6話 言葉の縁

早瀬由乃の家は、商店街から海とは反対の方角へ三つ路地を入ったところにあった。

私は片山から借りた古い地図を手帳に挟み、濡れた石畳を歩いた。朝の雨は上がっていたが、長屋の軒先からはまだ雫が落ちている。屋根と屋根の隙間に細く残った空が、海の底のような色をしていた。

歩くたび、靴底が水を押した。

昨日、片山の前で並べた失踪事件の記録が、頭の中で何度も位置を変えていた。港にいた人間が商店街で見られ、商店街にいた人間が海沿いの道を歩いていた。時刻は合っているのに、動きだけが合わない。

そこへ、百冊の本が重なる。

六月三日。六月六日。六月十一日。六月十八日。

その日付の間に、誰かが本を受け取り、同じページを開き、何かを見た。見たはずなのに、見たものを言わなかった。あるいは、言えない形にされていた。

由乃の家の前に立つと、玄関脇に箒が立てかけられていた。

季節外れの、柄の長い竹箒だった。穂先には乾いた泥が残り、使ったあとに水で洗われた形跡がある。雨の翌朝に使うには自然だったが、いまは昼前だった。誰かが濡れたものを片づけるためではなく、何かを待つあいだ、手持ち無沙汰に動かしたように見えた。

私は呼び鈴を押した。

少し間があってから、内側で鍵の外れる音がした。

「日高さん」

由乃は薄い灰色のカーディガンを着ていた。襟元も袖口も乱れていない。髪はきちんとまとめられ、片手には細字の万年筆が握られていた。

「突然すみません」

「いえ。お入りください」

玄関の上がり框には、紙箱が三つ並んでいた。便箋箱だった。古いものだが、蓋の角に傷がなく、箱同士の間隔まで揃っている。

「この箱は」

「便箋です。昔のものと、今使うものを分けています」

「紙に書くことが多いんですか」

「書く必要があるときには」

由乃はそう答えて、私の靴を見た。泥を落としきれていなかったらしい。私は玄関脇の布で靴底を拭き、端を揃えてから上がった。

居間には小さな机があり、窓際に一冊の本が置かれていた。

青い表紙。

『潮騒の輪郭』だった。

由乃は私の視線に気づいたが、本を隠そうとはしなかった。代わりに、机の上の茶器を整えた。湯気の薄い紅茶と、砂糖の入っていない小さな茶碗。椅子を引く音まで静かだった。

「どうぞ」

「いただきます」

口をつけると、茶は少し冷めていた。渋みだけが舌に残り、喉を通ったあとに乾いた熱が広がる。

由乃は向かいに座り、膝の上で手を重ねた。けれど、私が手帳を開いた瞬間、その指がわずかに動いた。

「本は、受け取りました」

彼女は、こちらが尋ねる前に言った。

「いつですか」

「ずいぶん前のことです」

「日付は覚えていますか」

一拍、沈黙が落ちた。

由乃はまぶたを伏せ、万年筆の先で机の縁をなぞった。

「六月の、はじめだったと思います」

「三日、六日、十一日、十八日。そのどれかですか」

彼女は答えなかった。

窓の外で、どこかの家の洗濯物が風に揺れた。布が竿に当たる音が、薄い壁を通って聞こえてくる。

「本を受け取ったこと自体は、覚えているんですね」

「はい」

「誰から受け取りましたか」

「それは……」

由乃の視線が、机の端へ逃げた。

「桜庭さんですか」

「そうだったかもしれません」

「高瀬さんでは?」

彼女の指が止まった。

ほんの一瞬だった。けれど、私は見逃さなかった。由乃は返事をする前に、机の上の本へ手を伸ばした。

表紙の青を指先で撫でる。

「高瀬さんは、よく人のところへ荷物を届けていました」

「本も?」

「本に限りません。薬や食料、学校へ持っていく備品も。あの方は、頼まれると断らない人でしたから」

「では、届けた可能性はある」

「可能性という言葉なら、いくらでも作れます」

「私は作っているつもりはありません」

「そうでしょうね」

由乃は第百四十二ページを開いた。栞が挟まっている。子どもから贈られたものらしい、色褪せた魚の絵が印刷された紙だった。由乃は栞の位置を直し、折り目の脇へ置いた。

「このページを開くように言われましたか」

「……はい」

今度の沈黙は、さっきより長かった。

「誰に」

「覚えていません」

「覚えていないのか、言えないのか、どちらですか」

口にしたあと、少し強すぎたと思った。

由乃は顔を上げた。怒ってはいなかった。ただ、私の言葉を別の紙へ写し取るように、慎重に受け止めていた。

「その二つを、同じものとして扱わないでください」

「同じではない?」

「覚えていないことと、言わないことは違います。前者には、自分の意思がありません。後者には、理由があります。理由が正しいとは限りませんが、少なくとも選んだ人間の責任がある」

