第4話 折り目の見取り図

朝の旧市街には、夜の湿り気がまだ残っていた。
商店街の石畳は薄く濡れ、閉じたシャッターの下から、昨夜の雨が細い筋になって流れている。海は見えなかったが、風の向きでわかる。潮の匂いが路地を抜け、建物の壁に染みた古い紙の甘さを押し上げていた。
私は両腕で抱えた本の束を持ち直した。
『潮騒の輪郭』が三十冊。残りの七十冊は、昨夜のまま桜庭書房の旧倉庫に置いてある。すべてを一度に運ぶことはできなかった。何より、あの店の外へ本を出すことに、まだためらいがあった。
百冊は、桜庭書房の中で初めて一つの形を取った。
店の外へ持ち出せば、それが崩れるような気がした。
みどり文具店の戸を開けると、鈴が一度だけ鳴った。
「遅い」
立花せいは、作業台の向こうで言った。
「開店前です」
「私の店は、私が起きたときに開くんだよ。時間に文句をつけるなら、時計に言いな」
彼女は濃い茶の入った湯呑みを脇へ押しやり、空いた作業台を顎で示した。机の上には、紙見本帳、金属製の定規、角の丸くなったルーペ、それに古い納品票の束が並んでいる。納品票の角は一枚残らず揃えられていた。
私は本を置く前に、作業台の表面を袖で払った。
「埃はないよ」
「本を置くところなので」
「本は埃を嫌うが、紙は少しの埃で傷つくほど弱くない。気にしすぎだ」
「傷ついたかどうかは、触ればわかります」
「触る前に置き方を考えな。角を潰す」
せいは手を伸ばし、私の抱えていた束を受け取った。指先が本の背を滑り、三冊目の位置で止まる。彼女はその一冊を抜き、表紙を裏返した。
「これは印刷所の棚にいた」
「わかるんですか」
「紙が乾いている。背の下だけ粉を吸っている。機械の近くに置かれた本の汚れだ。倉庫の埃は表面に乗る。印刷所の粉は繊維に入る」
せいは本のページを扇のように少し開いた。紙と紙の間から、乾いた甘い匂いが立つ。指の腹で裁断面を撫で、目を細めた。
「こっちは港だね」
「港?」
「表紙の内側が波打っている。湿気だけじゃない。海風にさらされている。倉庫に置かれていたなら、波打ちは底から出る。これは上から入っている」
私は本を一冊ずつ作業台へ並べた。
背表紙を同じ線に揃える。表紙の青は、同じ版のものでも少しずつ違っていた。日焼けの進んだもの、角の丸いもの、表紙の隅に白い擦れがあるもの。ある本には細い砂が挟まり、別の本には黒い粉が綴じ目に残っている。
せいはそれらを、見るより先に触れていった。
「手を止めるな」
「はい」
「返事はいらない。数えながら並べろ」
私は黙って冊数を数えた。
一冊目から十冊目まで、机の左端へ置く。次の十冊をその隣へ。せいは私の並べ方を見て、定規の先で一冊を押した。
「違う」
「何がですか」
「お前は出版順に並べている」
「同じ版です」
「だから、版の順番じゃない。扱われた順番だ」
せいは三冊を抜いた。
一冊目は表紙が大きく擦れている。二冊目は紙が湿り、ページの端がわずかに膨らんでいる。三冊目には、栞を何度も抜き差しした細い傷が残っていた。
「どれが先だと思う」
「擦れたものです。長く手に取られている」
「長く、とは限らない。何度も棚から出された可能性もある。次は?」
「湿ったものは、港に近い場所に置かれていた。三冊目は読むために開かれた回数が多い」
「場所と回数を混ぜるな。紙が言っているのは、そこに置かれた時間の長さだけだ。持ち主の行動までは決められない」
せいの言葉は厳しかったが、紙を扱う手つきは驚くほどやわらかかった。折り目のあるページを開くときも、紙を押さえつけず、戻ろうとする力を指先で受け止めている。
私は第百四十二ページを開いた。
どの本にも、同じ角度の折り目がある。
