第8話 怖かっただけ

始業の鐘が鳴る前の教室は、いつもより広く感じられた。
机は昨日までの列を崩し、窓際には段ボールが積まれている。黒板には、文化祭の予定が白いチョークで書かれていた。開場、受付、展示、朗読劇。消された候補の跡はその下に薄く残り、書き足された文字の隙間から、古い線が覗いている。
窓は開いていた。
朝の風は、夜の熱を完全には運び出せず、湿った空気だけを教室へ送り込んでいた。汗ばんだ首筋に触れた風が、すぐに離れていく。扇風機はまだ止まっていて、静かなぶん、廊下を行き交う靴音や、遠くで脚立を動かす音が近く聞こえた。
私は自分の机の横で立ち止まった。
怜は、教室の後ろにいた。
保冷バッグから缶ジュースを取り出し、冷蔵庫へ運ぶ準備をしている。缶を一本ずつ確認して、倒れているものを起こし、ラベルの向きを揃えていた。怜がそんなふうに物を揃えるのを見るのは、初めてだった。
いつもなら、缶は缶のまま放り込む。誰が何を飲むかも考えず、冷たいものから勝手に配る。けれど今は、一本ずつ手に取り、表面の水滴を布で拭っている。
私が近づくと、怜の肩が小さく揺れた。
「おはよう、雫」
先に笑おうとした口元が、途中で止まった。
私はその遅れを見た。
怜も、笑いが今の私に届かないことを分かっている。
「おはよう」
返事をした声は、思っていたより低かった。
怜は持っていた缶を保冷バッグへ戻した。
「これ、冷蔵庫に入れとく。あとで必要になると思うから」
「うん」
「雫の分もある。昨日と同じやつ。嫌なら別のに替えるけど、勝手に替えないほうがいいよね」
「……うん」
「どっちのうん?」
「替えなくていい」
「分かった」
怜は頷いた。
それから、缶ジュースの蓋を閉めるように、口を結んだ。
教室の戸口から、別のクラスの生徒が顔を出した。
「怜、体育館にガムテープある?」
「あるよ。保健室の横の倉庫に――」
怜はそこまで言って、私を見た。私が話を終わらせたいと思っているのか、ここにいてほしいと思っているのか、確かめようとしたのだと思う。
私は視線を黒板へ逃がした。
「行ってきて」
怜の顔が少し固くなった。
「分かった。すぐ戻る」
「すぐじゃなくていい」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
怜は黙った。
廊下の生徒が、気まずそうに戸口で待っている。朝の教室には、まだ誰も大きな声を出していない。私が今ここで言わなければ、怜はガムテープを取りに行き、文化祭の雑音のなかへ戻っていく。私たちはまた、用事のある場所を選び、用事のある言葉だけを交わす。
それが嫌だった。
嫌だと思ったことを、私はすぐには言えなかった。
机の縁へ指を置く。木の表面には細かな傷があり、爪の先がその一つへ引っかかった。
「怜」
「うん」
「少し、話したい」
廊下にいた生徒が、怜の顔を見た。怜はその視線へ振り返り、いつものように明るく処理しようとした。
「ごめん、五分だけ待って。雫と大事な――」
「大事って言わないで」
言葉が先に出た。
怜は黙り、廊下の生徒へ頭を下げた。
「あとで行く。ごめん」
生徒が去っていく。
戸が閉まると、教室のなかに私たちしかいなくなった。
正確には、窓際で模造紙を切っている男子が一人いた。けれど、その子は私たちを見ないように、紙の端だけを見つめている。見ていないふりをしてくれる気遣いが、かえって息苦しかった。
私は怜の前に立った。
怜は、さっきまで缶を揃えていた手を下ろしている。指先に、冷たい水滴が残っていた。水滴が手首へ落ち、制服の袖口へ吸い込まれていく。
私は一度、視線を窓へ逃がした。
