1話 赤い閲覧席のはじまり

受験前夜の県立西ヶ丘高校は、昼の喧騒を脱ぎ捨てたみたいに静かだった。

三年生フロアの蛍光灯は、まだいくつか点いている。白い光が廊下の床に細長く伸び、その帯の上を歩くたび、靴底の音が遅れて返ってきた。教室のいくつかには人影があったが、話し声はほとんど聞こえない。誰もが明日の試験を考えているのか、それとも考えないようにしているのか、僕には区別がつかなかった。

ただ、掲示板の前を通り過ぎるときだけ、足が勝手に止まりそうになった。

先週返された模試の成績表が、まだ画鋲で留められている。校内順位、県内順位、偏差値、志望校判定。数字は紙に印刷されたものより、ずっと重かった。僕は見ないふりをして歩いたが、頭の中ではすでに表の上段から順番に名前をなぞっていた。

真鍋凛。  僕。  その下に、何人か。

今回は二位だった。

前回は三位で、その前は二位。そのさらに前は、凛と同点だった。たった一問の差で順位が変わり、順位が変わるたびに、教室の空気もわずかに変わった。先生の声、友達の目線、廊下ですれ違うときの挨拶。誰も露骨には言わない。それでも数字の上下は、人間の扱われ方に薄い影を落とす。

僕はその影から逃げるために、凛を追っていた。

いや、追っていると思っていた。

図書館の扉を開けると、暖房の乾いた空気に紙の匂いが混じっていた。試験前夜だけ延長される深夜図書館には、まだ十人ほどの生徒が残っている。自習机の上に置かれた蛍光灯だけが点いていて、天井の照明は落とされていた。

ページをめくる音が、誰かの咳より大きく響いた。鉛筆の芯が紙を擦る音も、ひどく近くに聞こえる。

僕は入口で一度立ち止まり、図書館の奥を見た。

赤い閲覧席に、凛がいた。

窓際から少し離れた、古い革張りの椅子が二脚並んだ席だ。赤い布地はところどころ擦れて白くなり、机の角には、長いあいだ誰かの手が触れてきた跡が黒く残っている。僕がそこを使い始めたのは、三年になってすぐの頃だった。凛がすでに座っていたから、隣に座った。それだけのことだった。

けれど、次の日も、その次の日も、僕たちは同じ席に座った。

向かいではなく、隣に。

理由を尋ねたことはない。尋ねる必要もなかった。学校では、凛の隣に座ることが一種の宣戦布告のように受け取られていたし、僕自身も、それを訂正しようとは思わなかった。

凛は青い単語帳を開いていた。

表紙の角は丸く潰れ、背の部分には透明なテープが何重にも貼られている。ページの端は手垢で灰色になり、蛍光ペンの青、黄色、緑が幾層にも重なっていた。余白はほとんど残っていない。それでも凛は、細いシャーペンで単語の横に新しい書き込みを足していた。

文字は、いつ見ても整っていた。

同じ大きさ。同じ傾き。同じ間隔。

凛の字には、迷った跡がない。僕のノートには、消しゴムの跡や書き直しの線がいくつも残るのに、彼女の単語帳は最初から最後まで、誰かに見せるために作られた見本みたいだった。

僕は赤い閲覧席まで歩き、凛の隣の椅子を引いた。

椅子の脚が床を擦った。

凛の手が止まった。

ほんの一瞬だった。彼女はすぐに何事もなかったように、ページの端を指で押さえ、また書き始めた。

「遅かったね」

凛が言った。

声は小さく、抑揚がなかった。

「そうでもないだろ」

「いつもより三分」

「時計、見てたのか」

「見てない。席が空いてた時間を覚えてただけ」

そう言って、凛は単語帳から顔を上げなかった。

僕は鞄を机の脇に置き、参考書とノートを取り出した。シャーペン、赤いボールペン、消しゴムの順に並べる。消しゴムの角が少し欠けているのが気になり、向きを変えた。凛の机の上には、シャーペンと青い単語帳、それから小さく折り畳まれた付箋しかなかった。