折り目をなぞると、紙がほどけるような微かな抵抗が返ってきた。そこだけ時間が固まっているようだった。折った人間の指が、まだ紙の奥に残っている。
「全部、同じです」
「同じに見えるだけじゃない」
せいはルーペを覗き込んだ。
「見ろ。こっちは折る前にページを開いた跡がある。ここは右手の親指で押さえた。こっちは左の角が潰れている。急いで閉じたんだろうね」
「折り目をつけた人間が違う?」
「人間が違うというより、動作が違う。同じページを指定されて、別々の人間が同じ場所を押さえた。だから折り目の位置は揃っているのに、周囲の傷み方は揃わない」
私は本から顔を上げた。
「指定された、と考える根拠は?」
「百冊あるからだよ」
「数が多いだけでは根拠になりません」
「なら、百冊を一人で読んだ人間を探すかい」
私は答えなかった。
せいは茶を一口飲み、湯呑みを机の端へ置いた。
「同じ本を百冊仕入れること自体は難しくない。出版社に頼めば届く。だが、同じページへ折り目をつけて、別々の場所へ持たせるのは別の仕事だ。売るなら、もっと早く売る。棚に並べるなら、背の焼け方を揃える。これは人の手を経由させるための並べ方だ」
「渡し物」
「そう。売り物じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、昨夜の梱包台が脳裏に浮かんだ。
百冊を外側へ向けた折り目。青い背表紙の列。紙紐の褐色の染み。誰かの声。
ここを開いたら、覚えておいて。
私は親指でページの端を擦った。紙のざらつきが皮膚へ残る。
「誰に渡したんでしょう」
「それを私に聞くかい」
「桜庭さんと長く付き合っていたなら、何か知っているはずです」
せいはすぐに返事をしなかった。
眼鏡を外し、布でレンズを拭く。店の外を、配達の自転車が通り過ぎた。濡れた路面をタイヤが擦り、音が遠ざかっていく。
「知っていることと、言えることは違う」
「その違いを、私は嫌います」
「嫌えばなくなるのかい」
「なくならないから、確かめるんです」
「確かめるために、誰かの沈黙を壊すことになるかもしれない」
「沈黙が記録を壊しているなら」
「記録は沈黙だけで壊れるんじゃない。急いで一つにまとめられたときにも壊れる」
せいは、机に置かれた本を一冊、私の側へ押した。
「お前は物を並べるのが得意だ。数字も、紙も、日付も、同じ種類なら一列にできる。だが、人間の記憶は本棚みたいにはいかない。昨日見たものと、十年前に見たものが、同じ重さで残るわけじゃない。怖かったものは大きくなり、守りたかったものは小さくなる。そこへ誰かが正しい順番を押しつけたら、本人が覚えていた形まで消える」
「それでも、何も残らないよりはいい」
「残っているよ」
「どこに」
「ここだ」
せいは第百四十二ページを指で押さえた。
「この折り目だ。誰がいつつけたか、まだわからない。何を意味するかもわからない。それでも、誰かがこのページを開いたという事実だけは残っている。まずはそれでいい」
私は折り目を見つめた。
せいの言葉は、私の考えを否定しているようで、実際には同じ場所へ向かっていた。ただ、私は物証を一つに集めようとし、せいは物証が語れる範囲を守ろうとしている。
「では、何から並べますか」
「匂いだ」
「匂い?」
「紙は場所を覚える。濡れた紙、乾いた紙、油を吸った紙。まずそれで分ける。そのあと傷。最後に日付。帳簿の数字は最後でいい」
私は本を三つの山へ分け始めた。
潮の匂いが残るもの。印刷所の粉を吸ったもの。乾いた室内に長く置かれたもの。
せいは黙って見ていたが、私が一冊を違う山へ置くと、定規で机を叩いた。
「そこじゃない」
「これは乾いています」
「乾いたから室内とは限らない。表紙の糊が浮いている。海風の湿気を一度受けて、急に乾いた跡だ」
「港で扱われたあと、別の場所へ移された?」