港は朝の光のなかで白く霞んでいた。高台の下の住宅街には、まだカーテンの閉じた窓が多い。誰かが眠っている家。もう起きている家。これから一日を始める家。学校だけが、始まる前から一日を使い切ろうとしている。
「昨日のこと」
そう言ったところで、声が止まった。
怜は何も言わなかった。
私が言葉を探すあいだ、口を挟まずに待っている。けれど、その沈黙が怜の努力で作られていることが分かるから、余計に苦しくなる。いつもの怜なら、ここで「昨日って、昨日の昨日? それとも昨日の前夜祭?」と笑って、私の言葉を軽くするだろう。
怜は笑わなかった。
私は机の縁を握った。
「怒ってるんじゃない」
怜の目が、わずかに動いた。
「……うん」
「怒ってるんじゃない。たぶん」
「たぶん?」
「怒ってる部分もあると思う。でも、それだけじゃなくて」
喉の奥が狭くなる。
「怖かっただけ」
言葉にした瞬間、胸の内側で固まっていたものが、少しだけ崩れた。
怜は身じろぎしなかった。
私は続けた。
「手紙を読まれたことが怖かった。勝手に開けられたことも、もちろん嫌だった。でも、それより、そこに書いた私を見られたことが怖かった。私は、あの手紙を渡すかどうかも、燃やすかどうかも、自分で決めるつもりだった。書いたときの私を、私がどう扱うかを決めるつもりだった」
言葉が詰まり、私は息を吸った。
湿った空気が喉へ張りつく。
「なのに怜が読んで、私がまだ自分でも見ないようにしていたところまで、先に見られた。律の名前を書いたことも、好きって書いたことも、返事はいらないって書いたことも、全部。私は、好きな人に見られるより先に、怜に見られたことが恥ずかしかった。怜なら見ても笑わないって思っていたかったのに、笑われるかもしれないと思った。笑われなくても、怜の中で私が変な人になると思った」
怜の指が、ゆっくり握られた。
私はその手を見た。
封筒を開いた手。便箋の端を押さえた手。焼却炉の前で、私に触れていいか分からず宙に止まった手。今は何も触らず、身体の脇に置かれている。
「私、何も持ってないみたいに思えた」
怜は少し顔を上げた。
「何も?」
「うん。好きって書いたのに、好きだと言い切る勇気もなかった。渡したいのに、返事はいらないって書いた。今まで通り話してほしいって書いたのに、見られたらもう今まで通りではいられないって思ってた。そんなふうに、全部が中途半端で、逃げ道ばかりで……。あれを見られたら、私がどういう人間なのか、怜には全部分かってしまう気がした。臆病で、面倒で、言いたいことを紙に押しつけて、最後は燃やしてなかったことにしようとする人間だって」
「雫」
「まだ」
私は机の縁を握り直した。
「まだ、言わせて」
怜は小さく頷いた。
「怜に嫌われるのが怖かった。律に断られるのも怖かった。でも、律にどう思われるかより、怜に見られたあとで、怜が私を前と同じに扱うことのほうが怖かった。前と同じように笑って、前と同じように肩を叩いて、前と同じように机の中を覗いて。それが続いたら、私があれを恥ずかしく思っていることまで、なかったことにされる気がした」
怜の目が伏せられた。
「……うん」
「怜が悪気なく笑ったことが、一番痛かった」
怜の唇がわずかに開いた。
私はその表情を見て、言葉を止めそうになった。ここまで言えば、怜は十分傷つく。謝るだろう。自分を責めるだろう。私は怜のそういう顔を見ると、すぐに自分の言葉を取り消したくなる。
けれど、取り消すことは、言わなかったことにすることとは違う。
「痛かったけど、怒れなかった。怒れば、私が怜を責める側になれるから。怜が悪いって決めれば、私は自分の怖さを見なくて済む。でも、怜だけが悪いわけじゃない。私はずっと、怜なら何でも分かってくれると思ってた。嫌なことを嫌だと言わなくても、いつか気づいてくれると思ってた。だから、私も怜に甘えてた。言葉にしないまま、分かってほしいと思ってた」
