7話 百冊の机上

雨上がりの朝、私は桜庭書房の奥にある長いテーブルへ、百冊の『潮騒の輪郭』を一冊ずつ並べた。

昨夜、みどり文具店から残りの本を運び込んだ。濡れた路面を台車が通るたび、車輪が細い水音を立てた。旧倉庫と店のあいだを何度も往復したせいで、手のひらには紙紐の跡が赤く残っている。けれど、痛みは気にならなかった。

百冊すべてが、同じ場所に揃っている。

それだけで、店の奥に沈んでいた空気が変わった。

窓の隙間から潮風が入り、ページの端をかすかに震わせる。床板には夜の湿り気が残り、歩くたびに古い木が低く鳴った。書店は閉じているのに、朝の光だけが、開店前の店内のように棚のあいだへ細く差し込んでいた。

私は本の背を揃えた。

表紙の青は一冊ずつ違っている。日焼けの進んだもの、角が丸くなったもの、背の下に印刷所の粉を吸ったもの。港の湿気で紙が波打っている本もあれば、学校の机に置かれていたらしい、鉛筆の黒い跡が残る本もある。

同じ本なのに、同じ時間を持っていない。

それでも、第百四十二ページの折り目だけは、どれも同じ方向を向いていた。

「そっちは三冊、戻して」

立花せいが言った。

私は顔を上げた。せいは作業台の端に立ち、金属製の定規で本の裁断面を押さえていた。紙束の角がわずかに乱れている。彼女は本ではなく、乱れのほうを見ていた。

「この三冊は、同じ列でいいと思います」

「思うのは勝手だ。根拠を言いな」

「表紙の擦れ方が似ています。右下の角に、同じ高さの傷がある」

「傷だけ見てる」

せいは一冊を取り上げ、表紙を開いた。蔵書印の位置、見返しの汚れ、綴じ目の膨らみを順番に撫でる。

「この三冊は同じ人間の手を渡ったんじゃない。最初の一冊を誰かが持ち、次の二冊はその本を見た人間が別々に受け取った。傷が似ているのは、置かれていた場所が近かったからだよ」

「家の中で?」

「家とは限らない。狭い机の上かもしれない。店のカウンターかもしれない。紙は場所を残すが、住所までは書かない」

「では、どこまでなら並べられますか」

「確実なのは、同じ場所で同じ時間帯に扱われた可能性が高い、というところまでだ。可能性を事実に昇格させるな」

せいの言葉はいつも硬かった。けれど、私が本を置き直すときには、必ず手の届く場所へ定規を置いてくれる。考え込んで指先を紙の端へ擦りつける私の癖を、彼女はもう注意しなくなっていた。

代わりに、傷んだ角を見つければ黙ってこちらへ寄せる。

それが、せいなりの信頼なのだと思うようになっていた。

「時刻表を見せてください」

片山が言った。

彼は窓際の小さな机に座り、無地のノートを開いていた。古い港町の時刻表と、交番倉庫から持ち出した失踪事件のファイルが、その左右に置かれている。書類の端はきっちり揃えられていたが、右手のそばにある鉛筆だけは、芯が折れたまま転がっていた。

私は港の時刻表を渡した。

片山は受け取った紙の左上を親指で押さえ、ページをめくった。港へ入る貨物船、朝市の搬入、商店街の各店舗が開く時間。古い時刻表の印刷は薄く、ところどころ数字が潰れている。

