8話 帳簿の空白

古い電話の受話器を戻したあと、私はしばらくレジの前に立っていた。

耳の奥には、さっきの女の声がまだ残っている。

――その本を、返さないで。

声は遠く、途切れ途切れで、こちらへ届くまでに何度も誰かの手を渡ったように聞こえた。私は受話器を持っていた手を見た。指先に付着した黒い粉は、布で拭っても完全には取れなかった。爪の脇に細く入り込み、皮膚の皺に沿って残っている。

私は帳簿を開いた。

朱の褪せた表紙が、朝の光の下で鈍く光った。昨夜から何度も触れているため、表紙の端には私の指の油が薄く残っている。私はその跡を袖で拭い、紙の角を揃えてから、最初に見つけた空白のページを開いた。

空白は、前に見たときより大きく感じられた。

記入欄の右側、罫線と罫線のあいだに、文字のない部分が均等に残されている。何も書かれていないのではない。書けるだけの余地を、最初から避けている。

私は赤鉛筆を持ち、空白の上下にある記録を写した。

六月三日。文庫本二冊。

六月六日。文庫本三冊。

六月十一日。文庫本五冊。

六月十八日。文庫本四冊。

合計は十四冊だった。

帳簿の別のページにある『潮騒の輪郭』の仕入れ数と照合すると、まだ数字が足りない。百冊のうち、ここへ記録されているのは十四冊だけだ。残りは別の月に散っている。だが、その散り方にも不自然さがあった。

同じ本の仕入れが、いつも二冊、三冊、五冊で止まっている。

一度に十冊以上を記録した日がない。

私は日付を逆から追った。六月十八日から六月十一日へ、六月六日へ、六月三日へ。日付の間隔は一定ではないのに、冊数の並びには一つの癖があった。二、三、五、四。まとまりそうで、まとまらない。

数字の横には、薄い線が引かれている。

私は顔を近づけた。

線は万年筆のものではなかった。紙の表面を硬い先端で押した凹みだった。文字を書いたあとに消したのではなく、別の紙へ写すために、上からなぞったときにできる凹み。私はページを窓へ向けた。

斜めから入る光が、繊維の奥に残った形を浮かび上がらせる。

日付の右側に、小さな丸がある。

そのさらに右には、二桁の数字らしい跡が見えた。最初の文字は三に見える。次は、七か、一か、あるいは数字ではなく、漢字の一画かもしれない。

私は紙を裏返した。

何もない。

けれど、裏面のその位置だけ、紙がわずかに膨らんでいる。上から別の紙を重ねて、何かを書き写した痕跡だった。

私は返品票の束を取り出し、帳簿の上へ重ねた。

端を揃える。

厚みを測る。

納品控えを一枚ずつ横へ並べる。

やがて、日付の重なる箇所が見えてきた。六月三日の納品控えには二冊。六月六日には三冊。六月十一日には五冊。六月十八日には四冊。その後に、納品控えにはない一冊分の控えが、返品票の束の中へ紛れ込んでいた。

六月七日。

六月十二日。

六月十九日。

いずれも一冊。

返品理由の欄には、同じ筆跡で「店頭整理」と書かれている。

私はその文字を指でなぞった。

筆圧が軽い。みちるの通常の記入よりも浅く、最後の「理」の縦線だけが不自然に沈んでいる。書き慣れた人間の手つきではない。けれど、誰かがみちるの筆跡を真似たとも断定できなかった。

