3話 紙の証言

翌朝、私はみどり文具店の前に立っていた。

商店街はまだ完全には目を覚ましていなかった。シャッターの降りた店が並び、昨夜の雨で濡れた路面に、アーケードの照明が細長く残っている。海から吹いてくる風は冷たく、軒先に溜まった水を撫でていた。濡れた木材と、どこかの店から流れてくる味噌汁の匂い。その下に、紙の湿った甘さがあった。

私は店の引き戸に手をかけた。

鍵は開いていた。

「入るなら、音を立てな」

中から声がした。

「立てないように開けました」

「戸の話じゃない。頭の中でだよ」

立花せいは、店の奥の作業台に向かっていた。眼鏡を鼻の低い位置にずらし、片手で納品票の束を押さえている。もう片方の手には細い定規があった。紙束の端を軽く弾き、張りを確かめている。

店内には、鉛筆、便箋、帳面、封筒、糊の瓶が隙間なく並べられていた。棚のラベルは古びているのに、どれも同じ高さに揃っている。埃は見当たらなかった。

「そこに置いて」

せいが指した作業台の端には、昨夜、桜庭書房から持ち出した『潮騒の輪郭』が一冊置かれていた。

私は本を置く前に、台の上の紙束を見た。納品票の角が数枚だけ、ほかよりわずかに前へ出ている。

「揃っていません」

「見ればわかる。だから直してる」

せいは定規で紙束の側面を押し、端を揃えた。次に、私が抱えてきた本を顎で示す。

「それを開ける」

私は表紙を撫でた。昨夜、百冊の中から一冊を抜き出して持ってきた。表紙の青はほかの本より暗く、背の下部に白い擦れがある。第百四十二ページの折り目は、ほかより深かった。

ページを開く。

古紙の匂いが立ち上がり、薄い潮の気配と混ざった。せいはルーペを取り出し、私の手元を覗き込む。

「指をどけな。そこじゃない」

「すみません」

「謝るな。邪魔になるなら動かせ」

私は指をページの外へ移した。

せいは折り目の脇に残る黒ずみを見つめた。紙の表面には、鉛筆の粉ともインクの滲みともつかない細い影がある。彼女は爪の先でそこを擦った。紙がわずかに鳴った。

「これは、何度も開いた跡ですか」

「違う」

「違う?」

「何度も開いたなら、折り目の両側に手垢が出る。これは一度、強く押さえられている。それから何年も、閉じたままだ」

「一度だけ?」

「一度だけとは言ってない。一度の動作でついた折り目を、そのあと本を閉じたまま保存した跡だよ。読むための折り方じゃない」

せいはページをめくり、綴じ目を確認した。第百四十二ページのあたりだけ、紙の端がほんの少し膨らんでいる。

「誰かが合図を残したんでしょうか」

「合図という言葉は便利だね。わからないものを、わかったふりで包める」

「では、何ですか」

「まだ言えない。紙は嘘をつかないけど、紙を見た人間が勝手に話を作ることはある」

せいは本を閉じ、表紙を裏返した。見返しには桜庭書房の蔵書印がある。ただし印影の右下がかすれていた。店の印は、これまでに見たものより少し大きい。

「この本、店で買ったものではない」

「帳簿には仕入れの記録があります」

「帳簿にあるのは本の数だ。どの本が、誰の手に渡ったかまでは書いていない」

「でも、蔵書印が」

「蔵書印は所有を示す。流れを示すものじゃない。お前、昨夜の本を全部同じだと思ってるだろう」

「同じ版です」

「版の話じゃない。扱われ方の話だよ」

せいは作業台の下から、細長い紙見本帳を取り出した。表紙は黒ずみ、角が擦れて丸くなっている。ページを開くと、異なる紙が小さく綴じられていた。紙の色、厚み、繊維の密度。せいは見本帳と本のページを交互に触れた。

「この一冊は、湿気の多い場所に長く置かれていた。倉庫の湿気だけじゃない。潮を含んだ風にさらされている。こっちは違う。紙が乾きすぎている。暖房のある部屋か、印刷所の乾燥棚の近く」

「同じ日に扱われたものではない?」

「同じ日に折られた可能性はある。でも、同じ日に同じ場所で折られたわけじゃない」

私は息を止めた。

百冊の本には、それぞれ異なる時間が染み込んでいた。表紙の擦れも、紙の波打ちも、栞の跡も、ただ読まれた回数を示しているのではない。誰かの手元に置かれていた場所を示している。

