第9話 港町の時刻

旧印刷所は、商店街の外れ、港へ続く坂道の途中にあった。
シャッターには「三宅印刷」という文字が、色褪せた赤で残っている。三宅修司は先に立って鍵を開け、私を中へ招き入れた。
戸を押した瞬間、油の匂いが押し寄せてきた。潮の匂いとは違う、金属と機械油が混じり合った重たい匂いだった。その奥に、紙とインクの匂いが薄く沈んでいる。桜庭書房の紙の匂いとも、みどり文具店の匂いとも違う。ここには、紙が「作られる」場所の匂いがあった。
「電気、点かないとこもあるから、足元気をつけてくれ」
修司はそう言って、壁のスイッチを押した。天井の裸電球がいくつか灯ったが、奥の方は暗いままだった。作業場には大きな印刷機が二台、埃をかぶって鎮座している。歯車の隙間に、長年動かされなかった機械特有の、静かな錆の気配があった。
私はその沈黙に、妙な既視感を覚えた。桜庭書房の旧倉庫と似ている。物が動かなくなった場所には、共通する空気があるのかもしれない。
「これ、まだ動くんですか」
「動くよ。動かねえと思われてるだけで、油を差せば、大抵のもんは動く」
修司は機械の背面に手を置いた。掌全体で、金属の表面を撫でるように触れる。その手つきは、荒っぽい口調とは裏腹に、ひどく丁寧だった。
「あんたが探してるのは、これだろ」
修司は棚の奥から、古い搬出記録の綴りを引き出した。表紙は黄ばみ、綴じ紐がほつれかけている。彼はそれを作業台に置き、紙束の角を指先で揃えた。無意識の癖なのだろう、その仕草は立花せいのものとよく似ていた。紙を扱う人間は、みな同じ場所に手が伸びるのかもしれない。
「『潮騒の輪郭』の搬出、ここに残ってますか」
「残ってるも何も、うちが刷った本だ。忘れるわけがない」
修司はページをめくった。指先が止まった箇所を、私は覗き込んだ。
日付と冊数が並んでいる。六月三日、二冊。六月六日、三冊。六月十一日、五冊。六月十八日、四冊。
帳簿にあった数字と、寸分違わず一致していた。
「同じ日に、同じ冊数」
「当たり前だろ。搬出した数と、届いた数が違ったら、こっちの商売が終わる」
「でも、なぜ小分けにしたんですか。百冊を一度に刷って、一度に納めた方が、手間はかからないはずです」
修司は舌打ちをひとつ、こぼした。それは苛立ちというより、答えるのをためらう者の癖のように聞こえた。彼は工具箱の中からドライバーを取り出し、意味もなく先端を親指で確かめた。
「みちるさんに、そう頼まれたんだよ」
「理由は聞きましたか」
「聞かねえよ。あの人が、理由を言う人だったら、こんな面倒なことにはなってねえ」
修司はドライバーを工具箱へ戻し、印刷機の背面をもう一度撫でた。
「ただ、頼み方が変だった。日にちを指定してきた。この日にこれだけ、この日にこれだけ、ってな。俺は職人だ。刷るのも運ぶのも仕事だが、日にちまで指図されたのは、後にも先にもあの一件だけだ」
「その日にちに、意味があったんでしょうか」
「意味なんて、俺にわかるわけねえだろ」
そう言った直後、修司は自分の言葉を打ち消すように、首を横に振った。
「いや――わかっちまったから、こうしてあんたをここへ入れてるんだよ」
私は港町の時刻表を作業台へ広げた。片山から借りたものだ。潮の満ち引き、貨物船の入港、商店街の各店が開く時刻。古い印刷の薄れた数字の上に、修司の搬出記録を重ねる。
六月六日。搬出は午後三時。港の第三岸壁への荷下ろしが終わるのが、午後四時十七分。
「これは、荷の便に本を乗せていたんですか」
「乗せてねえよ。本は本で、俺が自転車で運んだ。だが港の便が動く時間には、必ず合わせてた」
「なぜ合わせる必要があったんです」
「合わせたかったんじゃねえ。合わせろって言われたんだ」
「誰に」
修司はそこで、初めて手を止めた。作業台に両手をつき、俯いたまま、しばらく黙っていた。裸電球が一度、瞬いた。天井の暗がりで、機械の影がわずかに揺れる。
「高瀬だよ」
その名前が、狭い作業場の空気を変えた。
「高瀬さんが、搬出時刻を指定したんですか」
