1話 閉店した店の匂い

戸を開けた瞬間、潮と紙の匂いが鼻の奥へ入り込んできた。

甘いようでいて、舌の付け根には乾いた苦みが残る。長く閉ざされた部屋の空気に、海辺特有の湿り気が混じっている。埃を吸い込んだ喉が、細かな砂を押しつけられたようにざらついた。

私は入口の脇に立ったまま、しばらく中へ入れなかった。

桜庭書房の看板は、商店街のアーケードから外れた壁にまだ掛かっていた。青地に白い文字で店名が記されているが、塗料はところどころ剥がれ、桜庭という文字の「庭」のあたりだけ、雨だれの跡が黒く伸びている。シャッターは半分まで上げられ、古い金属が風に揺れて、かすかな音を立てていた。

「日高さん?」

背後から声がした。

振り向くと、商店街の管理をしている男が、鍵の束を片手に立っていた。五十代くらいで、作業着の胸ポケットから折れた煙草の箱が覗いている。

「入れます。電気は、奥の一部だけつくはずです。明日から解体の下見も入るので、できれば今週中に大まかな仕分けを」

「承知しました」

私は受け取った鍵を見た。大きさの違う鍵が六本、細い輪に通されている。そのうち一本だけ、ほかの鍵より小さな輪がついていた。

「これは?」

「倉庫じゃないですかね。桜庭さん、そこだけ別にしていましたから」

「開けていいんですか」

「在庫整理のために来てもらっているんです。危険なものはないと思いますよ。ただ、古いから気をつけて」

彼はそう言って、開きかけたシャッターの下をくぐった。私は少し遅れて店内へ入った。

照明をつけると、天井の蛍光灯が二度瞬き、白い光を床へ落とした。明るくなったはずなのに、店の奥は薄暗いままだった。棚が高く、通路が狭い。背表紙の列が何本も並び、途中で光を吸い込んでいる。

桜庭みちるが亡くなったのは、三週間前だった。葬儀には出ていない。私はこの町に長く住んでいるわけではないし、店主の顔を知っていたのも、何度か本を買ったことがあるという程度だった。それでも、閉店の知らせを聞いたとき、胸の中に小さな空席ができたように感じた。

店には、人がいなくなった後にだけ現れる静けさがある。

生活音が消えた静けさではない。音を立てていた人間の手つきだけが、物の配置に残っている静けさだ。

入口近くの平台には、文庫本が積まれていた。背の高さは揃っているが、紙の焼け方は一冊ずつ違う。私は段ボールを脇へ寄せ、上から三冊を持ち上げた。

紙の端が、指の腹に軽く引っかかった。

湿気を吸った本は、表紙がわずかに膨らむ。乾燥した本は背が硬く、ページを開くと戻ろうとする。値札の糊が古くなったものは、剥がした跡だけが紙の色を変えている。私はそういう差を、目で見るより先に指で感じることが多かった。

三冊目の背表紙を撫でたとき、ほかの二冊と手触りが違うことに気づいた。表紙の角が少し丸い。何度も棚から出し入れされた本だろう。

私は三冊を平台に戻し、角を揃えた。

向かいの棚にも、同じような乱れがあった。上から二段目だけ、背表紙が数ミリずつ前へ出ている。誰かが急いで戻したのかもしれない。私は一冊ずつ押し込み、棚の縁と背の線を合わせていった。

作業をしていると、店の奥から紙を擦る音が聞こえた。

誰かいるのかと思って顔を上げたが、音はもう止んでいた。風がどこかの紙を動かしただけだろう。私はそう決めて、作業に戻った。

レジの横に、黒い電話が置かれていた。古い受話器の表面には細かな傷があり、コードは壁の差し込み口へつながっている。閉店した店に、電話だけがまだ残っている。そのことが妙に気になった。

受話器に触れると、冷たかった。

私は手を離した。

「電話、線は抜かないでくださいね」

管理人の男が、奥の事務机から声をかけた。

「まだ使えるんですか」

「さあ。桜庭さんは最後まで置いていましたけど。常連さんからかかってくることもあったんじゃないですか」

「閉店してからは?」

「鳴ったことがある、とは聞きました。ただ、誰がかけたかまでは……」

男は言葉を濁し、机の上にあった紙束を段ボールへ移し始めた。私は電話を見たまま立っていた。

誰もいない店の電話が鳴ることを、私は嫌いではない。音が鳴れば、少なくともその場所が完全には切り離されていないとわかるからだ。ただ、鳴った後に誰も出ない電話には、物の音とは違う不気味さがある。

私は気を取り直し、事務机の帳簿を開いた。

朱色の表紙は擦れて白くなっていたが、背の部分だけは手垢で濃くなっている。綴じ糸は緩んでいない。古い帳簿には珍しいほど保存状態がよかった。

最初のページには、品名と日付が細い字で並んでいた。数字の書き方は一定している。桜庭みちるの筆跡を私は知らなかったが、記入者が同じ人間であることはすぐにわかった。数字の七だけが、わずかに左へ傾いている。