「一斉に扱われた痕跡はあるんですよね」

「折り目だけはな」

「なら、誰かが同じページを指定して、別々の人間に渡した」

せいはすぐには答えなかった。ルーペを作業台に置き、眼鏡を元の位置へ戻す。店の外を自転車が通り過ぎ、濡れた路面をタイヤが擦る音がした。

「その考えに、何が足りないかわかるかい」

「配布の目的」

「目的だけじゃない。渡した順番だ。誰が最初で、誰が最後だったのか。それがなければ、本はただの百冊だよ」

「帳簿に順番が残っているかもしれません」

「だから朝から呼んだ」

せいは納品票の束をこちらへ滑らせた。

「ただし、数字を追うだけじゃ足りない。紙の順番を見な」

納品票には、同じ品名が何度も記されていた。出版社名、冊数、日付。通常の仕入れなら、一度にまとまった数が書かれるはずなのに、『潮騒の輪郭』だけは二冊、三冊、五冊と小分けになっている。仕入れ先も一つではなかった。

私は日付を手帳へ写した。

六月三日。六月六日。六月十一日。六月十八日。

昨夜、帳簿で見つけた日付と重なる。

「仕入れが分かれている」

「そう見える」

「実際には?」

「返品票を出しな」

私は棚の下から箱を引き出した。紙紐は古く、触れると粉のような繊維が指に付いた。せいが小さなカッターナイフを差し出す。

「刃を寝かせて。紙紐を切るんじゃない。結び目を起こす」

「こうですか」

「持ち方が悪い。指を切るよ」

せいが私の手首をつかみ、刃の角度を直した。指先は細く冷たかったが、力の入れ方に迷いがなかった。私は言われた通りに刃を滑らせた。結び目がほどけ、束がゆっくり崩れる。

返品票を日付順に並べる。

その中に、納品票にはない日付が挟まっていた。六月七日、六月十二日、六月十九日。すべて一冊ずつ。返品理由の欄には、同じ筆跡で「店頭整理」とだけ書かれている。

「返品されたのに、また出ている」

「返品じゃない」

せいは紙を指で押さえた。

「この紙は返品票の用紙じゃない。桜庭書房の店内で使う控えだ。印刷所から届いた端紙を、みちるが切って作ってる」

「でも、返品票の束に混じっています」

「混ぜたのは、みちるだろうね」

「なぜ」

「知らないよ。死んだ人間に聞けるなら、私はこんな店を一人で守ってない」

せいは吐き捨てるように言ったが、紙を扱う手つきは丁寧だった。

私は控えの裏側を見た。薄い鉛筆の跡が残っている。数字のようにも見えたが、よく見ると、短い線が何本か並んでいた。一本、二本、三本。途中で間隔が変わっている。

「これは時間ですか」

「そう思う理由は」

「日付の間隔と、線の本数が対応している」

「対応しているように見えるだけかもしれない」

「確認できます」

私は納品票、返品票、帳簿の該当箇所を並べた。紙の端を揃え、日付を上から順に書き出す。六月三日、六月六日、六月七日、六月十一日、六月十二日、六月十八日、六月十九日。

日付の差は、三、 一、 四、 一、 六、 一。

一日だけ空けずに続く日がある。

「一日後に必ず一冊が動いている」

私が言うと、せいの定規が机を叩いた。

「そこじゃない」

「違いますか」

「一日後に動いたんじゃない。一日後に、前の日の記録を別の紙へ移している」

「どうしてわかるんです」

「インクの沈み方だよ」

せいは六月七日の控えを持ち上げた。

「これは書いた紙を別の紙に重ねて、上からなぞっている。鉛筆の跡が裏へ移っているだろう。つまり、ここにある線はその日に書かれたものじゃない。前の日に書かれた文字を、写した跡だ」

私は紙を斜めに傾けた。窓から入る光が繊維の凹みを拾い、薄い線を浮かび上がらせた。

みちるは、何かを一度書き、別の紙へ写していた。記録を増やすためではない。元の紙を残さないために。

「転記した理由は?」

「元の記録を隠すためか、守るためか。どちらも同じ手つきになる」

せいはそこで言葉を切った。

店の奥に置かれた古い柱時計が、九時を告げた。音が一つずつ落ちるたび、紙の上にある空白が広がっていくようだった。

「みちるは、何かを記録していたんですね」

「何か、じゃない。誰かだ」

「誰かの名前が?」

「名前だけなら、もっと簡単だよ」

せいは『潮騒の輪郭』を再び開いた。折り目のあるページを親指で押さえる。紙がほどけようとして、微かな抵抗を返す。

「この折り目は、人が本を読んだ証拠じゃない。人が、読むように仕向けられた証拠だ」

「仕向けられた?」

「誰かから本を渡されて、ここを開けと言われた。あるいは、ここを開いた者だけが同じことを知るようにされていた。だが、全員に同じ説明をしたわけじゃない。説明を少しずつ変えたんだろう」