「あなたは、言わないことを選んでいる」

「はい」

「誰かを守るために?」

由乃は本のページから手を離した。

「その問い方は、もう答えを含んでいます」

「では、どう聞けばいいんです」

「守るという言葉を使わずに」

彼女の声は柔らかかったが、逃げ道を塞ぐような硬さがあった。

「人は、誰かを守ったつもりで、別の誰かから選択肢を奪います。話すことが正しいと決める人は、話された後に残される人間の暮らしまで引き受けてくれるのでしょうか。名前が新聞に載り、家の前に人が集まり、子どもが学校で何かを言われる。そういうものまで、真実の一部として引き受けるのでしょうか」

「それでも、失踪した人がいる」

「ええ」

「その人がどこへ行ったのか、誰も確かめていない」

「ええ」

「事故ではなかったかもしれない」

「ええ」

「なら、黙っていることは、その人をもう一度消すことになりませんか」

由乃はしばらく私を見ていた。

その目に初めて、抑え込まれていたものが浮いた。涙ではない。もっと乾いた、長い時間をかけて固まった痛みだった。

「あなたは、消すという言葉を簡単に使いますね」

「簡単には使っていません」

「いいえ。あなたは記録の空白を見つけると、そこに本来あるべきものがあると思う。数字が一つ足りなければ、それを戻せば帳簿は正しくなる。人の記録も同じだと考えている」

「違いますか」

「違います。人は、抜けたところを埋めれば元に戻るものではありません。埋めた文字が、その人の暮らしを壊すこともある。だから私は、教室で子どもたちに作文を書かせるときも、空白を恐れるなと言ってきました。書けないことを無理に書くと、書かれた言葉のほうが嘘になるからです」

「でも、本には折り目が残っている」

「はい」

「あなたは、そこを開いた」

「はい」

「開いたのに、何も言わない」

由乃は本を閉じた。

「言わないことと、何も残さないことは違います」

その言葉が、せいの店で聞いた話と重なった。

紙に残すことと、紙にまとめることは違う。

私は手帳へ伸ばしかけた指を止めた。由乃はそれを見て、かすかに息を吐いた。

「書かないのですか」

「今の言葉は、記録していいものかわかりません」

「そうやって迷えるなら、まだ大丈夫です」

「何がですか」

「言葉を拾う人間が、拾ったものを自分の所有物だと思い始めたら、記録は別の暴力になります」

私は返事をしなかった。

窓の外で、雨樋から水が一滴落ちた。間隔を空けて、また一滴。時計の音より不規則なのに、耳を澄ますと一定の場所へ意識を引き戻された。

「本を受け取った日のことを、話せる範囲で聞かせてください」

由乃はすぐには答えなかった。

けれど、今度の沈黙は拒むためのものではなかった。言葉を並べ替えているというより、どこまでなら誰も壊さずに済むか、境目を測っているように見えた。

「夕方でした」

「場所は」

「学校の裏門です」

「学校にいたんですか」

「当時、私は教師でした。夏休み前で、子どもたちが帰ったあとです。校舎には誰もいないはずでした」

「はず、というのは?」

「校庭の隅に、ひとり男の子がいました」

由乃の指が、膝の上で強く組まれた。

「名前は」

「それは言えません」

「その子が、失踪した人と関係している?」

「関係している、という言い方は正しくないかもしれません」

「では、何が正しいんですか」

「その子は、何かを見ていました」

「何を」

「私には、はっきりとは見えませんでした。ただ、手首に黒い汚れがついていた。印刷所のインクのような汚れです。服の裾は濡れていて、靴の中に砂が入っていた。泣いてはいませんでした。泣かないようにしていたのだと思います」

