5話 薄いファイル

片山恒一から電話があったのは、桜庭書房の帳簿を三度目に開き直したときだった。

黒い電話ではない。私自身の携帯だった。それでも受話器を取る前に、一瞬だけ手が止まったのは、昨日の夜、あの黒い電話から聞いた女の声がまだ耳の奥に貼りついていたからだ。

「日高さんですか。片山です。今、時間はありますか」

声には抑揚がなかった。用件のない電話をかけない人間の口調だった。

「大丈夫です」

「旧市街の交番倉庫まで来られますか。見せておきたいものがある」

それだけ言って、片山は返事を待たずに場所を告げ、電話を切った。私は帳簿を閉じ、紙の端を揃えてから、桜庭書房の鍵を掛けた。

交番倉庫は、商店街の外れにある小さな交番の裏手にあった。木造の平屋で、屋根に錆の浮いたトタンが張られている。表の交番自体は今も機能しているらしく、若い制服の警官が一人、机に向かって書類を書いていた。私が名前を告げると、彼は無言で裏口を指した。

裏口を開けると、片山がすでに中にいた。

倉庫の中は思ったより広く、金属の書架が壁一面に並んでいる。天井の蛍光灯は片方が切れかけていて、時折、白い光が神経質に瞬いた。埃と、古い紙と、わずかに油の匂いが混じっている。港の匂いとは違う、乾いた紙の匂いだった。

「そこに座って」

片山は書架の前に置かれた折り畳み椅子を指した。彼自身は立ったまま、薄い茶色のファイルを一冊、腕に抱えている。表紙には手書きの数字と、退色した「行方不明者関係」という文字があった。

「旧市街の失踪事件のファイルです。二十年以上前のものだ。私が担当したのは、その後の再確認だった」

「再確認、というのは」

「事故として処理された案件を、何年か置きに見直す。制度上そういう手続きがある。ただ、実際にはほとんど誰も熱心にはやらない」

片山はそう言って、机の上にファイルを置いた。表紙を開く手つきは、ひどく慎重だった。乱暴に扱えば紙が崩れるとでも思っているような、そんな指の動きだった。

ファイルの中には、聞き取りの記録、簡単な地図、時刻の書かれた表が入っていた。だが、あるページから先、紙の質が違う。薄い。というより、そこに本来あるべき厚みがない。

「これは」

「抜かれたわけじゃない」

片山は先回りするように言った。

「抜かれたなら、綴じ穴の周りが荒れる。これは、最初からそこに何も綴じられていない。誰かが、書類を作らなかったんです」

私はその薄い部分に指を当てた。紙の厚みそのものよりも、そこにあるはずのものがないという事実のほうが、はっきりと手のひらに残った。

「片山さんは、それをどう見ているんですか」

「見ているというより、確認している」

片山はメモ帳を開き、鉛筆で書かれた古い聞き取りの一覧を、書類の左上から順に指でなぞっていった。焦って読む様子はない。一行ごとに、時刻と場所を口の中で繰り返している。

「港の岸壁で、荷の積み下ろしをしていた人間の証言。午後四時十五分、店の前を通りかかった、と書かれている。次に、商店街の惣菜店の証言。午後四時二十分、同じ人物を店先で見た、とある」

「時刻は繋がっていますね」

「繋がっているように見える。だが、この二人が見たと言っている場所は、歩いて十五分以上かかる距離だ。港から商店街まで、五分で移動するのは無理だ」

私は港町の地図を思い浮かべた。旧市街の道は入り組んでいて、海沿いの道と商店街のあいだには、長屋の連なる路地が挟まっている。近道はない。

「では、証言のどちらかが間違っている」

「そう思うのが普通だ。だが、間違っているとは、当時の誰も書いていない」

片山はページをめくり、別の証言を示した。

「これも同じだ。商店街にいたはずの人間が、その十分後に海沿いの道を歩いている姿を見られている。時刻は合うが、動きが合わない」

「複数の人が、同時に別の場所で同じ人物を見た、ということですか」

「あるいは、別の人間を同じ人物だと思い込んだ、か。あるいは――」

片山はそこで言葉を切った。

鉛筆の先が、書類の端で止まっている。私はその止まり方を見て、片山が結論を言い切らない人間だということに、初めて安心を覚えた。せいの厳しさとも、みちるの沈黙とも違う。片山の慎重さは、事実の外側に一歩でも出ないように、自分を縄で縛っているようなものだった。