紙の端に、黒い粉が付着している。

私はその粉を爪でこすった。指先に細かなざらつきが残る。印刷所で古い活字を掃除したときに出る粉と似ていた。

帳簿の空白。

翌日に作られた一冊分の控え。

そして、印刷所の粉。

私は三つを手帳に書き込んだ。

そこへ、店の戸が開く音がした。

「日高さん、いるかい」

立花せいだった。

彼女は返事を待たずに入ってきた。片手に紙包みを抱えている。紙包みの角はきっちり折られ、紐の結び目は一度ほどいて結び直した跡があった。

「朝から電話を鳴らすんじゃないよ」

「鳴らしたのは私ではありません」

「黒い電話かい」

私は頷いた。

せいは紙包みを作業台へ置き、包みを解く前に、手のひらで表面を撫でた。紙の張りを確かめている。中から出てきたのは、古い納品控えと、折り目のついた薄い帳面だった。

「みどり文具店の奥から出てきた。仕入れ帳の控えだ。みちるに貸していたものを、返されないまま放っておいた」

「なぜ今、持ってきたんですか」

「今朝、お前が店へ戻る前に、みちるの帳簿を探していたからだよ」

「私を?」

「違う。帳簿を」

せいは眼鏡をずらし、私が開いていたページを覗き込んだ。

「空白を見つけたね」

「この欄だけ、最初から何も書かれていません」

「何も、じゃない」

彼女は指先で空白の右端を押さえた。

「置き場所が残されている」

「一冊分の」

「本一冊とは限らない。番号一つ、住所一つ、あるいは人の名前一つ。書くための余白は、書かれなかった内容の大きさを決める。みちるは無駄に紙を使う人じゃなかった」

「空白の幅を測りました」

私は仕事用の定規を取り出し、欄外へ当てた。

「通常の記入欄より、二・六センチ広い。文字なら十文字前後。番号なら二桁から三桁。名前を書くには少し狭い」

せいは黙って定規を見た。

「お前、そういうところだけは妙に正確だね」

「そういうところしか、私には信じられないので」

「人間を信じない言い方だ」

「人間の言葉は、あとで変わります」

「紙だって変わるよ。湿気れば膨らむし、日が当たれば色が抜ける。虫にも食われる。紙を信じるなら、紙がどう変わったかまで見な」

「見ています」

「だから厄介なんだよ」

せいは納品控えを一枚、帳簿の空白の横へ置いた。

「この紙、いつのものかわかるかい」

私は端を持ち上げた。紙は帳簿より薄く、裁断面が少し粗い。表面には細かな毛羽立ちがある。糊の匂いはほとんど消えていたが、紙の内部に湿気が残っている。

「印刷所の端紙です」

「それだけかい」

「古い。帳簿に挟まっていた期間が長い。書いたのはみちるさんではありません」

「理由は?」

「インクが違います。みちるさんの万年筆は、線の始まりが濃く、終わりに向かって薄くなる。でも、この控えの文字は途中だけ沈んでいる。手を止めて、紙へ押しつけた跡がある。迷いながら書いたか、誰かに見られないように書いた」

せいは定規の先で机を軽く叩いた。

「そこまでは合っている」

「誰の字ですか」

「字の話をする前に、日付を見な」

控えには、六月七日と記されている。品名は『潮騒の輪郭』、数量は一冊。備考欄に「整理」とだけある。私は帳簿の六月六日の記録へ紙を重ねた。

控えの端が、空白の始まりとぴたり重なった。

私は息を止めた。

みちるは、六月六日の記録を書いたあと、その翌日に生じた一冊分の動きを、帳簿へ直接記さず、別の紙へ移していた。しかも控えの大きさは、帳簿の空白にあらかじめ確保された余地と一致する。

「帳簿の空白は、記録のために残されていたんじゃない」

私は言った。

「記録を、帳簿から外すために残されていた」

せいは否定しなかった。

代わりに、紙包みの中から、もう一枚の納品控えを取り出した。六月十二日。数量一冊。備考欄は空白になっている。その空白の幅も、帳簿の空白と同じだった。

「みちるさんは、最初から別の紙へ移すつもりだったんですか」

「最初からかどうかは、紙には書いてない」

「でも、控えの大きさを揃えている」

「揃えたのは、みちるとは限らない」

「せいさんは、誰がやったと思っていますか」

せいは私を見た。

ルーペを持つ手が、ゆっくり下がる。

「思っていることと、言えることは違う」

「また、その話ですか」

「何度でもするよ。お前は、答えの形を急ぎすぎる」

「空白がある。そこに一冊分の記録が移されている。しかも印刷所の粉が残っている。これだけ揃っていて、まだ何も言えないんですか」

「言えるさ。みちるは、百冊の本を一度に仕入れた記録を残さず、複数の納品と一冊ずつの控えに分けた。百冊が同じ目的で動いたことを、帳簿から見えにくくした。ここまでは言える」