「六月六日、午後四時十七分。港の第三岸壁で荷下ろしが終わっている」

「失踪者が最後に見られた時刻と近いですね」

「記録上は四時二十分。だが、目撃証言の時刻は、あとから整えられた可能性がある」

片山はノートへ数字を書き込んだ。

「四時十五分。四時二十分。四時三十二分。三つの証言は、どれも数分単位で綺麗すぎる。現場で見た時刻ではなく、あとから時計に合わせた時刻に見える」

「本の折り目は、時刻を示しているんでしょうか」

「時刻そのものではない。時刻の境目だと思う」

片山は百冊のうち、表紙の内側に黒い丸がある本を三冊抜き出した。

「この三冊には、同じ黒い丸がある。日付ではなく、場所の印だと日高さんは言っていた」

「はい」

「では、丸のある本に共通するものは?」

私は三冊を開いた。

一冊目には港の砂が挟まっている。二冊目には表紙の内側に湿気の跡があり、三冊目の背には薄い油の粉が残っていた。

「場所が同じではありません」

「その通りです」

片山は時刻表の上に三冊を並べた。

「場所ではなく、移動の区切りだ。港から商店街へ人が移る。商店街から学校へ記憶が移る。あるいは、その逆かもしれない。黒い丸は、誰かが次の人間へ手渡した地点を示している可能性がある」

「本そのものが、移動の記録になっている」

「そう考えると、証言の食い違いも説明できる。ある人物を見た人間が、その人物の次の行動を見たのではなく、その人物から何かを受け取った別の人間を見ていた」

私は、机の上の百冊を見渡した。

誰かが港で本を受け取る。

その本を別の誰かへ渡す。

受け取った人間は、第百四十二ページを開く。

そして、見たものの一部だけを次の本へ移す。

ひとつの出来事が、百冊のあいだで細かく分かれている。

「でも、なぜ同じ一文なんです」

私は尋ねた。

「本文の一文は、何も具体的なことを書いていない。人の名前も、場所も、時間もない。ただ、見たものと見なかったことについて書いてあるだけです」

片山は少し考えた。

「だから使えたのでしょう。誰にでも自分の記憶を重ねられる。具体的な指示なら、記録として残りすぎる。抽象的な一文なら、読んだ人間が自分の見たものだけをそこへ結びつける」

「その結果、全員が違うものを覚える」

「違うものを覚えたというより、違うものだけを持って帰った」

せいが定規の先で、本の折り目を指した。

「折り目は、開いた場所じゃない。閉じた場所だよ」

「閉じた?」

「人は読んでいる最中にページを折らない。読み終えて、あとで戻るつもりのときに折る。だが、これらの本は折り目のついたあと、ほとんど開かれていない。つまり、読んだあとに戻ったんじゃない。見たものをそこで止めたんだ」

「止めた?」

「口に出さない。書き写さない。忘れたふりをする。その動作の代わりに、ページを折った」

せいの指が、折り目の上で止まった。

「みちるは、百人に同じ秘密を渡したんじゃない。百人が別々に抱えていた記憶を、同じページへ集めたんだ。そして、そこから先へは進ませなかった」

「記憶を集めたのに、分散させた?」

「集める場所と、散らす場所を同じにしたんだろうね」

片山が顔を上げた。

「どういう意味ですか」

せいはしばらく本を見つめていた。店の奥では、閉じた電話のコードが風に揺れ、壁へ小さく触れていた。黒い受話器は鳴らなかった。ただ、鳴る前の沈黙だけが、店内の一点に残っている。

「みちるは、真実を一つにまとめたかった。けれど、まとめれば誰かが壊れることも知っていた。だから一度、百冊へ分けた。人間の記憶を、本一冊分ずつに分けて持たせたんだよ」

「それは、守るためですか」

「そう言い切るな」

せいの声が低くなった。

「守るためだったとしても、守られた側が何を失ったかは別の話だ。秘密を抱えさせられた人間は、守られたと感じるより先に、自分の記憶を疑う。自分だけが見たのか、自分の勘違いなのか、誰かにそう思わされたのか。そうやって、記憶は細かく削られていく」

