってるかどうかなんて、確認できなかったら意味がない。破れたものを置いておいて、それで大丈夫だって言うのは、簡単すぎます」

「大丈夫とは言っていません」

白石さんは静かに答えた。

「困るでしょう。明日は試験ですから。破れたものは使いにくい。紙片はなくなるかもしれない。そういう不便は、なくなりません」

凛は俯いたまま、裂けた単語帳を握っていた。

「では、直しましょうか」

「……え?」

「テープもあります。簡単な補修ならできます。ただ、元のようにはなりません」

白石さんは受付卓のほうへ視線を向けた。机の引き出しには、図書館の本を補修するための道具が入っているのだろう。

「元のように戻らないなら、意味がないです」

「そうですか」

「そうです。こんなふうにしてしまったら、もう……」

凛の声がそこで途切れた。

もう、何なのか。

僕には聞き取れなかった。もう使えない。もう終わり。もう自分ではない。いくつもの言葉が浮かび、どれも凛の口から出たものではないまま消えた。

白石さんは凛を急かさなかった。

「修理は、直すこととは少し違います」

「……」

「破れた場所を隠すのではなく、破れた場所がある状態で、使えるようにすることです」

その言葉を聞いたとき、僕は自分の赤いボールペンを思い出した。先週から使っている。軸には細いひびがあり、キャップの内側にもインクの跡がついている。それでも僕は、書けるうちは使うつもりでいた。

凛は、使えるものと使えないものを、いつも自分に厳しく決めていた。

「今夜、ここで決めなくてもいいですよ」

白石さんは続けた。

「持って帰るか、置いていくか。修理するか、そのままにするか。決めることが多い夜は、決めないことも選択です」

凛が顔を上げた。

蛍光灯の白さが、彼女の目の下の影をはっきり見せた。泣いてはいなかった。ただ、目の奥が乾いて赤くなっている。唇は固く結ばれ、顎には力が入り続けていた。

「……白石さんは、そういうことを言うんですね」

「言わないほうがいい時もあります」

「今は?」

「今は、聞かれたので」

凛は黙った。

白石さんはそれ以上何も言わず、紙片を拾い続けた。僕も手を動かした。みなみは少し離れた場所で、散らばった紙を見下ろしていた。誰も凛を囲まなかった。囲めば、逃げ道がなくなる気がしたからだ。

床にはまだ紙片が残っている。

机の奥、赤い椅子の脚の陰、凛の鞄の下。僕は腕を伸ばし、指先で一枚を引き寄せた。紙の角が指に当たる。ざらついたインクの上を、指先が滑らない。

その紙片には、英単語の一部と、凛の字で短い書き込みがあった。

――見られないこと。

意味の途中で裂けていて、それ以上は読めなかった。

僕はその紙片を見つめた。

凛が何を見られたくないのか、僕にはまだわからない。単語帳を破ったことか。震えた指か。泣いていない目か。あるいは、もっと前から誰にも見せずに積み上げてきたものか。

僕は紙片を裏返した。

その瞬間、凛が立ち上がった。

椅子の脚が床を引っかき、赤い布地が大きく揺れた。彼女は裂けた単語帳を胸に抱え、書架の間へ向かって歩き出す。

「真鍋」

また名前を呼んだ。

今度は、さっきより声が出た。

凛の足が止まった。

振り返らない。

僕は拾った紙片を机の上へ置き、立ち上がった。近づきたい気持ちと、近づいてはいけないという感覚が、胸の中で互いに引っ張り合っている。

みなみが僕のほうを見た。

その視線には、行けとも、やめろとも書かれていなかった。ただ、凛が選ぶ距離を越えるな、と言っているようだった。

僕は一歩だけ進んだ。

書架の間に、凛の背中がある。姿勢はまだ伸びている。けれど、肩の高さが左右でわずかに違っていた。

「真鍋、これ……」

僕は机の上の紙片を指した。

凛は振り返った。

目が合う。

呼吸が、一拍止まった。

その目に浮かんだものが怒りなのか、羞恥なのか、恐怖なのか、僕には判断できなかった。判断できないまま、彼女の視線だけが僕を拒んでいた。

「見ないで」

凛は、そう言った。

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紙片のざらつき - 裂けた夜明け - 誰でも作家life