「それが、証言を分散させるためだった」

「本の折り目がある」

「同じページです」

「同じページを開かせた人間がいる」

「誰が?」

私の声が店内で跳ね返った。

せいは答えなかった。棚のラベルへ手を伸ばし、少し傾いていたものを直した。紙の角を押さえ、糊の浮いた端を爪で押し戻す。そうしている間、彼女は私の視線から逃げていた。

「せいさん」

「聞こえている」

「誰が、百冊を配ったんです」

「今の資料では、わからない」

「高瀬さんですか」

定規の先が止まった。

「名前を出す根拠は」

「印刷所の粉がある。港から運ばれた本がある。高瀬さんは港の運送会社で働いている。百冊を複数の場所へ運べる立場にいる」

「立場だけで人を疑うのかい」

「疑っているわけではありません。可能性を並べています」

「可能性は、使い方を間違えると人の顔へ勝手に貼りつく」

「それでも、帳簿は高瀬さんの名前を避けている」

「帳簿に名前がないことと、高瀬が関わっていることは同じじゃない」

「では、なぜ空白の横に番号が残っているんです」

私は、斜めの光に浮かんだ凹みを指した。

「名簿にない番号です。これが配布先の番号なら、誰かが人間を番号に変えたことになる。人を名前で記録せず、順番や場所だけで扱った。高瀬さんがやっていることと似ている」

せいは目を閉じた。

ほんの短い間だったが、彼女の顔からいつもの辛辣さが消えた。代わりに、言葉にしない後悔が、古い紙の染みのように浮かんだ。

「番号は、配布先じゃない」

「何ですか」

「まだ、読めない」

「読めないのか、言えないのか」

私が尋ねると、せいの口角がわずかに下がった。

「お前も由乃と同じ言い方をするようになったね」

「由乃さんから聞きました。覚えていないことと、言わないことは違う」

「覚えているよ。番号が何を示していたか」

「では、言えるんですね」

「言える。だが、今ここで言えば、みちるが残した順番を私が壊すことになる」

「死んだ人間の順番に、まだ従う必要がありますか」

「必要があるかどうかじゃない。従うかどうかを決めるのは、お前だ。ただし、決める前に知っておきな。みちるが空白を残したのは、書けなかったからじゃない。書けば、誰かの場所が露出するからだ」

「場所?」

「住所じゃない。誰が、誰のあとに本を受け取ったか。その順番が見えれば、最初に本を渡した者へ戻れる。だから、記録を分けた」

私は帳簿の空白へ視線を戻した。

空白は広く、平らで、静かだった。

そこに本来あるはずの文字を想像すると、紙の白さが急に不自然なものに見えてくる。書かれていないのではなく、書かないという判断が固まっている。消し跡よりも強い沈黙だった。

店の戸が、外から二度叩かれた。

せいが顔を上げる。

「誰ですか」

「俺だ。高瀬」

穏やかな声だった。

私は反射的に帳簿を閉じかけた。だが、せいが手を伸ばし、表紙を押さえた。

「隠すな」

「まだ、見せる必要は」

「隠した瞬間に、見せる必要が生まれる」

せいは戸を開けた。

高瀬宗一が立っていた。港の風をまとっている。髪は少し湿り、作業着の袖口には白い粉が付いていた。片手には、紙袋がある。中から焼き菓子の甘い匂いがしたが、その下に、濡れた紙の匂いが重なっていた。

「朝から邪魔するね。せいさん、昨日頼まれていたものを持ってきた」

高瀬は紙袋を作業台へ置いた。置く前に、袋の角を指先で揃えた。

その手つきが、私の目に引っかかった。

物を渡すとき、彼は相手の手元を見ない。けれど、置く位置だけは正確に選ぶ。私が帳簿を閉じた机の端から、わずかに離れた場所。紙袋の底が、作業台の水染みを避けている。

「日高さんもいたんだね」

「帳簿を見ています」

「そう。片づけは大事だよ。古い店は、放っておくと何がどこにあるのか誰にもわからなくなるから」

「わからなくなったほうが都合のいいものもあります」

高瀬は穏やかに笑った。

「そういう言い方をすると、何でも疑わしくなる。古い伝票の一枚だって、誰かには生活の一部だ。捨てれば、紙一枚分の暮らしがなくなる。残せば残したで、今度はそれを証拠だと言う人が出てくる」