教室の後ろで、模造紙を切る音が止まった。
私はその音に気づいたが、振り返らなかった。見られていると思うと、また声が小さくなる。けれど、今は誰かに見られているかどうかを確かめるより、怜へ言葉を置くことを優先したかった。
「だから、怒ってるんじゃない」
もう一度、言った。
「怒ってる部分はある。でも、怖かっただけ。見られるのが怖かった。見られたあとで、何も持っていない人みたいに思われるのが怖かった。だから、怜が笑ったとき、手紙のことを軽くされたと思った。でも、本当は、私が自分のことを軽く扱っていたから、怜の笑いまで怖くなったんだと思う」
怜は顔を上げた。
今度は、笑おうとしなかった。
「雫が何も持ってないなんて思ってない」
「……」
「思ってないって、簡単に言ったら、また雫の言葉を上から押さえることになるから、ちゃんと話す。雫は、私が読んだ手紙の中で、何も持ってない人なんかじゃなかった。むしろ、持ちすぎて、どこへ置けばいいか分からなくなってた。好きっていう気持ちも、嫌われたくない気持ちも、私を失いたくない気持ちも、全部一枚に置こうとしてた。だから紙が重くなった。雫が変なんじゃなくて、一枚の紙に入れようとしたものが多すぎたんだと思う」
「でも、勝手に読んだ」
「うん。そこは、私が悪い。雫がどんな人か分かっていたつもりだったから、触っていいものといけないものの区別まで分かってるつもりになってた。雫が止めたのに、私は冗談の続きだと思った。あのとき雫が怒鳴ってくれたら、私は止まれたのかもしれない。でも、怒鳴らなかったからいいと思った。雫が怒れないことを、許してくれることと取り違えた」
怜は一度、言葉を切った。
いつもなら、切れた場所へ別の言葉をすぐ差し込む。けれど今は、沈黙がそのまま残った。
「私、雫に許してほしくて謝ってた」
怜は続けた。
「ごめんって言えば、雫が大丈夫って返してくれて、そうしたら私も大丈夫になれると思ってた。だから謝るたびに、雫の返事を待てなくなった。雫がまだ痛いままなのに、私だけ先に終わろうとしてた。謝罪って、相手に大丈夫って言わせるためのものじゃないのにね」
「……怜がそんなこと言うの、変」
「そうだよ。私も変だと思う。今まで、謝るのは早いほどいいと思ってた。早く謝って、早く許してもらって、早く元に戻る。それが大人っぽいというか、ちゃんとしてることだと思ってた。でも、雫が返事をしない時間を見てたら、ただ私が耐えられなかっただけだって分かった。雫が黙ってる時間を、私が勝手に終わらせたかったんだと思う」
私は視線を落とした。
机の縁に、赤いペンが置かれている。名簿を書くためのペン。何度も握り直したせいで、軸の一部が少し擦れて白くなっていた。
「怜」
「うん」
「私、許すって言えない」
怜は頷いた。
「うん。言わなくていい」
「まだ、怜のことを前と同じには見られない」
「うん」
「でも、いなくなってほしいわけじゃない」
怜の呼吸が、わずかに深くなった。
「うん」
「そこを、すぐに喜ばないで」
「喜ばない」
「安心もしないで」
「……努力する」
「努力じゃなくて」
「分かった。喜ばない。安心もしない。でも、嬉しいと思うのは許して」
私は怜を見た。
怜は泣いていなかった。泣かないようにしているのかもしれない。目の縁が少し赤い。けれど、泣いてしまえば私が何かを返さなければならないと思っているのか、顔を大きく崩さずに立っている。
「嬉しいって思うのは、怜の自由だから」
「じゃあ、雫が許すかどうかは雫の自由?」
「うん」
「話したいかどうかも?」
「うん」
「隣に座っていいかどうかも?」
「うん」