胸の奥が急に冷えた。

濡れた木箱。汽笛。黒い汚れのついた細い指。手首をつかまれた感触。

私は椅子の背に手を置いた。指先に力が入る。

「その子に、本を渡した人は」

「私ではありません」

「高瀬さん?」

由乃は答えなかった。

ただ、ページの折り目を押さえていた指が、ほんの少し震えた。

「早瀬さん」

「高瀬さんは、学校には来ていません」

「来ていない、と断言できますか」

「……そういう意味ではありません」

「では、どういう意味です」

由乃は視線を落とした。

「その人が誰であったかを、私は見ていません」

私は息を止めた。

「見ていない?」

「校門の向こうに、背の高い人影がありました。夕方の逆光で、顔は見えなかった。子どもに何かを渡したあと、その人影は港の方へ歩いていきました。私は校舎の窓からそれを見ていました」

「それなのに、なぜ本を受け取った相手がその人影だと思うんですか」

「本が、同じ場所から出てきたからです」

「どこから?」

由乃は、机の上の本を見た。

「桜庭書房です」

その名前が落ちたあと、部屋の空気が変わった。

外から潮の匂いが入り込んできた。窓は閉まっているのに、濡れた紙の甘さが茶の渋みに混じる。私は自分の手首を見た。何もない。けれど、そこに古い指の感触が戻りかけていた。

「その子は、本をどうしたんですか」

「私に渡しました」

「あなたが受け取った?」

「正確には、その子が私の机の上へ置きました。何も言わずに」

「本だけを?」

「本と、細い紙片を一枚」

由乃は立ち上がり、窓際の便箋箱へ向かった。上から二つ目の箱を開ける。中には白い便箋が整然と並び、その下に古いノートが一冊入っていた。

彼女はノートを開き、間に挟まれた薄い紙を取り出した。

「これです」

紙片は黄ばんでいた。中央に青鉛筆の線が一本引かれている。線の下には、薄く文字の凹みが残っていた。私は受け取る前に、由乃の指先を見た。紙を渡すとき、彼女は必ず相手の手元まで確認する。私の手が紙を傷めない位置に来るまで、離さなかった。

紙に触れた瞬間、頭の奥で白い光が弾けた。

港の床。

水たまりに浮く木屑。

誰かの手が私の手首を引く。

私は後ろへ下がった。紙片が落ちそうになり、由乃がすぐに支えた。

「大丈夫ですか」

「この紙を、どこで」

「その子が持ってきました」

「男の子は、私ですか」

声が自分のものではないように聞こえた。

由乃は答えなかった。

彼女は紙片を机へ戻し、端を揃えた。整える指が、初めてわずかに乱れた。

「私には、断定できません」

「あなたは見たんでしょう」

「見たのは、濡れた服と、黒い汚れと、手首です。顔は見ていない。声も、ほとんど聞いていない。記録に残せるのはそこまでです」

「でも、私の記憶にあるものと同じです」

「記憶は、似たものを勝手に繋ぎます」

「では、私ではない」

「そうも言っていません」

由乃は私を見た。

「あなたがその子だったとしても、今ここで私が名前を与えることはできません。あなた自身が、まだ自分の記憶として受け取れていないものを、他人の言葉で固定するのは危険です」

「危険でも、知りたい」

「知りたいという気持ちは、知る権利とは違います」

「それでも、知りたいんです」

私は紙片を見つめた。表面には、由乃の古い指の脂が薄く残っている。その下に、子どもの手の汗があったのかもしれない。紙は何も説明しない。ただ、触れられた回数と、残った圧だけをこちらへ返してくる。

「あなたは、あの日、私を守ったんですか」

由乃の呼吸が止まった。

しばらくして、彼女はゆっくりと首を横に振った。

「守ったのは、あなた一人ではありません」

「どういう意味ですか」

「その言葉は、今はまだ使えません」

「また沈黙ですか」

「いいえ。選んでいます」

由乃は本を開き、第百四十二ページの折り目を押さえた。

「子どものいる前で、軽く話すようなことではないのです」

その一言の意味が、ようやく別の形を取り始めた。

子どもがいる前で話せないこと。

子ども自身が、見たことを背負わされること。

そして、その子どもが成長してからも、誰かが代わりに沈黙を抱え続けること。

「あなたは、本を受け取ったあと、何をしましたか」

「折り目を開きました」

「その中に何か書いてあった?」

「本文の一文だけです」

「何と書いてありましたか」

由乃は目を閉じた。

ほんの一拍の沈黙だったが、その間に何年もの時間が沈んでいた。

「人は、見たものではなく、見なかったことによって海を覚える」

私は手帳に書こうとした。

けれど、ペン先は紙に触れなかった。

「その言葉を、誰かに言われたんですか」

「いいえ」

「では、どうして全員が同じページを開いたんです」

「全員ではありません」

「何人ですか」

「わかりません」

「百人?」

「本が百冊あったからといって、受け取った人間が百人いたとは限りません」

それは、せいの言葉と似ていた。

由乃は続けた。

「一冊を何人かで見た家もあったでしょう。誰かが持ってきて、家族に見せた。店へ持っていった。学校で子どもに読ませた。本は一人の記憶だけを保存するものではありません。手渡された瞬間、そこに触れた人間すべての記憶を引き受ける」