「証拠になるかどうかは、紙の状態を見ればわかります」

「紙だけで、人間の事情までわかるのかな」

「人間の事情はわかりません。だから、紙が残した範囲だけを確認しています」

高瀬は私を見た。

笑みは崩れていなかったが、呼吸の間が一つだけ長くなった。

「みちるさんも、そういうことを言っていたよ。人の話は変わるけれど、紙は変わった場所まで残すって」

「桜庭さんと、よく話していたんですか」

「長くこの町にいれば、誰でも何度かは話すよ。荷物を運んだり、店の棚を直したり、本を届けたり。あの人は、人に頼むのが上手だった。頼まれた側が、自分から手伝ったと思うように頼むんだ」

「百冊の本も、頼まれたんですか」

高瀬の視線が、ほんの一瞬だけ帳簿へ落ちた。

落ちる前に、彼は一呼吸置いた。

「百冊?」

「『潮騒の輪郭』です。何度も分けて仕入れられています。返品票の束には、翌日に一冊ずつ動いた記録がある。港から運ばれた本も、印刷所の粉が残る本もある。高瀬さんなら、流れを知っているはずです」

「流れを知っているからといって、全部を動かしたことにはならないよ」

「では、動かした人を知っていますか」

「知らない、と言ったら納得する?」

「しません」

「正直だね」

高瀬は紙袋から焼き菓子の箱を取り出した。箱の蓋を開け、せいへ差し出す。せいは受け取らなかった。

「食べないのかい」

「今は紙の話をしている」

「紙の話をしながら、口に入るものを持ってくると嫌がる。昔からそうだったね」

「昔の話を持ち込むな」

「昔の話しか、今は残っていない」

その言葉に、作業台の空気が固まった。

高瀬は笑顔のままだった。けれど、焼き菓子の箱を閉じる指先がわずかに遅れた。紙箱の蓋が、完全には閉まらず、隙間が残る。彼はそれを見つけると、何も言わずに押し込んだ。

「帳簿の空白を見つけたんだね」

高瀬が言った。

「見つけました」

「みちるさんの記録は、もともとそういうところがあった。きっちり書くところと、書かないところがある。日用品の仕入れまで書くのに、人から預かったものは書かない。預かった人間の名前も、返した日付も」