「みちるさんは、それをわかっていたんでしょうか」

私は尋ねた。

せいはすぐに答えなかった。

代わりに、百冊の本を見回した。彼女の目は厳しかったが、その奥に、長い時間の疲れが沈んでいた。

「わかっていたと思うよ。だから、最後まで一冊にまとめなかった」

「最後まで?」

「死ぬまで、誰にも説明しなかった。説明すれば、仕掛けの意味が一つに決まる。意味が決まれば、残された人間はその意味に従って過去を話す。みちるは、それを嫌った」

「でも、私たちは今、並べています」

「お前は並べている。決めてはいない」

「同じではありませんか」

「違う」

せいは私の前に一冊の本を置いた。

「並べるのは、紙がどこにあったかを確認することだ。決めるのは、人間が何を見たかを勝手に言い当てることだよ。お前が今やっているのは前者だ。後者へ行くかどうかは、まだお前が選べる」

私は本の表紙へ手を置いた。

表紙は少し湿っていた。指の腹に、細かな砂が触れる。私はそれを払い落とそうとして、やめた。砂もまた、この本がどこかを通った証拠だった。

「この本は、港から来ています」

「そうだね」

「次の本は、学校の近くです」

「そうだね」

「その次は、桜庭書房へ戻っている」

私は三冊を順番に並べた。

「本は、失踪した人間の移動を追っているんじゃない。失踪した人間を見た人間の移動を追っている」

片山の鉛筆が止まった。

「続けてください」

「港で誰かが、失踪者を見た。その人は本を受け取るか、受け取った本を別の人へ渡した。次の人間は、別の場所で別の一部を見た。けれど、本に残された折り目は、見た内容ではなく、見たあとに本を閉じた動作だけを記録している」

私は黒い丸のある本を一冊、指先で回した。

「だから、証言をそのまま並べても動線にならない。折り目の深さ、紙の湿り方、栞の傷を重ねて初めて、誰かがどこで立ち止まり、どこで次へ渡したかが見えてくる」

「失踪者の行動ではなく、証言の移動を復元する」

「はい」

口にした瞬間、百冊の本が初めて一つの構造を持った。

机の上にあるのは、百人分の証言ではない。百人がそれぞれ抱えた、証言の断片だった。断片は互いに重ならないように見えて、実際には同じ一日の周囲を巡っている。港から学校へ、学校から商店街へ、商店街から書店へ。人が歩いた道と、記憶が手渡された道が重なっている。

私はその線を、指でなぞった。

そのとき、店の入口で床板が鳴った。

三人とも振り返った。

シャッターは半分開いたままだった。外の通りには、薄い朝の光が落ちている。人影はない。けれど、店の外から潮の匂いが流れ込み、紙の甘い匂いを押しのけた。

片山が立ち上がった。

「私が見てきます」

「待ってください」

私は入口へ向かった。

床には、昨夜までなかった砂が細く落ちていた。シャッターの脇から、店の奥へ続いている。足跡は一人分だった。濡れた靴底の形が、二つ、三つと残っている。

私はしゃがみ込み、砂を指で触れた。

細かく、白い。港の第三岸壁に積もる砂と同じだった。

足跡は本棚の前で途切れている。

そこには、百冊の本を並べるために空けていた場所があった。棚の中央に、一冊だけ本が残っている。

『潮騒の輪郭』。

私はそれを抜いた。

百冊目まで数えたはずだった。机の上にも、旧倉庫にも、数え間違いはない。けれど、その本の背には、見覚えのない白い擦れがあった。裏表紙を開くと、見返しに小さな赤い丸がついている。