余計なものがない。

それだけで、また先に負けているような気がした。

僕は英語長文の問題集を開いた。ページの上部に印刷された文章が、意味を持たない黒い筋に見える。目で追っているはずなのに、頭の中では別の数字が動いていた。

凛との差。  次の模試までの日数。  志望校の合格最低点。  今の自分に足りない点数。

問題文の中に出てきた単語が、凛の単語帳に書かれているかどうかまで気になった。彼女がもう覚えているなら、僕は遅れている。彼女が知らない単語なら、今度は僕が先にいる。

勉強をしているのか、凛の手元を採点しているのか、わからなくなった。

「悠真」

不意に、凛が呼んだ。

僕は返事をする前に、彼女の顔を見た。凛は単語帳を閉じず、指でページの端を押さえたまま、こちらを見ている。目が合った瞬間、互いの呼吸が一拍だけ止まった。

「なに」

「その赤ペン、また新しいのにした?」

僕は手元を見た。赤いボールペンは、先週から使っているものだった。

「同じだよ」

「そう」

「なんで」

「別に。インクの出方が違ったから」

「よく見てるな」

「隣だから」

それだけ言うと、凛は視線を戻した。

その一言が、妙に残った。

隣だから。

それは僕たちの関係を説明するには、あまりに短く、何も説明していなかった。隣にいるから目に入る。目に入るから気づく。気づくから、勝手に比べる。僕はそういうものだと思っていた。

受付卓の向こうで、白石さんが返却された本を一冊ずつ確認していた。五十代半ばの、いつも声を落として話す司書だ。図書館の本棚や椅子の位置が少しでも乱れていると、誰に頼まれたわけでもなく整える。今も本の角を指先で撫でてから、背表紙を揃えて棚へ戻している。

古い時計の秒針が、一定の間隔で音を立てていた。

「今日は、ずいぶん残っているね」

白石さんが、受付卓からこちらを見ずに言った。

「明日が試験ですから」

僕が答えると、白石さんは本を棚に差し込んだ。

「明日が試験ではない日も、みなさん勉強していますけどね」

「明日は、入試前最後の模試なので」

「そうでしたか」

白石さんはそこで言葉を切った。何か続けるのかと思ったが、続けなかった。その代わり、受付卓の上に置かれていた鉛筆を一本、削りかすの入った小箱へ移した。

僕はその沈黙が苦手だった。

大人なら、もっと簡単なことを言ってくれればいいのにと思う。「頑張って」「大丈夫」「今まで通りやればいい」。そういう言葉なら、聞いた瞬間に意味を決められる。励まされたことにして、また机へ戻れる。

けれど白石さんは、そういう言葉をほとんど使わなかった。

しばらくして、図書館の入口から藤沢みなみが入ってきた。くたびれたパーカーを制服の上に羽織り、片手に缶コーヒーを持っている。彼女は僕の顔を見るなり、眉間に指を向けた。

「その皺、今日の範囲に入ってた?」

「何の話だよ」

「現代文。『眉間に刻まれた苦悩』。たぶん明日出る」

「出ない」

「じゃあ、模試の出題傾向を読むのが得意な佐伯くんに聞きたいんだけど、今の自分の顔は何点?」

「……」

「はい、採点不能。記述問題で一番困るやつ」

みなみは僕の返事を待たず、缶を机の上に置いた。僕のものだった。まだ温度が残っていて、缶の表面が掌に馴染みそうだった。

「飲んで。自販機が『そろそろ人間を温めないとまずい』って言ってた」

「おまえが買ったんだろ」

「自販機の意思を代弁しただけ」

僕は缶を手に取った。ぬるい熱が手の甲へじわりと移る。みなみはそれを確認すると、凛の隣の席ではなく、少し離れた机に鞄を置いた。

「ここ、座らないのか」

「赤い席は予約制でしょ。佐伯・真鍋、無言の二名様限定」

「そんな制度はない」

「あるよ。私が今作った」

みなみは椅子に座り、ペンを指先で回し始めた。僕は缶のプルタブに触れたまま、凛の横顔を見た。彼女はみなみの言葉を聞いているはずなのに、表情を変えなかった。ただ、単語帳を押さえている左手の指が、さっきより強く紙へ食い込んでいた。

