第2話 みなみの温い缶

僕が問題集の同じ行を三度目に読んだところで、図書館の入口の自動ドアが開いた。
冷気が細い帯になって入り込み、床を這ってきた。何人かの生徒が顔を上げたが、すぐに手元へ戻した。深夜図書館では、誰かが入ってきたことさえ、勉強の邪魔にならないように扱われる。
入ってきたのは藤沢みなみだった。
制服の上にくたびれたパーカーを羽織り、片手に缶コーヒーを持っている。髪を後ろでまとめ直したらしく、耳の横に短い毛が何本か跳ねていた。彼女は僕のいる赤い閲覧席まで歩いてくると、まず僕の眉間を見た。
それから、わざと少し大きく息をついた。
「その顔、今日の模試に出るの?」
「何が」
「眉間の皺。現代文の記述問題。『主人公の苦悩を四十字以内で説明せよ』」
「出ないだろ」
「断言したね。模試の出題傾向を読む男は違うわ」
みなみは僕の返事を待たず、缶を机の上に置いた。僕の手元へ、ラベルの白い缶が滑ってくる。
「飲んで」
「いらない」
「いらない人の顔じゃない」
「自分で買える」
「知ってる。佐伯くんは自販機の前でも、まず値段と容量と糖分を比較して、最終的に何も買わずに帰るタイプでしょ」
「そんなことしてない」
「してる。前に十五分見てた」
僕は缶を見下ろした。まだ温かい。湯気が立つほどではないけれど、冷えた指を包めば、手の甲の皮膚が少し緩みそうな温度だった。
「……いつ買ったんだよ」
「さっき。外の自販機で」
「おまえの分は」
「ある。こっちは私の。これは悠真の」
みなみは自分の缶を持ち上げ、プルタブを爪で弾いた。小さな金属音が、ページをめくる音の隙間に落ちた。
「自販機がさ、『そろそろ人間を温めないとまずい』って言ってたから」
「おまえが勝手に代弁してるだけだろ」
「機械の気持ちは機械にしかわからないよ」
僕は缶を手に取った。指先に熱が移ってくる。けれど、温かいものを持ったからといって、頭の中まで温まるわけではなかった。
隣では凛が、青い単語帳を開いたまま、こちらを見ないふりをしている。ページの端を押さえる左手の指が、蛍光灯の下で白くなっていた。
「赤い席、今日も予約制?」
みなみが凛の前を覗き込むように言った。
「なにが」
「佐伯・真鍋、無言の二名様限定席」
「そんなの、ない」
僕が言うと、みなみは眉を上げた。
「今作った」
「作るなよ」
「でも、ちゃんと定着してるじゃん。毎日ここにいるし」
凛は単語帳へ視線を落としたまま、シャーペンを動かした。芯が紙を擦る音がした。細く、途切れず、迷いのない音だった。
「凛ちゃん、今日も英語?」
「うん」
「何周目?」
「数えてない」
「出た。凛が『数えてない』って言うとき、だいたい四周目以上なんだよね」
「みなみは」
「私は一周目の途中で飽きるから、周回プレイには向いてない」
「受験をゲームにするな」
「ゲームのほうがセーブできるじゃん。受験はセーブポイントがないから、寝る前に毎回詰む」
凛のシャーペンが止まった。
ほんの一瞬だった。彼女はすぐに文字を書き足したが、今度は同じ単語の横を二度なぞった。僕はその動きを見ていた。見てしまってから、見ていたことを隠すように問題集へ目を落とした。
みなみは凛の異変に気づいたのか、気づかないふりをしたのか、何も言わなかった。彼女はそういうところがある。見つけたものを、すぐに拾い上げない。拾うべきか、そこに置いておくべきかを、相手の呼吸で決める。
僕は缶のプルタブを起こした。
金属が擦れ、炭酸でもないのに、開いた音がやけに大きく響く。コーヒーの苦い匂いが鼻へ上がった。ひと口飲むと、ぬるい甘さが喉に残った。
「悠真、今日の進路指導、行った?」
みなみが、声を少し落として聞いた。
「行った」
「また安全圏の話?」
「……まあ」
「その言葉、便利だよね」
みなみは缶を両手で包みながら、受付卓のほうを見た。白石さんは返却された本を一冊ずつ確認していた。背表紙を揃え、破れたカバーの端を撫で、机の隅に置かれた鉛筆を所定の場所へ戻している。こちらの会話を聞いているのかどうか、表情からはわからなかった。
