第10話 折り目の時刻

三宅印刷を出ると、坂の下から海の匂いが上がってきた。
風は弱かった。けれど、港の方角から運ばれてくる湿気が、シャツの袖口にまとわりつく。私は手帳を閉じ、表紙を親指で押さえた。
――本より先に、人の顔が動いていた。 ――高瀬宗一は、あの日、誰かを支えていた。
書き留めた二行が、紙の上で離れずにいる。
修司は、最後までその「誰か」の名前を言わなかった。言えなかったのかもしれない。だが、彼の話からひとつだけ確かなことがあった。
本の搬出時刻は、港の荷の動きに合わせて決められていた。
六月六日、午後三時。 六月十一日、午後四時二十分。 六月十八日、午後二時五十分。
それぞれの時刻に、誰かが港から商店街へ移動している。あるいは、商店街から港へ戻っている。百冊の本は、その道筋の途中へ置かれた。
私は坂を下りながら、文庫本の折り目を思い出していた。
百冊すべてが、第百四十二ページの同じ行で折られている。だが、折り目の角度は完全には同じではなかった。上から下へ押されたもの。下から上へ返されたもの。ページの端だけをつまんだもの。
これまで私は、それを持ち主の癖だと思っていた。
しかし、もし違うなら。
折り目は、触れた人間ではなく、触れた時刻を示しているのではないか。
桜庭書房へ戻ると、店内は朝より暗くなっていた。商店街のシャッターが半分ほど下ろされ、隙間から入る光が棚の背に細長く伸びている。埃がその光の中を漂い、紙の粉のように見えた。
私は旧倉庫から『潮騒の輪郭』を十冊だけ運び出した。机の上に並べ、折り目の向きを一冊ずつ確認する。
最初の本は、ページの右上が内側へ折れていた。
二冊目は、右下。
三冊目は、左上。
四冊目は、左下。
ばらばらに見える。だが、時刻順に並べ直すと、同じ向きが一定の間隔で現れた。
私は港町の時刻表を広げ、その横へ搬出記録を置いた。
午後二時五十分。右上。 午後三時。右下。 午後三時二十分。左上。
折り目の向きが、時計の針の位置と重なっている。
私は椅子から立ち上がった。
ページの中央に印刷された一文を見た。
――人は、見たものより先に、見なかったものを覚えている。
その一文の上で、紙がわずかに盛り上がっていた。折り目ではない。爪の先で押された、小さな半円形の跡だった。
「時計……」
声にすると、あまりに単純だった。
百冊の本は、受け取った人間を示しているだけではない。ページの折り目の向きが、それぞれの本が渡された時刻を記録している。搬出記録と港の便を重ねれば、誰がどの時間帯にどこへいたかが見える。
だが、折り目の向きだけでは、時刻を一つに絞れない。
私は本を裏返した。
見返しの端に、薄い灰色の汚れがある。指でこすると、細かな粒が落ちた。印刷所の粉ではない。もっと白く、ざらついている。
港の岸壁に撒かれている、滑り止めの砂に似ていた。
そのとき、店の電話が鳴った。
古い黒い受話器が、棚の影で震えている。
一度。 二度。 三度。
私はすぐには取らなかった。前に聞いた女の声が、耳の奥で重なった。
――その本を、返さないで。
四度目の呼び出し音が鳴ったところで、私は受話器を取った。
「日高です」
返事はなかった。
遠くで、何かを擦る音がしている。紙を机の上で揃える音だった。
「もしもし」
「……あなたは、折り目を時刻にしましたか」
早瀬由乃の声だった。
私は受話器を握り直した。
「なぜ、それを知っているんです」
「知っているわけではありません。あなたなら、そこへ行くと思っただけです」
「どこへですか」
少し間があった。
由乃は、いつも言葉を選ぶ。その間が、今回は妙に長かった。
「旧港の第六倉庫です」
港の時刻表に記された、古い荷下ろし場の番号が頭に浮かんだ。六月六日の第三岸壁とは別の場所だった。
「何があるんですか」
「何かがあるのではありません。何かが、なかったことになっています」
「あなたは、そこへ行ったことがある」
「……はい」
「いつですか」
「失踪した人が、最後に見られた日の夕方です」
電話の向こうで、由乃が息を吸った。
「高瀬さんは、誰かを支えていたのではありません」
私は机の上の本を見た。
右下へ折れたページが、夕暮れの光を受けて白く浮かんでいる。
「では、何をしていたんですか」
「支えられていたのは、高瀬さんの方です」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
「その人は、もう歩ける状態ではなかった。だから高瀬さんが、肩を貸していた。私は第六倉庫の裏口から、それを見ました」
「誰だったんです」
「顔は見ていません」
「また、ですか」
「見なかったのではありません。見せてもらえなかったのです」
由乃の声が、初めて震えた。
「その人の手に、本がありました。『潮騒の輪郭』です。第百四十二ページが開いていて、折り目は左下でした」
私は時刻表へ目を落とした。
左下の折り目に対応する時刻は、午後四時二十分。
その時間、港の第三岸壁ではなく、第六倉庫の裏で、誰かが本を開いていた。
「由乃さん、その本はどうなったんですか」
「高瀬さんが持っていきました」
「どこへ」
「桜庭書房へ」
店の奥で、何かが落ちた。
私は振り返った。誰もいない。けれど、旧倉庫へ続く戸が、数センチだけ開いている。
「日高さん」
由乃の声が受話器の中で細くなった。
「第六倉庫へ行くなら、ひとりでは行かないでください」
「なぜです」
「そこには、まだ本が一冊残っています」
「百冊とは別に?」
「百冊の中に入れられなかった本です」
電話が切れた。
私は受話器を戻し、机の上の本を見た。
百冊の折り目は、ばらばらの時刻を記録している。けれど、由乃が見た一冊だけは、その流れから外されていた。
私は旧倉庫へ向かった。
戸を開けると、暗がりの奥で、紙が擦れる音がした。
棚の一番下に、見覚えのない文庫本が一冊、背をこちらへ向けて置かれている。
表紙には、海水で濡れた跡があった。
私はそれを取り上げた。
第百四十二ページが、すでに開かれていた。
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