怜は、そこで初めて息を吐いた。
「じゃあ、今日の私は、雫の机から少し離れたところにいる。話したくなったら雫から呼ぶ。呼ばれなかったら、今日はそれで終わりにする。文化祭の仕事で必要なことだけは確認するけど、必要以上に近づかない。……これでいい?」
私はすぐに答えなかった。
机の縁を握っていた指を、一本ずつ離す。
「それでいい」
「明日は?」
「明日のことは、明日決める」
「毎日決めるんだ」
「うん」
「大変だね」
怜は言ってから、笑いかけた。
笑いになる前に、口元を閉じる。
私はそのことを見ていた。笑わないようにした怜の顔が、以前より少し近く感じられた。冗談を言わないことが、怜にとっては黙ることではなく、私の返事を待つことになっている。
「怜」
「なに」
「昨日、缶ジュースをくれたの、ありがとう」
「うん」
「でも、これからは、私がいらないって言ったら、いったん置いて」
「置く」
「受け取るかどうかは、私が決める」
「分かった」
「あと、机の中は見ないで」
「見ない」
「見たくなっても」
「見たくなっても、見ない。手を出す前に聞く」
「手を出す前じゃなくて、手を出す気になる前に聞いて」
怜は少し考えた。
「それは難しいけど……気をつける」
「難しいなら、忘れないで」
「忘れない」
言葉はきれいではなかった。
怜の返事も、私のお願いも、どこかに余白があり、完全に揃ってはいない。けれど、今はそれでよかった。きれいに並べた言葉は、時々、並べる前の気持ちを隠してしまう。
教室の戸が開いた。
「雫、怜、始業前に体育館の確認。篠原先生が呼んでる」
クラスメイトの声がした。
怜はすぐに返事をしなかった。私を見る。
今度は、私が先に頷いた。
「行こう」
怜は一歩だけ動いた。
それから、私との距離を確かめるように止まる。
私は鞄を持ち、名簿を脇へ挟んだ。机の端に置いていた缶ジュースを手に取る。冷たいアルミ缶の水滴が掌へ広がり、焼却炉の前で残った熱の記憶と重なった。
「飲む?」
怜が聞いた。
私は缶を見た。
「まだ」
「分かった」
「体育館から戻ってきたら、飲むかもしれない」
「分かった」
「でも、気が変わるかもしれない」
「それも分かった」
怜は戸口へ向かった。
今度は、私の机に触れなかった。肩を叩きもしなかった。先に歩いて、振り返って待つこともしなかった。ただ、私が歩き出すのを待っている。
私はその隣へ並んだ。
肩が触れない距離だった。
けれど、昨日までの一段分の距離よりは近い。近いからといって、元に戻ったわけではない。怜が私のすべてを分かったわけでも、私が怜を許したわけでもない。
それでも、今はこの距離を自分で選べる。
廊下へ出ると、体育館から大きな音が響いた。段ボールを開く音、ガムテープを切る音、誰かが名前を呼ぶ声。文化祭の朝が、校舎の隅々から押し寄せてくる。
階段の踊り場を通り過ぎるとき、窓から港が見えた。
朝の光はまだ弱く、灯りの消えた住宅街が斜面に沿って広がっている。夜に残っていたいくつかの光が、昼の明るさへゆっくり溶けていた。
私は怜の歩幅に合わせた。
怜も、私の歩幅に合わせた。
どちらが先にそうしたのかは、もう分からなかった。分からないまま、二人の靴音が廊下の上で重なっていく。
教室へ戻るまでに、私はまだ何度も言葉を止めるだろう。怜も、笑いかけては飲み込むだろう。そういう不器用さが、すぐ消えるわけではない。
けれど、止まった言葉をなかったことにはしない。
私は缶ジュースを持ったまま、体育館の扉を押し開けた。冷たい缶の汗が、指のあいだを伝って落ちる。
その一滴を、今度は拭わなかった。
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