2話 百冊の潮騒

最初の一冊を棚から抜くと、後ろの本がわずかに傾いた。

私は反射的に手を添えた。箱の奥へ落ちていくと思ったが、本は棚板の端で止まり、背表紙だけをこちらへ向けた。青い表紙に、白い文字が浮かんでいる。

『潮騒の輪郭』。

文庫本だった。題名に覚えはなかった。けれど、表紙の青には見覚えがあるような気がした。海水を薄く溶かしたような青。日焼けの境目が、波打ち際の線に似ていた。

私は本を開いた。

ページをめくるたび、乾いた音が狭い倉庫の中で重なった。紙は古く、指の腹に細かなざらつきが残る。何ページか進んだところで、指先が引っかかった。

第百四十二ページ。

右上の角が、内側へ折られている。

折り目は新しくなかった。けれど、ただ読者がしおり代わりに折ったものとも違った。紙を折ったあと、指で何度も押さえたような硬さが残っている。折り目をほどこうとすると、紙が元の形へ戻ろうとして、ほんのわずかに抵抗した。

私は折れたページを机の上に伏せた。

その下の本を抜いた。

同じ青。同じ題名。同じ出版社の印。

第百四十二ページを開く。

同じ角度で折れていた。

私は二冊を並べ、さらにその下から三冊目を抜いた。三冊目にも折り目があった。四冊目、五冊目。数える手が止まらなくなった。

十冊を並べたところで、私は一度立ち上がった。腰が痛んだ。倉庫の裸電球が頭上で小さく唸っている。扉の向こうから、商店街を走る自転車の音が聞こえた。誰かの笑い声が遠ざかり、すぐに静かになる。

私はまたしゃがみ込んだ。

二十冊。

三十冊。

どの本も、第百四十二ページだけが折れていた。

折り目の幅も、角度も、ほとんど変わらない。表紙の褪せ方や背の傷は一冊ずつ違うのに、そこだけは同じ人間の手が触れたように揃っている。

四十冊を数えたとき、背後で紙箱が軋んだ。

振り向いても、積み上がった箱しかない。底の段が湿気で膨らみ、重さに耐えかねて少しずつ沈んでいる。私は目を離さずにいたが、何も動かなかった。

五十冊。

指先に汗がにじんだ。私は手帳を取り出し、冊数を書いた。数字の五を書いたあと、線がわずかに震えていることに気づいた。書き直そうとして、やめた。

震えた線も記録の一部だった。

六十冊、七十冊、八十冊。

その頃には、棚の下に身体を横たえなければならなくなっていた。埃がシャツの袖に付着する。鼻の奥へ入り込んだ古紙の匂いが、海の湿った臭いと混じった。どこかで嗅いだことのある匂いだった。

港の朝。

そう思った瞬間、頭の中に白い光が差した。

濡れたコンクリート。積み上げられた木箱。遠くで鳴る船の汽笛。誰かの手が、私の手首をつかんでいる。指が細い。爪の先に黒い汚れがある。

私は本を落とした。

床に当たった表紙が、ぱたんと鳴る。

映像はすぐに消えた。残ったのは、倉庫の暗さと、手首にまとわりつく古い感触だけだった。

私は息を整え、落ちた本を拾った。

九十冊。

最後の十冊は、棚の奥に紙紐で束ねられていた。紐は硬く乾いていて、結び目に褐色の染みがある。切るための鋏を探したが、見つからなかった。仕方なく、紐の端を指で少しずつ緩めた。

紙紐が擦れる音は、誰かの小さな咳に似ていた。

百冊。

私は一冊ずつ、机の上へ運んだ。机と呼べるものではなかった。古い梱包台の天板で、表面にはインクの染みと、何度も刃物を入れた傷が残っている。それでも本を置くと、台は不思議なほど平らに受け止めた。

百冊の第百四十二ページを開き、折り目を外側へ向ける。

青い背表紙の列が、倉庫の薄い光を吸い込んでいた。

折り目だけが白く見える。

私は最後の一冊を開いた。ページの上部には本文が印刷されている。そこに、細い線のような文章があった。

――人は、見たものではなく、見なかったことによって海を覚える。

私はその一文を読んだ。

意味はすぐには入ってこなかった。けれど、折り目は本文の一行の余白にかかっている。誰かが本を閉じるたび、その文章のそばが押さえられていた。

私は折り目をほどいた。

紙が、かすかに鳴った。

その音に、誰かの声が重なった気がした。

「ここを開いたら、覚えておいて」

女の声だった。

幼い声ではない。けれど、誰の声なのかはわからない。私は本から顔を上げた。裸電球が揺れている。風はない。

「誰ですか」

自分でも、なぜそんなことを尋ねたのかわからなかった。

返事はなかった。

百冊のうち、何冊かには栞が挟まっていた。青い紙、茶色く変色したレシート、子ども向けの動物柄、細長い便箋の切れ端。どれも第百四十二ページの近くにあり、栞の幅や厚みだけが違っている。

