第3話 家から届いた弁当袋

問題集の同じ段落を、僕は四度目読んでいた。
缶コーヒーの熱はもうほとんど手のひらから消えている。窓の外では風が出てきたのか、図書館の古いガラスがときおり小さく鳴った。凛はさっきから変わらず単語帳のページをめくり、みなみは少し離れた机で参考書の背表紙を撫でるようにいじっている。三人の間に流れる空気は、さっきより少しだけ柔らかくなっていたが、それでも僕は落ち着かなかった。
机の下で、鞄の中身が足に触れる。母が持たせてくれた弁当袋の輪郭が、布越しに硬く伝わってきた。
僕は鞄を引き寄せ、引き出しを開けるみたいに、そっと弁当袋を取り出した。
布はまだ、わずかに温かい。
母のやり方はいつも同じだった。夕方に作ったものを、出かける前にもう一度だけ温め直し、二重にした布巾で包んで持たせる。その手間のぶんだけ、袋を開けたときの温度が長持ちする。今夜も、袋の口を緩めた瞬間、味噌汁の匂いが立ちのぼった。出汁の匂いに、卵焼きの甘さと、炊きたてよりも少し落ち着いた米の匂いが混じっている。
台所の匂いだ、と思った。
うちの台所は狭くて、換気扇の音が少し大きい。母はそこに立って、ラジオを小さく流しながら、鍋の中身を混ぜている。僕が部屋にこもって机に向かっているあいだ、階下ではいつもそういう時間が流れていたはずだった。
弁当箱の蓋を開けると、卵焼きが一切れ多く入っていた。
これは、母のいつもの癖だった。何も言わない代わりに、こういうところで量を変える。多いときは「無理してるな」と思われている合図で、少ないときは「今日はそれでいい」と思われている合図だ。今夜は明らかに多い。母は、僕が今夜どんな顔をして家を出たかを、たぶん見ていた。
箸を割ろうとして、僕は手を止めた。
凛の横顔が視界の端にある。彼女はまだ単語帳に向かっていて、こちらを見てはいない。だが、弁当箱を開けた瞬間の匂いは、静かな図書館の中で思いのほか大きく広がってしまったようだった。凛のシャーペンの動きが、ほんの一拍だけ緩んだ気がした。
僕は、それに気づかないふりをして、卵焼きを一口食べた。
甘い。母の卵焼きはいつも少し甘すぎるくらいで、僕はそれを美味しいと思ったことも、子供っぽいと思ったこともある。今夜はどちらでもなく、ただ、喉の奥が変に締めつけられた。
—食べたか、と母は聞かない。
電話でも、玄関先でも、母は「勉強どう」とはあまり言わない。「ちゃんと食べてる?」「今日は何時に帰るの」「風邪ひかないでね」。そういう言葉ばかりを、あの人は積み重ねてきた。点数を聞かれたことは、実はそう多くない。聞かれるとすれば、それは僕が自分から話したときだけだった。
そのやさしさに、今夜の自分がどれほど不釣り合いか、僕は知っていた。
弁当箱の中身を半分ほど食べたところで、鞄の外ポケットに入れていたスマートフォンが、机の上で小さく振動した。
画面には「母」とだけ表示されている。
僕は一度、隣の凛を見た。彼女は反応しない。着信音を鳴らさない設定にしてあることを、僕は今更ながらありがたく思った。図書館の空気を壊さずに済む。
廊下側の非常口の近くまで移動して、僕は電話に出た。
「もしもし」
「ああ、悠真? 夜分にごめんね。今、大丈夫?」
母の声は、いつも通り低く、急がない調子だった。
「大丈夫。図書館」
「そう。晩ごはん、食べた?」
「今、食べてる」
「そう」
それだけだった。母は、そこから先を掘り下げようとはしない。僕はどこか身構えていた自分を、少しだけ持て余す。
「……模試、明日だから」
僕のほうから言ってしまった。何かを埋めなければいけない気がしたのだ。
「うん、知ってる」
「結果、また今度」
「いいよ、それは。ちゃんと帰ってくるのが先」
母の声には、変な力みがなかった。まるで、僕が言った「結果」という言葉自体を、そっと脇へ置いたみたいだった。
