9話 ちゃんとって何

体育館の確認を終えると、開場までの時間はもう数えるほどしか残っていなかった。廊下には、受付の案内を書いた紙が貼られ、教室の戸口には各クラスの手作りの看板が並んでいる。私は舞台袖の手伝いを頼まれ、渡り廊下を急いだ。

渡り廊下の途中、律がいた。

台本を片手に、天井近くの照明の位置を睨むように見上げている。もう片方の手には赤インクのペンを持ち、台本の余白に何かを書き足しては、また照明のほうへ視線を戻す。腕には舞台係の赤い腕章。昨日までの制服と同じはずなのに、律だけはすでに文化祭の只中に立っているように見えた。

「何か手伝う?」

私が声をかけると、律は視線を上げるなり、迷いのない声で答えた。

「照明、一つずれてる」

それだけだった。天気の話をするのと同じ調子で、必要なことだけを置いていく。私が用意していた「お疲れさま」も「大変そうだね」も、行き場を失って喉の奥に残った。

「あの……何をすればいい?」

「そこの脚、養生テープで固定して。動くと危ない」

律は照明機材の足元を顎で示した。私はしゃがみ込み、鞄を近くの壁際へ置いてから、テープの端を探した。指先で少し引っかけ、まっすぐに切る。角を揃え、機材の脚の継ぎ目に沿わせる。名簿の欄を整えるのと同じ手つきで、私は紙よりも重いものの上に線を引いた。

律は私の手元を見下ろしていた。何も言わないまま、しばらくそこに立っていた。

「そのやり方、無駄がない」

ぽつりと言われて、私は手を止めた。

「え?」

「テープの貼り方。一発で決めてる。私、あちこちで見てきたけど、大抵の人はやり直すか、余らせるか、足りなくて継ぎ足す。雫は最初から必要な分だけ切ってる」

それが褒め言葉なのか、単なる事務的な感想なのか、私にはすぐには分からなかった。けれど、律の言い方には無駄な修飾がない。まっすぐな言葉が、変に飾られていないぶん、妙にまぶしかった。

「……そうかな。私、こういうのしか、うまくできないから」

言ってしまってから、口の中に苦い味が広がった。謙遜のつもりが、ただの自嘲になっている。それに気づいた瞬間、続けて言葉がこぼれた。

「私、ちゃんとやれてるかな」

律はテープを見ていた視線を、私へ向けた。

「ちゃんとって何」

短い問いだった。けれど、その一言が私の胸の真ん中を正確に突いた。

きれいな返事は、どこにも用意していなかった。

「それは……名簿を整えることとか、担当の抜けを見つけることとか、みんなが困らないように動くこととか」

「うん」

「それを、ちゃんとやれてるかなって」

「私が聞いてるのは、そこじゃない」

律はしゃがみ、私の目線に合わせた。

「雫の言う『ちゃんと』って、いつも他人から見た基準でしょ。名簿が乱れてないか。担当表が揃ってるか。誰かが困らないか。それ、全部誰かの物差しで測ってる。雫自身が、何をちゃんとしたいのかは、そこに入ってない」

私は養生テープの端を握ったまま、動けなかった。

律の言葉は鋭かった。けれど、切りつけるための鋭さではない。舞台の立ち位置を測るときと同じ目で、彼女はただ、私の内側にある空欄を見つけて、そこに指を置いただけだった。

「分からない」

やっと出た声は、掠れていた。

「私が何をちゃんとしたいのか、分からない。ただ、乱れているのが怖い。決まっていない場所があるのが怖い。だから、そこだけは埋めようとする。でも、自分の中にある空欄は、埋め方が分からないまま置いてある」

律は少し黙った。私の返事を、責めるでも慰めるでもなく、そのまま受け取ったように見えた。

「それでいいと思う」

「いいの?」

「分からないって言えたなら、それは未定って書いたのと同じ。埋めてないことを、埋めてないまま認めてる。私が嫌いなのは、埋まってないのに埋まったふりをすることだから」

その言葉に、名簿の欄へ書いた二文字が浮かんだ。

未定。

律に言われて書いたあの文字が、今また別の場所で意味を持ち直していく。

律は立ち上がり、舞台の見取り図を一枚、鞄の中から取り出した。書き込みだらけの紙で、赤い線が何本も走っている。立ち位置、動線、照明の角度。迷った跡がそのまま線として残っていた。