見返しには、薄い鉛筆跡があった。

店の蔵書印が押されているものもあれば、何もないものもある。購入日が書かれた本もあった。日付は一年のうちに集中しているが、同じ日ではない。数日置きに一冊、また別の週に二冊。ばらばらに見えて、ばらばらではない。

私は赤鉛筆を握ったまま、日付を手帳へ写した。

六月三日。

六月六日。

六月十一日。

六月十八日。

その並びを見ていると、胸の奥がゆっくり締まってきた。数字の間隔に規則があるように思えたが、まだ計算できない。私は一度、日付を逆から読み直した。

六月十八日。

六月十一日。

六月六日。

六月三日。

どちらに並べても、最後の二冊だけが余る。

その二冊には、日付の代わりに小さな丸が記されていた。

片方の丸は黒く、もう片方は薄い赤だった。

見返しの中央には、名前がひとつ書かれている。

インクが消えかけていた。

文字の下半分は、湿気で滲んでいる。最初の一文字は「高」に見えた。次の文字は、縦線が二本あるようにも、別の字の払いが残っているようにも見える。私は顔を近づけた。

紙の繊維が毛羽立っていた。

消しゴムで消された跡ではない。何度も指で擦られたために、表面だけが薄くなっている。名前を消そうとしたのか、逆に残そうとしたのか判断できない。

私は手帳に、読めた形のまま書いた。

高――。

ペン先を止める。

港で聞いた声が、また記憶の底から浮かびかけた。

「高瀬さんが来るまで、ここにいるんだよ」

誰かがそう言ったような気がする。

けれど、私はその名前を知っている。

高瀬宗一。港の運送会社で働く男。商店街の行事ではいつも荷物を運び、年寄りに頼まれれば買い物も代わる。私がこの町へ来てからも、何度か顔を合わせていた。声を荒らげることがなく、話し相手の目を見て、相手が言いにくそうにしていることを先に引き取る人だった。

私は本を閉じた。

今ここで名前をつなげるのは、早すぎる。

そう思ったのに、手帳へ書いた「高――」の文字は消せなかった。

倉庫の外で、床板が鳴った。

誰かが店の中を歩いている。

私は立ち上がり、百冊を見回した。棚の下から運び出した本は、梱包台の上で広がっている。隠し直すには時間がかかる。私は手近な箱を引き寄せ、数冊を戻そうとした。

そのとき、店の奥から電話の音が聞こえた。

短く、一度だけ鳴った。

私は動きを止めた。

倉庫の外へ出る。狭い通路の先に、書店の店内が見えた。レジ脇の黒い電話が、受話器を下げたまま沈黙している。コードは壁につながっているが、電話機の表示灯は消えていた。

二度目の呼び出し音はなかった。

店内には誰もいない。

私はレジへ近づいた。電話の横に、紙片が一枚落ちている。拾い上げると、湿気を吸った紙が指に貼りついた。

表には何も書かれていない。

裏返すと、青いインクで数字がひとつだけ残っていた。

百四十二。

数字の周囲には、細い砂が付着している。私は紙片を手帳の間へ挟んだ。挟む前に、端を揃えた。

外で足音がした。

シャッターの向こうから、こちらへ近づいてくる。歩幅はゆっくりしていた。立ち止まる気配があり、次に、靴底が商店街の床を擦った。

私は入口へ向かった。

シャッターは半分しか開いていない。外はもう夕暮れで、アーケードの照明がひとつずつ点き始めている。長屋の壁に挟まれた空気は薄紫色になり、海の方から湿った風が流れてきた。

通りには、人影がなかった。

けれど、シャッターの脇の埃には、細い靴跡が残っていた。店へ入るものではなく、店から遠ざかっていく跡だった。

その先は、港へ向かう路地に続いている。

私は靴跡を目で追った。足跡は三つ、四つと続き、角を曲がったところで途切れている。風が強くなり、砂が乾いた音を立てて路地を走った。

背後で、倉庫の中の本が一冊、倒れた。

私は振り返った。

梱包台の上で、百冊の青い本が揺れている。倒れた一冊だけが、第百四十二ページを開いていた。

折り目のある余白に、細い鉛筆の線が一本引かれている。

それは文章を指す線ではなかった。ページの端から端まで、余白を横切っていた。線の先は、本文の一文で止まっている。

――波は、戻る場所を忘れない。

私は線を指でなぞった。

紙は乾いていた。だが、その一部分だけがわずかに冷たかった。

古い書店の空気の中で、忘れていた夏が、遠くからこちらへ歩いてくるように感じた。まだ顔は見えない。声も聞こえない。ただ、濡れた砂を踏む足音だけが、何度も同じ場所から響いていた。

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