黒い丸ではない。

昨夜見つけた、薄い赤の印と同じだった。

「百冊の中に、赤い丸は二冊だけだと思っていました」

私が言うと、せいが背後から近づいた。

「二冊だけだよ」

「では、これは」

せいは本を受け取った。指先で表紙を撫で、綴じ目を押さえる。眼鏡をずらし、見返しの赤い丸を覗き込んだ。

「この本は、百冊の外にいた」

「外?」

「同じ版の本だ。でも、百冊と一緒に仕込まれたものじゃない。紙の湿り方も、折り目の周囲の傷も違う」

「それなのに、第百四十二ページには折り目があります」

私は本を開いた。

折り目は、百冊と同じ場所にあった。けれど、折った力が弱い。ページの角は少ししか潰れておらず、まるで誰かが、折ることをためらったように見えた。

せいの顔から、わずかに血の気が引いた。

「みちるが最後に残した本かもしれない」

「百冊の外に?」

「百冊を見つけた人間が、次に開くための本だよ」

片山が本を覗き込んだ。

「赤い丸には、何か意味があるんですか」

「黒い丸が、誰かへ渡した印なら」

私は見返しを見た。

「赤い丸は、渡されなかった印ですか」

せいは答えなかった。

代わりに、ページの折り目へ指を置いた。紙がほどけようとして、微かな抵抗を返す。彼女の指が離れると、ページは閉じた。

「渡せなかったのか。渡さなかったのか。それは、まだわからない」

片山が、赤い丸の下に残った薄い線を見つけた。

「ここに何か書かれています」

私は本を光の当たる場所へ移した。見返しの紙には、赤い丸のほかに、押しつけられた凹みがある。文字は消えていたが、紙の繊維だけが形を覚えていた。

最初の二画は「日」に見えた。

その下に、細長い線が続いている。

私は指先でなぞった。

白い光が、頭の奥で弾けた。

濡れたコンクリート。

積み上げられた木箱。

遠くで鳴る汽笛。

細い指が、私の手首をつかんでいる。

今度は、声が聞こえた。

「透真、見てはいけない」

女の声だった。

それが誰の声なのか、まだわからない。

けれど、私は初めて、その言葉を聞いた場所を思い出した。

港ではなかった。

桜庭書房の奥、閉じた棚の前だった。

誰かが私の手を引き、本を開かせた。第百四十二ページ。そこにある一文を指で押さえ、何度も何度も、同じ場所をなぞっていた。

「透真」

片山の声がした。

私は顔を上げた。

「今、何か思い出しましたか」

「まだ、記憶とは言えません」

「なら、何ですか」

「場所です」

私は赤い丸の本を机へ置いた。

「この本は、百冊の始まりではない。終わりに置かれていた。百冊が全部戻ったあとに、誰かが開くための本です」

「誰が開くんです」

片山が尋ねた。

私は答えず、机の上の百冊を見た。

折り目はすべて外側を向いている。黒い丸と赤い丸が、互いに離れた場所で、ひとつの線を作っていた。港から書店へ。書店から、また誰かの手元へ。

せいは、私の隣で本の角を揃えた。

「お前だろうね」

「なぜ」

「百冊を見つけたからじゃない。百冊が、お前の手で初めて並んだからだよ」

私は赤い丸の本を持ち上げた。

「みちるさんは、私がここへ来ることを知っていたんでしょうか」

「知っていたかどうかは、まだ言えない」

「でも、仕込んだ」

「たぶん、という言葉は嫌いだろう」

「嫌いです」

「なら、紙が言えるところまでで止めな」

せいは私の手から本を取らなかった。

「みちるは、お前を選んだのかもしれない。選んだのではなく、見つける人間が来るまで待っていただけかもしれない。どちらにしても、ここから先はお前が決めることだ」

店の奥で、黒い電話が鳴った。

一度だけ。

私たちは誰も動かなかった。

二度目の音が鳴る。

私は赤い丸の本を閉じ、百冊の中央へ置いた。紙の端を揃える。百冊の青い背表紙の列の中で、それだけが少しだけ色を違えていた。

電話が三度目に鳴る前に、片山が立ち上がった。

「出ます」

「待ってください」

私は彼を止めた。

「今度は、私が出ます」

レジへ向かう途中、床板がまた鳴った。外から入った風が、百冊のページを一斉に持ち上げる。第百四十二ページが、白い波のように開いた。

百冊の折り目が、同じ一文を指している。

その一文の下に、赤い丸の本だけが、別の薄い線を残していた。

――波は、戻る場所を忘れない。

私は受話器へ手を伸ばした。

指先に、古いインクのざらつきが残っていた。

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百冊の机上 - 紙の証言 - 誰でも作家life