「安全圏って、聞くたびに立入禁止区域みたいじゃない? そこから出たら危険、そこへ入れば安心。先生たちはそういう地図を持ってるけど、地図の外に何があるかは教えてくれない」
「でも、現実的な話だろ」
「現実的って、だいたい誰かが決めた『失敗しにくい』の言い換えじゃん」
「失敗しないほうがいいだろ」
「そりゃそうだけどさ」
みなみは缶の側面を親指でなぞった。ラベルの端が少し剥がれていて、爪がそこへ引っかかった。
「失敗しないことと、選びたいことって、同じじゃないよ。先生は判定を見て、『ここなら大丈夫』って言う。家の人は数字を見て、『そこなら安心』って言う。でも、そこへ行って朝起きられるかとか、四年後に何をしていたいかとか、そういう話になると、急にみんな黙るんだよね」
「おまえは、考えてるのか」
「なにを」
「行きたいところ」
聞いてから、僕は少し後悔した。みなみの志望校を知れば、きっと頭の中で偏差値と判定を並べる。僕は人の話を聞く前に、表を作る癖がある。
みなみは僕を見た。目が合うまでに、僕は一拍置いた。
「一応ね」
「どこ」
「言ったら、悠真の頭の中で順位表に追加される?」
「しない」
「するよ」
「しないって」
「する。学校名、判定、去年の合格最低点、佐伯くんとの差。ついでに、私がそこに受かった場合の佐伯くんの心情も採点する」
「そんなことまでしない」
「じゃあ、今ここで私の顔を見て、何点か言ってみて」
「何の点数だよ」
「ほら。もう採点の入口に立ってる」
みなみは笑った。軽い笑い方だったが、目元は動かなかった。
僕は缶を握り直した。温度が少しずつ逃げている。温かいものは、持っているだけではいつか冷める。そんな当たり前のことが、今夜は妙に腹立たしかった。
「……悪い」
「謝らなくていいよ」
「でも」
「謝ると、話が終わるから」

みなみはそう言って、ゆっくり息を吐いた。今度は冗談のためではなかった。
「私、悠真が嫌いだから言ってるんじゃない。むしろ、そういうふうにしか見られなくなってるのが嫌なんだよ。誰かの点数を聞いた瞬間に、自分が上か下かを考えて、安心したり落ち込んだりして、そのたびに『今日は何点の人間だった』みたいな顔をする。そんなの、毎日やってたら疲れるに決まってるじゃん」
「疲れてない」
「そう言うと思った」
「本当に、別に」
「うん。平気な人は、問題集を同じページで三十分開いたままにしない」
僕は問題集を閉じたくなった。けれど閉じれば、みなみの言葉を認めることになる気がした。
「みなみだって、怖いんだろ」
言葉が口から出たあと、図書館の空気が一段冷えたように感じた。
みなみはすぐには答えなかった。ペン回しをしていたときのように、缶を指先で回す。回りきらず、机の上で止まった。
「怖いよ」
あっさりした声だった。
「落ちたら嫌だし、受かったってそこでうまくやれるかわかんないし、そもそも本当に行きたいのか、今決めてるだけなのかも、たまにわからなくなる。だからって、ずっと怖い顔してたら、怖さのほうが私の生活になっちゃうでしょ」
彼女はそこで一度言葉を切った。
「私は、怖いままでも朝ごはんを食べたいし、眠い日は眠いって思いたい。受験のために生活してるんじゃなくて、生活の中に受験があるんだと思いたい。そうじゃないと、合格したあとに何をするのかまで、全部点数で決めそうだから」
返す言葉を頭の中で探した。みなみの言葉を否定するか、同意するか、もっともらしく受け止めるか。どの返事なら正解なのかを考えている自分に気づいて、喉の奥が詰まった。
凛がページをめくった。
紙の擦れる音が、白い光の下に長く残った。
「悠真は?」
みなみが聞いた。
「何が」
「どこに行きたいの」
「決まってる」
「へえ」
「第一志望」
「それ、名前じゃなくて順位だよ」
胸の奥を、細い針でつつかれたような気がした。
僕の志望校一覧には、大学名と偏差値と判定が並んでいる。通学時間も、学びたいことも、そこで見たい景色も書いていない。何度か書こうとしたことはある。けれど「やりたいこと」と書かれた欄に鉛筆を置くたび、幼く見える答えしか浮かばず、消しゴムで消した。
「……行けるところに行く」
「それも順位」
「現実を見てるだけだ」