「これ、持ってて。今日の進行、動線が変わったところに印つけといたから」

差し出された紙を受け取ったとき、角が少し折れていることに気づいた。何度も持ち歩き、何度も広げ直した紙だけが持つ、柔らかくなった折り目だった。

「大事にしてるものほど、こうなるんだね」

思わずこぼした言葉に、律は片眉を上げた。

「大事にしてるからじゃなくて、使ってるから。大事にしまい込んだ紙は、きれいなまま忘れられる。使い込んだ紙だけが、こうなる」

その違いが、胸の奥にゆっくり落ちていった。

鞄の内ポケットには、まだ律の名前を書いた便箋がある。あれは、きれいなまましまい込んできた紙だった。使われないまま、燃やされることだけを待っていた紙。律の持つ見取り図とは、まるで違う扱われ方をしてきた。

「律」

「なに」

「もし私が、律に何か言いたいことがあったら」

言いかけて、喉が詰まった。律は急かさなかった。舞台の段取りを組むときと同じ速さで、私の言葉が形になるのを待っている。

「そのときは、ちゃんと言葉にする。今すぐじゃなくても」

律はしばらく私を見ていた。それから、いつもの調子であっさりと頷いた。

「未定でいいよ。ただし、期限は自分で決めて」

「決められる?」

「決めるのは雫。私が決めることじゃない」

その突き放し方が、かえって私を軽くした。

開場のチャイムが遠くで鳴った。律はメモ帳を閉じ、照明の位置を確認しながら舞台袖へ戻っていく。私は見取り図を胸に抱え、折れた角を指でなぞった。

文化祭は、そこから駆け足のように過ぎていった。

朗読劇は無事に幕を開け、読み手の空欄は、結局二人の交代制で埋まった。展示の教室には、消しきれなかった文字の上に、新しい案内板が重なって貼られた。港の見える廊下では、来客が窓辺で写真を撮っていた。

終盤、後片付けをしていると、怜が段ボールを抱えて隣に来た。

「これ、どこに運ぶ?」

「旧館の倉庫」

「また旧館」

怜は少しだけ笑った。今度は、途中で止めなかった。

「怖い?」

「もう怖くない」

答えると、怜は箱を持ち直し、私の歩幅に合わせて歩き出した。焼却炉の前で交わした言葉も、階段の踊り場で置かれた缶ジュースも、今はまだ形を変え続けている途中だった。壊れなかったものが、少しずつ違う輪郭を持ち始めている。

「雫、さっきの律との話、聞こえちゃった」

「聞いてたんだ」

「聞くつもりはなかったけど、聞こえた。『ちゃんとって何』、私も答えられないなそれ」

「怜も?」

「うん。私、いつも雫のために何かちゃんとしようとして、結局それが雫を困らせてた。ちゃんとって、たぶん一人で決めるものじゃないんだろうね」

私たちは箱を旧館の倉庫へ運び、鉄の扉を閉めた。焼却炉のある裏手からは、もう火の気配はしない。夏の終わりの湿った風だけが、そこに残っていた。

家へ帰ると、台所には小さな明かりがついていた。

母は起きて待っているわけではなく、いつも通り、ラップに包んだおにぎりを卓上へ置いていた。塩気の効いた白い米の匂いが、玄関からでも分かるほど漂っている。

「おかえり」

短い声だけが返ってきた。問い詰める言葉は、今日もなかった。

私は鞄から律の見取り図を取り出し、机の隅へ置いた。折れた角を、もう一度指でなぞる。それから、鞄の内ポケットに残っていた封筒にも触れた。

律に渡すかどうかは、まだ決めていない。

けれど、期限は自分で決めていいのだと、律は言った。

おにぎりの包みを開きながら、私は小さく息を吐いた。文字は、まだ書き直せる。言葉は、まだ選び直せる。燃やさなかった紙の重みを、今度は自分の手で持ち続けていけばいい。

台所の窓の外には、遠く港の灯りが見えた。

祭りの熱を離れても、そこにある明かりは今日も静かに点いていた。

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