私は赤鉛筆を取り出した。仕事用にいつも使っている、軸の塗装が剥げたものだ。

帳簿と棚の在庫を照合しようとして、私は最初の違和感に気づいた。

売上欄の数字と、仕入れ欄の数字が合わない。合計を間違えたというほど大きな差ではない。数冊分のずれだった。けれど、そのずれが一ページだけではなく、数か月分に同じように残っている。

私は日付を追った。

ある月の途中から、記入欄の余白が広くなっている。それ以前は文字が罫線の近くまで詰まっているのに、その月だけ、右側に妙な空きがあった。書き忘れたというより、最初から書かない場所として残されているように見える。

「桜庭さんの帳簿、そこまで見なくても大丈夫ですよ」

管理人が言った。

「在庫と帳簿が合わないので」

「古い店ですからね。返品とか、貸し出しとか、そういうのもあったでしょう」

「貸し出しは売上とは別に記録するはずです」

「そこまで厳密にしなくても、最後は廃棄か買い取りです。解体の人も来ますし、細かいところに時間をかけると……」

「細かいところが合わないと、全体の数が確定できません」

男は困ったように笑った。私はその笑い方を見て、これ以上言っても仕方がないと思った。

曖昧な説明は、私の中に長く残る。人が何気なく流した数字や、片づけられた紙の端が、後になって何度も意識へ戻ってくる。だから私は、気づいたものをその場で書き留めることにしている。見なかったことにするには、私の記憶は少し細かすぎた。

店内の作業を続けた。

棚から本を下ろし、売り物、返品予定、買い取りに回すもの、廃棄するものに分ける。作業そのものは単純だったが、桜庭書房には本の置き方に独特の癖があった。ジャンル別に分けられているようで、実際には出版社の棚を越えて並んでいる本がある。背の色、厚み、刊行時期。みちるは分類よりも、本を手に取る人の動きを考えていたのかもしれない。

棚の一角に、児童書がまとまっていた。

その前には小さな椅子が一脚置かれている。座面は擦れていて、背もたれの隙間に鉛筆の削り屑が残っていた。誰かがここで本を読み、みちるは片づけずにいたのだろう。

私は椅子を棚へ寄せた。

そのとき、店の奥で何かが落ちた。

乾いた音だった。薄い板か、空の箱の蓋が床へ倒れたような音。私は赤鉛筆を机に置き、通路を進んだ。

奥へ行くほど、海の匂いが強くなった。入口では紙の甘さが勝っていたのに、今は潮の塩気が喉へまとわりつく。窓は閉まっている。壁にひびが入り、その隙間から湿気が入っているらしい。

突き当たりに、古い扉があった。

扉の上には、手書きで「旧倉庫」と書かれた札が掛かっている。札の角は反り返り、文字の周囲だけ日焼けしていた。鍵穴の下には、細い引っかき傷がいくつもある。

鍵はかかっていなかった。

私は扉の取っ手へ手を伸ばした。金属に触れると、ひやりとした感触が指へ移った。鍵束の小さな輪が、ポケットの中で硬く鳴る。

管理人は、倉庫を見ておけと言った。けれど、扉の前に立つと、ただの確認という言葉では足りない気がした。

扉の下から、冷たい空気が流れている。

床には埃が積もっていたが、扉のすぐ前だけ、細い筋のように埃が途切れている。誰かが最近、ここを開けたのだろうか。指先で床をなぞると、埃の下に硬い砂粒がいくつか混じっていた。海から運ばれた砂だった。

私は鍵束から、小さな輪のついた鍵を選んだ。

鍵穴に差し込む。抵抗はほとんどなかった。

扉を押すと、蝶番が低く鳴った。

中には、天井近くまで紙箱が積まれていた。段ボールは湿気を吸い、底の部分がゆっくり沈んでいる。箱と箱の間には、人ひとりがようやく通れるほどの隙間しかない。

暗がりの奥で、何かが白く浮かんでいた。

私は照明の紐を探した。指先が壁を撫でる。ざらついた塗料の下に、細い埃の線があった。紐を引くと、裸電球が一度だけ明滅し、弱い光を落とした。

その明かりの下で、私は息を止めた。

箱の奥、壁際の低い棚に、同じ青い背表紙が何本も並んでいる。

まだ題名までは読めなかった。ただ、背の高さも、色の並びも、あまりに揃っていた。

私は一歩、倉庫の中へ入った。

後ろで扉が、ゆっくり閉じた。

潮と紙の匂いが、外の空気を遮るように濃くなった。私は暗い棚へ手を伸ばした。指先が最初の一冊の背に触れたとき、紙の奥から、ほどけかけた糸のような抵抗が返ってきた。

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