「指定っつうか……段取りをつけてくれた。港の便がいつ着くか、荷が空くのが何時か、そういうのは奴の方が詳しい。俺はただ、言われた時間に届ければよかった」
「桜庭さんが決めた日にちに、高瀬さんが決めた時刻を合わせた」
「そうなる」
修司はようやく顔を上げた。その目には、長く抱えてきた重さが、ようやく形を持ち始めたような色があった。
「あんた、知ってるか。あの日――六月六日ってのは、な」
言葉が途切れた。
「あの人が消えた日ですか」
私が先に言うと、修司は喉の奥で低く唸った。肯定とも、否定を拒む音ともつかなかった。
「事故ってことになってる。港の岸壁で足を滑らせた、ってな。だが俺は、その時間、本を運んでた。港の方じゃねえ、商店街の方をな。届け先まで自転車を漕いでる途中で、見たんだよ」
「何を、見たんですか」
修司は工具箱の蓋を、意味もなく開けたり閉めたりした。指先が落ち着かない。器用な手が、行き場を失って迷っているように見えた。
「顔じゃねえ。背中だけだ。誰かが、誰かの肩を支えて、路地の奥へ入っていくのを見た。夕方の光がきつくて、逆光になってた。だから顔まではわからねえ」
「その背中の一方が、高瀬さんだったんですか」
「わからねえって言ってるだろ」
修司の声が、初めて荒くなった。だがそれは怒りではなく、自分自身に向けられた苛立ちのように聞こえた。彼は工具箱を強く閉じ、金属の音を作業場に響かせた。
「わからねえのに、俺は口を噤んだ。みちるさんに本を届けろと言われて、届けた。高瀬に時間を合わせろと言われて、合わせた。それだけだ。それだけのはずだった」
「それだけじゃなかったんですね」
修司は答えなかった。代わりに、印刷機の歯車へ視線を落とした。長い沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。声は低く、乾いていた。
「本より先に、人の顔が動いてた。あの日はそういう日だった」
その言い方には、説明の体裁がなかった。見てしまった者だけが持つ、言葉にする前からすでに固まっている重さがあった。私はその重さを、聞き返す形で崩したくなかった。
私は港町の時刻表の上に、指を置いた。港の便の時刻、商店街の開店から閉店までの流れ、印刷所の搬出記録。それらを線でつなぐと、六月六日の午後という時間の中に、いくつもの人の動きが重なって見えてきた。
港で誰かが荷を下ろす。
その同じ時間、商店街の裏路地を、支え合う二つの人影が歩く。
そしてその夕方、印刷所から書店へ、本が運ばれる。
折り目は、偶然についたものではなかった。
港から書店へ。書店から住民へ。本は、単に配られたのではない。あの日、あの時刻、あの場所を通った人間の動線に沿って、意図的に置かれていた。誰が、いつ、どこにいたか。それを本人にすら気づかせないまま、静かに縫い留めるために。
「みちるさんは」
私は声を絞り出した。
「あなたが見たものを、知っていたんでしょうか」
「知ってたさ」
修司は即答した。
「知ってたから、俺に本を運ばせた。俺が何を見たか、みちるさんは聞かなかった。だが、俺が見た時間に、俺の足で本を届けさせた。それがどういう意味か、あんたにはわかるか」
「私の証言を、本の動きの中に閉じ込めた」
「そうだ。俺が喋らなくても、本の折り目が、俺の代わりに何かを覚えてる。俺は、それでよかったんだ。喋らずに済んで、それでも消えずに残る。そういうやり方が、あったんだよ」
窓の外で、潮が引いていく音がした。
規則正しい、変わらない音だった。紙の上でどれほど混乱が積み重なっても、海だけはその混乱を知らないように、同じ調子で満ち、引いていく。私はその音を聞きながら、修司の言葉を手帳へ書き写した。
――本より先に、人の顔が動いていた。
その一文の下に、もう一行を加える。
――高瀬宗一は、あの日、誰かを支えていた。
書き終えたとき、印刷機の歯車が、風もないのに小さく軋んだ気がした。修司はそれを聞き逃さず、機械の背へ手を戻す。長年触れてきた者の手だけが知る、あやすような、詫びるような仕草だった。
港の音は、変わらず続いていた。
← 横にスクロールして読み進められます