「たぶん、は嫌いだよ」
「では、断定できるまで保留にします」
「それができるなら、まだ見込みはある」
せいはそう言って、私の前に薄い紙片を置いた。
桜庭みちるの筆跡が残る返品票だった。端は何度も折られ、紙の中央に指の脂が黒く染みている。裏側には、細い青鉛筆の線が三本引かれていた。線と線の間隔は一定ではない。
「これも百冊のものですか」
「わからない」
「本の折り目と同じ線です」
「同じに見えるだけかもしれない」
「確認します」
私は本を開き、折り目の角度を紙片の線へ重ねた。三本の線のうち、二本は第百四十二ページの本文の行間と近い位置にあった。残った一本だけが、少し外れている。
その線の端に、黒い粉が付いていた。
「インクですか」
「印刷機の粉だね。古い活字を掃除したときに出る。三宅修司のところで使われていたものと似ている」
「三宅さんが関わっている?」
「また急ぐ」
「紙に根拠があります」
「紙は関わった手を示すだけだ。命令した頭の中までは示さない」
せいは紙片を取り上げ、光へ透かした。裏側に、薄い凹みが浮かび上がる。青鉛筆で書いた線のほかに、何かを強く書きつけた跡が残っていた。
「表に何か書かれていた」
「消した跡ですか」
「消したというより、上から別の紙へ写したんだろう。見ろ、繊維が潰れている」
私は紙片を受け取った。
透かして見ると、文字の一部が逆向きに浮かんだ。数字のようにも、住所の一部のようにも見える。最後の二画だけが妙に深い。私の指がそこへ触れたとき、頭の奥で白い光が弾けた。
濡れた木箱。
遠くの汽笛。
細い指が、私の手首をつかむ。
「透真」
せいの声がした。
私は顔を上げた。
「今、名前を呼びましたか」
「呼んだ。三度目だよ」
「すみません」
「謝るな。顔色が悪い」
「昔の匂いがしました」
「港かい」
「わかりません。ただ、紙を透かしたときに……」
言葉が続かなかった。私は記憶について話すのが苦手だった。空白があることは知っている。幼い頃、この町でひと夏を過ごしたらしいことも、家族から何度か聞かされている。けれど、その夏だけが、季節ごと切り取られたように残っていない。
記憶のないものを、あったと言われるのは不快だった。
ないはずのものが、身体だけに戻ってくるのは、もっと不快だった。
せいは紙片を私の手から取り上げた。
「無理に思い出そうとするな」
「思い出したいわけではありません」
「同じことだよ。忘れているものを追えば、追うほど形を変える」
「でも、この紙に私の記憶が触れている」
「それも、まだ断定するな」
せいは紙片を本の間へ挟んだ。
「お前が覚えているのは、匂いと手触りだけだ。それ以上は今のところない。だから、ないものを足すな。記録を読む人間が最初にやることは、空白を埋めることじゃない。空白の形を測ることだ」
私は手帳を開いた。
今日見つけたものを、順番に書く。
港の湿気。
印刷所の粉。
折り目の周囲に残る複数の手つき。
返品票の裏に移った線。
空白の文字。
私はそこで筆を止めた。
「名前を書くべきでしょうか」
「読めたのかい」
「読めません」
「なら、読めないと書け」
私は手帳に記した。
――紙片の裏に、読めない文字の凹み。三本の線。印刷所の粉。
せいは私の手帳を覗き込み、何も言わずに頷いた。
その頷きは、褒めるというより、私が勝手に先へ進まなかったことを確認するものだった。それでも私は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
店の奥で柱時計が九時半を打った。
私は残りの本を並べた。
潮の山、粉の山、乾いた山。そのそれぞれを、折り目の深さと周囲の擦れで細かく分けていく。作業が進むほど、本は一冊ずつ別の顔を見せた。誰かの家の湿気。印刷所の油。学校の黒板消しに似た粉っぽい匂い。指の跡。栞を抜いた傷。表紙の角に残る、爪の先ほどの白い欠け。