「預かったものとは、本ですか」

「本に限らない。誰かの手紙、鍵、古い写真。あの店は、物を預かる場所だったからね」

「失踪事件に関係するものも?」

高瀬は答えなかった。

せいが定規を机へ置いた。

「宗一」

その呼び方には、私が初めて聞く硬さがあった。

「日高に余計なことを言わせるな」

「言わせているのは俺じゃない。帳簿だよ」

「帳簿は喋らない」

「喋らないから、聞く人間が勝手に声をつける」

「それで、あんたは今まで何をしてきた」

せいの言葉に、高瀬はゆっくり息を吸った。潮風で傷んだ喉が、かすかに鳴る。

「何もしていないよ。人が忘れたことを、忘れたままにしていただけだ」

「それは何もしないことじゃない」

「忘れた人間に、思い出せと迫るのも、何かをすることだ。どちらが正しいかは、外から来た人間には決められない」

「私は外から来た人間ではありません」

口にした瞬間、自分でも驚いた。

高瀬の笑みが、ほんのわずかに薄くなる。

「そうかもしれないね」

「何を知っているんです」

「君がこの町で過ごした夏のことを?」

胸の奥が冷えた。

店の外では、商店街のシャッターが上がっていく。金属が擦れ、誰かが店先を掃く音がする。日常の音は近いのに、私のいる場所だけが、薄い水の底へ沈んだようだった。

「その話を、誰から聞きましたか」

「誰からも。君の手つきを見ればわかる」

「手つきで記憶がわかるんですか」

「記憶はわからない。何を覚えていないかは、少しわかる」

「それは、誰かが私に話したからですか」

高瀬は答えず、帳簿の表紙へ手を伸ばしかけた。

私はその手より先に帳簿を引いた。

「触らないでください」

高瀬の指が止まった。

怒りは見えなかった。ただ、穏やかな顔の奥で、何かの順番が崩れたように感じた。

「大事に扱っているね」

「触れたものは、元の位置へ戻す必要があります」

「元の位置なんて、誰が決めるんだろう」

「記録に残っている位置です」

「記録に残した人間が間違っていたら?」

「間違いなら、別の記録と照合します」

「別の記録も間違っていたら?」

高瀬の声は柔らかかった。けれど、言葉が一つ進むたび、出口が少しずつ狭くなる。

「全部を疑えば、何も決められない」

「決めるために、確認しています」

「確認して、誰かの暮らしが壊れたら?」

「壊した責任を取るのは、確認した人間だけですか」

「真実を求めた人間は、真実の後始末まで引き受けられるのかな」

私は答えられなかった。

由乃の家で聞いた言葉が戻ってくる。話された後に残される人間の暮らしまで、引き受けてくれるのでしょうか。

高瀬は、私の沈黙を見ていた。

人の話を聞いているふりをする目ではない。言葉が途切れた場所を探している目だった。

「日高さん。帳簿を閉じるのは、まだ早いよ」

「なぜですか」

「空白は、埋めるものじゃない。そこから何を出したかを確かめるものだから」

「高瀬さんは、何を出したんです」

せいが定規を握った。

高瀬は彼女を見て、それから私へ視線を戻した。

「俺は、何も出していない」

その言葉だけは、妙に平らだった。

嘘かどうかを紙のように判別することはできない。だが、彼がそう言ったあと、ポケットの中で何かを折る音がした。小さな紙片が、布越しに擦れる音だった。

私はその音を聞いた。

帳簿の空白に残った、数字の凹みを思い出した。

三と、七か一に見える二桁の跡。

高瀬はポケットから手を出さなかった。

「それは何ですか」

「何が?」

「ポケットの中の紙です」

「港の伝票だよ。仕事のものは、いつも持っている」

「見せてもらえますか」

「仕事の伝票を?」

「記録を照合したいんです」

高瀬は笑った。

「日高さんは、誰の手元にも同じように入っていくね」

「必要なら」

「そのうち、自分の手元まで調べ始めるよ」

「もう始めています」

言葉が落ちた。

高瀬の笑顔が初めて消えた。

ほんの一瞬だった。けれど、その瞬間だけ、彼は港の男ではなく、濡れた木箱のそばに立つ誰かの顔をしていた。潮風にさらされた喉。細かな傷の残る手のひら。紙を折る指。

私の頭の奥で、白い光が弾けた。

――ここには、いないことにする。

声は聞き取れなかった。

私は帳簿へ手を置いた。紙の表紙は冷たく、内部に残った空白が、指先へ薄い抵抗を返してくる。

高瀬は焼き菓子の箱を閉じ、紙袋へ戻した。

「今日は帰るよ」

「待ってください」

「帳簿を見せろとは言わない。君がまだ、そこに書かれていないものを自分で読めていないからね」

「空白の数字を知っているんですか」

「数字は、数字として残っているだけだ」

「では、なぜそんな言い方をするんです」

「君が数字を人間の代わりにしようとしているからだよ」

高瀬は戸口へ向かった。

「みちるさんは、百冊の本を同じページで止めた。止めた理由を、君はまだ知らない。あれは誰かを黙らせるためだけのものじゃない」

「では、何のためですか」

高瀬は振り返らなかった。

「忘れた人間が、忘れたままでも戻れるようにするためだ」

戸が閉じた。

潮風が、残された焼き菓子の甘い匂いを押し流していく。

私は帳簿を開き直した。空白の横にある凹みを、もう一度、斜めの光へ向ける。数字は三と七にも、一にも見えた。けれど、紙の奥には確かに二つの区切りがある。

私は手帳へ書いた。

――空白は、記録されなかった場所ではない。記録を移された場所。

その下に、もう一行を加える。

――高瀬宗一は、空白の意味を知っている。

書き終えたとき、指先に黒い粉が付いていることに気づいた。

私はそれを拭わなかった。

数字の並びを見つめていると、空白の向こう側から、誰かがこちらへ手を伸ばしているように感じた。細い指だった。私の手首をつかむほどの力しかないのに、離れようとすると、紙を折る音が耳の奥で大きくなった。

店の中は静かだった。

それでも、冷えたのは室内ではなかった。空白を覗き込んだ私の内側で、何かがようやく形を持ちはじめていた。

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