「凛、今日も英語?」

みなみが聞いた。

「うん」

「それ、何周目?」

「数えてない」

「凛が数えてないって言うとき、だいたい四周目以上なんだよね」

「みなみは数えてるの」

「私は一周目の途中で飽きるから、周回プレイには向いてない」

「受験をゲームにするな」

「ゲームのほうがセーブできるじゃん」

みなみは笑った。声は大きくなかった。張り詰めた図書館の空気に、薄い亀裂を入れる程度の笑い方だった。

凛の口元が、ごくわずかに動いた。

笑ったのかもしれない。あるいは、息を吐いただけかもしれない。

僕には判断できなかった。

缶コーヒーを開けると、金属の音が静かな館内に響いた。苦い匂いが鼻へ上がり、僕は一口飲んだ。ぬるさの奥に、砂糖の甘さが残った。

「悠真、今日の進路指導、行った?」

みなみが言った。

「行った」

「また安全圏の話?」

「……まあ」

「安全圏って、聞くたびに立入禁止区域みたいだよね」

「そういう言い方するなよ」

「だって先生、そこに入れば大丈夫って顔するじゃん。でも実際は、入ったあと何をしたいかまで聞いてくれない」

みなみはペンを回す手を止めた。

「私はさ、学校を選ぶときくらい、自分が朝起きられる場所かどうかで決めてもいいと思うんだよね。偏差値とか判定とか、もちろん大事だけど、それだけで四年間過ごすわけじゃないでしょ。駅から遠いとか、学食が混んでるとか、図書館が広いとか、そういうくだらない理由だって、毎日の中では案外大きいし」

僕は答えようとして、やめた。

僕の志望校一覧には、大学名と偏差値と判定しか書かれていない。学びたいことを書いた欄は、何度も作っては消して、結局空白のままだった。

「おまえは、決まってるのか」

「なにが?」

「行きたいところ」

「一応ね」

「どこ」

「言ったら順位表に追加される?」

「しない」

「でも、頭の中ではするでしょ。私の志望校、判定、佐伯くんとの差。そういうの、勝手に表にして」

みなみは笑っていたが、目は笑っていなかった。

僕は缶を握った。熱はもう、少しずつ手から逃げていた。

「……悪い」

「謝らなくていいよ。そういう顔してるだけだから」

「どんな顔だよ」

「自分のことまで模試にしてる顔」

言い返せなかった。

凛が単語帳のページをめくった。紙の擦れる音が、みなみの言葉のあとに長く残った。ページには、青い線の下に小さな文字がびっしり並んでいる。彼女の指先が、単語の一つをなぞった。いつもなら迷いのない動きなのに、その指が途中で止まった。

凛はすぐに姿勢を正した。

背中を伸ばし、肩を引き、何もなかったようにシャーペンを持ち直す。

僕は、そのわずかな乱れを見なかったことにできなかった。

ただ、何を言えばいいのかはわからなかった。

白石さんが受付卓の時計を見上げた。閉館まで、あと一時間を切っている。館内の蛍光灯は白く、凛の青い単語帳を照らしていた。あれほど書き込まれたページなのに、まだ足りないものがあるように見えた。

僕は問題集へ視線を戻した。

文章の中に、知らない単語が一つ出てきた。意味を推測しようとして、隣の単語帳を見た。凛の指が、その単語のすぐ脇に置かれている。

やっぱり、知っている。

胸の奥が狭くなった。ここに座っているだけで、自分が何位なのか、彼女より何歩遅れているのか、数えずにはいられない。

それでも僕は席を立たなかった。

赤い椅子の擦れた布地が、制服越しに腿へ触れていた。凛のシャーペンが紙を擦る音と、僕の鉛筆の音が、同じ机の上で重なっていく。

隣にいる理由は、まだわからない。

ただ、その夜、僕は初めて、凛のページをめくる音を順位に換算せずに聞こうとした。

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赤い閲覧席のはじまり - 裂けた夜明け - 誰でも作家life