「だから、証言が食い違う」

「食い違うのではなく、分かれて残るのです」

「分かれたままでいいんですか」

由乃は、本を閉じた。

「よくはありません。ただ、一つに戻すことが正しいとも限りません」

「では、何をすればいい」

「まず、あなた自身が何を見たのかを、誰かの言葉で決めないことです」

「私は何も覚えていない」

「覚えていないことも、記録できます」

由乃は私の手帳を見た。

「匂い。手触り。光。音。そこから始めればいいのです。あなたが空白と呼んでいるものは、何もない場所ではありません。まだ名前のない感覚が、そこに残っているだけです」

私は手帳を開いた。

由乃の家。

季節外れの箒。

子どものいる前では話せないこと。

濡れた服。

黒い汚れ。

細い指。

私は一つずつ書いた。由乃はそれを止めなかった。

最後に、紙片のことを記す。

――青鉛筆の線。表面に文字はない。裏面に深い凹み。由乃が保管していた。

そこまで書いて、私は顔を上げた。

「この紙を、片山さんに見せてもいいですか」

由乃は長く黙った。

「あなたが決めることです」

「あなたは、どう思いますか」

「私は、すべてを明かす義務はないと思っています」

「知っていることを、ですか」

「はい。ただし、知っていることによって誰かが傷つくなら、その傷を自分が引き受ける覚悟が必要です。黙ることは、何もしないことではありません。黙ったまま生きるという仕事を、自分に課すことです」

「あなたは、その仕事を続けてきた」

「続けてきたつもりでした」

由乃は初めて、疲れたように笑った。取り繕った笑顔ではなかった。長く閉じた窓を、少しだけ開けたような笑い方だった。

「けれど、今日あなたが来て、続けてきただけでは足りなかったのだと思いました」

「何が足りなかったんですか」

「記録を守ることと、記録を誰かに渡すことです」

その言葉は、みちるの店に残った百冊へ向けられているように聞こえた。

「本を、返さないでください」

由乃はそう言った。

以前、黒い電話から聞いた女の声と同じ言葉だった。

「誰がそう言ったんですか」

「私ではありません」

「では、誰が」

「わかりません」

今度の答えには、逃げる気配がなかった。由乃は本を私の方へ押し出した。

「ただ、その本が戻される場所は、もう決められているのだと思います」

「桜庭書房へ?」

「そうかもしれません。あるいは、あなたの手元へ」

私は本を受け取った。

ページの折り目が指の腹へ触れる。紙がほどけようとして、わずかに抵抗した。由乃の指が押さえていた場所には、薄い温度が残っていた。

家を出ると、雨上がりの路地に夕方の光が落ちていた。

箒の穂先から、残った水が一滴落ちた。私は歩き出した。商店街へ戻る道は、来たときより長く感じられた。壁の向こうから夕食の支度をする音が聞こえ、鍋の蓋が触れ合う金属音に、どこかの家のテレビの声が重なる。暮らしは何も知らない顔で続いている。

海へ向かう風が、路地を抜けた。

古紙の甘い匂いが、潮の塩気に押し上げられる。私は足を止め、手首を見た。

細い指の感触が、まだ残っている。

あの指は、私を連れ去ったのか。

それとも、引き戻したのか。

記憶は答えなかった。

私は手帳を開き、今日の最後の行を書いた。

――由乃は、誰かを守ったのではない。誰かが壊れないように、言葉の縁を残した。

その下に、もう一行加えた。

――私は、まだその縁の外にいる。

港の方から、船の汽笛が聞こえた。

音は長く伸び、古い長屋の壁に触れてから、ゆっくり消えた。私はその消え方を追わず、桜庭書房へ続く道を歩いた。紙片は手帳の間に挟んである。端は揃えていたが、中央だけがわずかに膨らんでいた。

何かが、そこに残っている。

言葉になる前の、誰かの手の圧が。

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