百冊は同じではなかった。
だが、第百四十二ページだけは、どの本にも同じように待たれていた。
昼近くになり、作業台の上に一本の線ができた。
それは時系列ではなかった。人から人へ渡る、見えない経路のようだった。
港に近い本の隣に、乾いた本が置かれる。そこから、栞の傷を持つ本へ移る。その先に、ページの折り目だけが深い本がある。
私は本を一冊、線の途中へ置いた。
表紙の裏に、薄い鉛筆で小さな丸が残っていた。
黒い丸。
昨夜、二冊だけに見つけた印と同じだった。
「せいさん」
「何だい」
「この丸は、日付ではありません」
「最初からそう言っている」
「場所の印です。折り目の深さと合わせると、同じ場所で開かれた本がまとまる」
「どうしてそう思う」
「丸のある本だけ、表紙の内側に同じ湿り方がある。けれど、傷は違う。人間は違う場所にいるのに、同じ場所の情報を受け取った」
せいは本を取り上げ、裏表紙を撫でた。
「それで?」
「百冊は、同じ出来事を記録しているんじゃない。出来事の一部を、別々の人間に受け渡している」
口にした瞬間、作業台の上の本が急に重くなった。
せいは、しばらく黙っていた。
「それがわかって、怖くなったかい」
「怖いかどうかは、まだわかりません」
「そういうところが、怖いんだよ」
彼女は黒い丸のある本を、私の手元へ戻した。
「人間のことがわからないから、物の順番だけを信じる。だが、物の順番を作ったのも人間だ。誰かが残した線を読むなら、その誰かが何を守ろうとしたのかまで見なきゃいけない」
「守るための記録が、隠すための記録になることもあります」
「あるね」
「それでも、並べます」
「なぜ」
私は本の端を揃えた。
折り目のあるページが、かすかに震えて閉じていく。紙は元へ戻ろうとしている。けれど、一度ついた癖は消えない。
「見つけたからです」
それだけでは足りない気がして、私は続けた。
「見つけたのに、なかったことにすると、見つけた自分まで消える。私はそれが嫌です。記憶がない場所を、また誰かの都合で空白にしたくない」
せいは私を見た。
厳しい目だった。けれど、追い返す目ではなかった。
「なら、手を止めるな。ただし、急いで答えを作るな」
「はい」
「それから、桜庭書房の本を全部運ぶ前に、店の帳簿をもう一度見ておいで。順番を作った人間は、必ずどこかに数を残す。百冊を百冊として扱わなかったなら、帳簿のどこかに一冊分の余白がある」
私は手帳にその言葉を書いた。
百冊を百冊として扱わなかったなら、一冊分の余白がある。
店を出る頃には、雨が上がっていた。
シャッターの隙間から、商店街へ白い光が落ちている。濡れた路面は海のように空を映し、歩くたび、靴底から水が細く鳴った。私は桜庭書房へ向かう路地を進んだ。
潮風が頬を撫でる。
その匂いに、また白い光が差した。
木箱。汽笛。細い指。黒い汚れ。
今度は、手首をつかまれたあとに聞こえた言葉が、ほんの少しだけ浮かんだ。
「この本を、みちるさんに……」
声の主はわからない。
私は足を止めなかった。
記憶は、追えば逃げる。けれど、記録は追わなくてもそこにある。私はそれを一冊ずつ拾い、順番を測り、空白の縁へ指を置いていく。
桜庭書房の前に着くと、シャッターの内側で、古い電話が鳴った。
一度だけ。
私は鍵を取り出した。
店の奥には、まだ七十冊の青い本が残っている。閉じたページのどこかで、誰かの指が押さえた時間が、紙の中に沈んでいる。
私は戸を開けた。
潮と紙の匂いが、昨日と同じように鼻の奥へ入り込んできた。
ただ、今日はその中に、印刷所の乾いた粉の匂いが混じっていた。
← 横にスクロールして読み進められます