「だから証言が食い違う」

「証言が食い違うんじゃない。最初から、食い違う形で記憶を置かれたんだよ」

私はページの余白に残された一文を見た。

――人は、見たものではなく、見なかったことによって海を覚える。

昨夜から、何度も読んでいる文章だった。けれど、せいの言葉を聞いたあとでは、別の意味が浮かんだ。

見なかったことにしたのではない。見たものを、見なかったことにするための仕組みがあった。

「早瀬さんも、同じ本を持っていました」

「知ってる」

「三宅さんも」

「知ってる」

「二人とも、誰から受け取ったかを言わない」

「それだけで疑うのかい」

「疑っているというより、理由を確かめたいんです」

「理由を確かめるために人へ近づくときは、自分が正しい側にいると思わないことだね。正しさは、相手の沈黙を簡単に踏み越える」

「でも、沈黙したままでは記録が戻りません」

私の声が少し強くなった。

せいは私を見た。叱るでもなく、慰めるでもない目だった。

「戻すって、どこへだい」

「事実のある場所へ」

「事実は一つの場所に置けるほど軽くない。誰かが失踪して、誰かが見て、誰かが見なかったことにした。その全部を一枚の紙にまとめたら、救われる人間ばかりだと思うかい」

「では、記録を散らしたままにするんですか」

「私はそんなことを言っていない」

せいの声が低くなった。

「紙に残すことと、紙にまとめることは違う。散らして残すしかないものもある。みちるはたぶん、それを知っていた」

「それでも、散らされたままなら、誰かが都合よく並べ替えられる」

「その通りだよ」

せいは目を伏せた。

「だから、並べ直せる人間が必要になる。お前がここへ来たのは、偶然かもしれない。でも、紙の端ばかり見ている人間が、こういう場所には必要なんだ」

私は返事をしなかった。

胸の奥に、昨夜の光景が戻ってきた。濡れたコンクリート。港の木箱。細い指。黒い汚れのついた爪。手首をつかまれた感触。

その記憶は、まだ私のものだと断言できなかった。

せいが、作業台の隅に置かれた小さな栞を取った。押し花が紙の中で褐色になっている。裏面には、薄い青インクで短い線が一本だけ引かれていた。

「これを、みちるから預かった」

「いつですか」

「お前が本を見つける少し前だよ」

「何と言って渡されたんです」

「何も」

「何も?」

「みちるは、説明が必要なときほど黙る人だった。栞を私の手のひらへ置いて、紙の端を一度揃えた。それだけだ」

「それで、意味がわかったんですか」

「わからないから持っている」

せいは栞を本の第百四十二ページへ挟んだ。

「わからないものを、わからないまま残すのも記録だ。すぐ意味を決めると、あとで本当に見たものが消える」

その言葉が、私の中に長く残った。

みどり文具店を出ると、雨は上がっていた。商店街のシャッターが一枚、また一枚と上がっていく。金属の擦れる音が通りに連なり、閉じていた街がゆっくり息をし始める。

私は桜庭書房へ戻る道を歩いた。

古い長屋の壁には雨の筋が残り、路地の水たまりに空が細く映っている。港へ向かう風は、濡れた砂と古紙の匂いを運んでいた。足元の水を避けながら歩いていると、昨日見た靴跡のことを思い出す。

店から遠ざかり、港へ向かっていた足跡。

あれは誰のものだったのか。

思い浮かべようとすると、頭の奥に白い光が差した。私は足を止めた。耳の奥で、船の汽笛が鳴った気がする。

けれど、通りには自動車の音しかなかった。

桜庭書房の前では、シャッターが半分だけ開いていた。鍵を差し込もうとしたとき、店内から電話が鳴った。

一度。

短く、乾いた音だった。

私は鍵を持ったまま動けなかった。

受話器を取るべきか迷った。誰もいないはずの店で、誰かがこちらの到着を知っているような鳴り方だった。

二度目の音が鳴る。

私は戸を開け、レジへ向かった。

黒い電話の受話器を持ち上げる。耳に当てる前から、回線の向こうに海の音があるような気がした。

「もしもし」

返事はなかった。

ただ、遠くで紙を擦る音がした。

私は受話器を耳から離し、コードの根元を見た。壁の差し込み口には、細い砂が溜まっている。昨日、紙片に付いていたものと同じ色だった。

受話器の向こうで、誰かが息をした。

声にはならない、短い呼吸だった。

私はもう一度、問いかけた。

「誰ですか」

今度は、女の声がした。

「その本を、返さないで」

声は低く、ひどく遠かった。

「どの本ですか」

「百冊あるでしょう」

回線の向こうで、何かが倒れた。紙箱か、椅子か。音はすぐに消えた。

「あなたは、誰ですか」

私がそう言ったとき、電話は切れた。

受話器を戻すと、指先に黒い粉が付いていた。インクのような粉だった。私は手帳を開き、端を揃えたあと、そこへ一行を書いた。

――百冊は、渡された。

書き終えてから、私はペン先を止めた。

その下に、もう一行を加える。

――誰が、誰に渡したのかは、まだわからない。

紙の上に残った二つの文は、同じ大きさで並んでいた。けれど、後ろの一行には、どこか逃げるための余白があった。まるで誰かが、そこだけ最初から書かないつもりで残していたように。

店の奥では、百冊の本が静かに閉じていた。

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