「あるいは、証言そのものが、誰かの手で並べ替えられている」

私が言うと、片山は初めて私の顔を見た。

「その通りです」

彼はメモ帳を閉じ、椅子に浅く腰を下ろした。蛍光灯がまた一度、神経質に瞬く。

「私はこの事件を、二十年前に一度、担当した先輩から引き継いだ。先輩はもう退職している。当時の記録には、事故という結論しか残っていない。だが、私はこのファイルを最初に開いたとき、違和感を覚えた。証言の量は多いのに、決定的な部分だけが薄い。誰かがわざと、決定的な部分を書かなかったのではないかと思った」

「思ったなら、当時、なぜ確認しなかったんですか」

私の問いに、片山はすぐには答えなかった。

彼はネクタイの結び目に手をやり、無意識に、その位置を何度も直した。それが答えを探す時間なのか、答えたくない時間なのか、私にはわからなかった。

「住民の証言は、揃っていました。誰も、事故ではないと言わなかった。むしろ、事故だと言い切ることで、話を終わらせたがっていた。私はそれを、住民同士の馴れ合いだと思って、深く踏み込まなかった。若かった、というのは言い訳にすぎませんが」

「今は違うんですか」

「今は、違う理由を疑っています。馴れ合いではなく、守ろうとしていたんだと」

片山はファイルの薄いページを、もう一度指で押さえた。

「何かを見た人間が、見たことを言わないのと、見なかったことにされたのは違う。私はずっと、住民が黙っていることに苛立っていました。だが、実際に苛立っていたのは、自分に対してだった。私が、その沈黙の意味を、確かめずに終わらせたことに」

その言葉は、説明ではなかった。片山自身が、長い間、誰にも言わずに抱えてきた重さが、初めて外へ出てきたような響きだった。私はその重さに、何と応えればいいのかわからず、しばらく黙っていた。

「日高さんは、あの百冊の本を見つけた」

片山が話題を変えた。

「はい」

「私はその話を聞いたとき、正直、在庫整理の余談だと思った。だが、このファイルの空白と、あなたの言う折り目の位置を、一度並べてみたい」

私は手帳を取り出し、これまでの日付を片山の前に広げた。六月三日、六月六日、六月十一日、六月十八日――帳簿の余白と重なる日付。それを、片山のファイルにある聞き取りの日付と並べる。

片山は鉛筆の先で、二つの表を交互になぞった。表情は変わらなかったが、なぞる速度がわずかに落ちた。

「この日付、こちらの証言記録の日付と、一日違いで重なっています」

「一日違い、というのは」

「あなたの帳簿では、六月七日に控えが作られている。私のファイルでは、六月六日に聞き取りが行われている。一日ずれている」

「せいさんが言っていたのと同じです。前日の記録を、翌日に別の紙へ移している」

片山は顔を上げた。蛍光灯の白い光の下で、彼の目には、疲れとは違う何かがあった。長く抱えていた負い目が、ようやく形を持ち始めた者の目だった。

「それが本当なら、この事件の証言そのものが、二重に作られている。当時の聞き取りと、その後、誰かが整えた記録と」

「誰が、整えたんでしょうか」

「わかりません」

片山はそう言ったが、その口調には、わからないことを恐れる響きはなかった。

「わからないから、これから調べる。日高さん、あなたの帳簿と、私のファイル、両方を並べれば、抜けている部分がどこにあるか、少なくとも輪郭は見える。真実そのものは、まだ見えなくていい。まずは、何が欠けているかを、正確に知ることです」

私はその言葉を、手帳に書き写した。

――真実ではなく、真実へ近づくための骨組み。

片山が持っているのは、事実そのものではない。事実の周りにあった空白の形だった。だが、その空白が、かえって誰かの手つきを濃く残していた。何も書かなかったという事実そのものが、ひとつの証言になっていた。

倉庫の外で、潮の匂いを含んだ風が、トタン屋根を軽く鳴らした。片山はファイルを閉じ、表紙の角を私と同じように、指先で一度揃えた。その仕草は、せいの定規や、みちるの帳簿の縁と、どこか似ていた。この街には、そういう手つきをする人間が、思っていたよりも多いのかもしれなかった。

「日高さん」

片山が静かに言った。

「あなたが百冊の本を見つけたのは、偶然だと思いますか」

私はすぐには答えられなかった。

偶然だと言い切るには、港の匂いに触れるたびに走る白い光と、手首をつかむ細い指の感触が、あまりに具体的だった。

「まだ、わかりません」

「そうですか」

片山はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、薄いファイルを丁寧に書架へ戻し、蛍光灯の切れかけた片方を一度見上げてから、倉庫の明かりを消した。

暗くなった部屋の中で、紙の匂いだけが、しばらく濃く残っていた。

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