「現実を見るのは大事。でも、現実だけ見てたら、行きたい場所が見えなくなるよ」
「じゃあ、みなみは見えてるのかよ」
少し強く言ってしまった。
みなみは怒らなかった。代わりに、眉間ではなく僕の手元を見た。缶を握る指に力が入り、爪の脇が白くなっている。
「見えてないよ。見えてないから、探してる」
その答えは、僕が予想していたものよりずっと弱く、ずっとまっすぐだった。
「でも、見えてないことを隠すために、他人の順位を見てるわけじゃない。そこは、悠真と違うかもしれない」
痛かった。けれど、言い返せなかった。
凛のシャーペンがまた紙を擦り始めた。文字は整っている。けれどさっきから、同じ行を何度も埋めているように見えた。彼女も聞いている。聞いているのに、こちらへ顔を向けない。
白石さんが受付卓の時計を見上げた。
閉館まで、あと四十分ほどだった。図書館の奥には、僕たち三人のほかに数人の生徒が残っている。誰も話さない。ページをめくる音と、鉛筆の芯が紙を削る音だけが、夜を細くつないでいた。
「まあ、今日はこれ以上採点しないでおこう」
みなみが言った。
「何を」
「全部。自分の顔も、凛ちゃんの勉強量も、私の進路も」
「おまえが始めたんだろ」
「始めたけど、終わらせる権利もある」
彼女は少しだけ笑った。
「それに、缶コーヒーが冷める前に飲んだほうがいい。温度にも合格最低点があるから」
「ないよ、そんなの」
「ある。手で持って、まだ温かいと思えるうちが合格」
「曖昧だな」
「受験生が一番嫌いなやつ」
僕は缶を口へ運んだ。苦味と甘さが舌に残った。さっきより確かに冷めている。それでも、何もないよりは温かかった。
みなみは自分の缶を飲みながら、凛のほうへ顔を向けた。
「凛ちゃん」
凛の指が止まった。
「なに」
「その単語帳、表紙の角、もう限界じゃない?」
「まだ使える」
「そう言うと思った。凛ちゃん、物にも自分にも同じこと言うよね。まだ使える、まだいける、まだ壊れてない」
凛は返事をしなかった。
みなみは続けなかった。代わりに、缶の底を机へ置いた。音を立てないように、ゆっくりと。
その沈黙のあいだ、僕は青い単語帳を見た。蛍光ペンで塗られたページの端は、何度も指でなぞられたせいで毛羽立っている。青い線の下には、小さな文字が隙間なく並んでいた。覚えた単語を書き足し、忘れた単語を塗り直し、間違えた跡を消して、また書いた跡。そこには、凛がここまで来た時間が押し込まれていた。
それなのに僕は、そこに積み重なった努力ではなく、僕より何歩先にいるかばかりを見ていた。
「悠真」
凛が、単語帳から目を上げずに言った。
「なに」
「缶、ありがとう」
僕は返事をする前に、また一拍置いた。
「……みなみが買ったやつだけど」
「そういうところ」
凛の声に、ほんの少しだけ笑いが混じった。
みなみが僕を見て、肩をすくめる。
「今のは減点? それとも加点?」
「採点しないんだろ」
「覚えてたんだ」
僕は答えなかった。
図書館の暖房が、遠くで低く唸っていた。窓ガラスの向こうには、黒い校庭がある。冷気は窓の隙間から少しずつ入り込み、缶の温度を奪い、指先を冷やしていく。
それでも、さっきまでより息がしやすかった。
みなみは僕の隣の赤い閲覧席には座らず、少し離れた机にいる。凛は僕の隣で、青い単語帳を開いている。三人の距離は変わっていない。それなのに、静寂の形だけが変わったように感じた。
誰かの鉛筆が床に落ちた。
白石さんが立ち上がり、拾って、その生徒の机へそっと戻した。何も言わない。生徒も頭を下げただけだった。
僕は問題集へ目を戻した。先ほどから止まっていた長文を、今度は最初から読み直す。意味がすぐに頭へ入ってきたわけではない。知らない単語もある。凛が知っているかどうかも、気になった。
けれど、気になったままでも読めることに気づいた。
缶コーヒーの温度が、手のひらからゆっくり消えていく。僕はその残った熱を確かめるように、もう一度だけ缶を握った。
みなみのプルタブが、暗い館内で小さく鳴った。
その音は、順位表の数字よりずっと人間らしかった。
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