「今日は寒いから、あんまり遅くならないようにね。あと、卵焼き、多めに入れといたから」
「……知ってる。今、食べた」
「じゃあ、よかった」
電話の向こうで、微かに換気扇の音が聞こえた気がした。母はまだ台所に立っているのかもしれない。
「悠真」
「なに」

「無理はしないでね」
その一言に、僕は返事を探した。無理はしていない、と言いたかった。けれど、その言葉が本当かどうか、自分でもわからなかった。今夜だけでも、隣に座る凛の手元を何度盗み見て、彼女の書き込みの量を数えたか、僕は数えていない。数えていないふりをして、実際には数えている。
「……うん」
結局、それだけしか言えなかった。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
通話が切れる音は、思ったより静かだった。僕はスマートフォンをポケットに戻し、しばらく非常口の小さな窓から外を見た。校庭の街灯が、風にわずかに揺れている。
赤い閲覧席に戻ると、凛はまだ単語帳を開いていた。弁当箱は蓋を半分開けたままで、卵焼きの残りが二切れ、まだそこにあった。僕はそれを見て、なぜか急に気恥ずかしくなった。
みなみが顔を上げ、鼻を小さく動かした。
「なんか、いい匂いする」
「弁当」
「見せて」
言われるままに弁当箱をずらすと、みなみは覗き込んで、目を細めた。
「悠真のお母さん、料理上手だね」
「別に、普通だよ」
「普通って言うけど、その卵焼きの色、絶対手間かかってるやつだよ。うちなんて、朝コンビニでおにぎり買って終わりだもん」
「そうなのか」
「うち、母親いないから」
軽い口調だった。あまりに軽くて、僕は一瞬、聞き間違えたのかと思った。みなみはそのまま、話を継いだ。
「小さい頃に。だから、お弁当がどうこうって話、実はちょっと苦手」
「……ごめん」
「なんで謝るの。悠真が何かしたわけじゃないし」
みなみは笑って、缶コーヒーを一口飲んだ。
「ただ、たまに思うんだよね。悠真は、自分が恵まれてるってこと、あんまり自覚ないなって」
「恵まれてる、って」
「弁当作ってくれる人がいて、電話で心配してくれる人がいて、それでもまだ、順位のことばっかり気にしてる。私からすると、その余裕自体が、けっこう贅沢に見えるんだよね」
言葉には棘があったが、悪意は感じなかった。むしろ、それはみなみなりの、僕への一種の気遣いのようにも聞こえた。
「悪いって言ってるわけじゃないよ。ただ、順位が落ちたら全部終わるみたいな顔してるのが、ちょっともったいないなって」
僕は返事に詰まった。
凛が、そこで初めて顔を上げた。
「私も、似たようなこと思ってた」
凛の声は小さかったが、はっきりと届いた。
「悠真の家、たぶん温かいと思う。……その卵焼き見てたら、なんとなくわかる」
「……そんなの、見てわかるものか?」
「わかるよ。私の家、こういうお弁当、あんまりない」
その一言のあとに続く沈黙は、それまでの沈黙とは少し質が違って感じられた。凛は単語帳のページに視線を戻したが、指はもう動いていなかった。
僕は、進路指導室で渡された資料の束を思い出していた。安全圏、無難、妥当。あの部屋で並べられた言葉には、家庭の匂いも、母の声も含まれていなかった。数字だけが独り歩きしていた。
弁当箱の中の卵焼きを見つめながら、僕はふと、自分が向き合うべきものが、順位表の数字ではないかもしれないと、初めてぼんやり思った。
母は「結果は今度でいい」と言った。学校は「安全圏」を勧める。凛は「こういうお弁当、あんまりない」と言う。そのどれもが、僕の中でばらばらのまま、まだひとつの形になっていなかった。
僕は箸を置き、弁当箱の蓋をゆっくり閉じた。
まだ、家の温度は遠い。けれど、遠いままでいいわけではないことだけは、今夜、少しだけわかった気がした。
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