7話 薄く残る文字

文化祭当日の朝、私は誰より早く二年B組の教室へ入った。

校舎の中は、まだ夜の名残を抱えていた。廊下の窓は閉じられたままで、湿った空気が床の上に薄く溜まっている。遠くの体育館から、誰かが椅子を引く音が聞こえた。金属の脚が床を擦り、途中で止まる。次に、眠そうな声がひとつだけ響いた。

「そこ、あとでいいから。まず通路空けて」

律の声だった。

私は教室の戸を開け、電気をつけた。

白い蛍光灯が一斉に点き、机の列と黒板を平らに照らした。平らすぎる光だった。影を隠す代わりに、消し残したものだけをはっきり見せる。

黒板の端には、前日までの出し物候補が残っていた。

喫茶。朗読劇。迷路。

誰かが何度も書き直した文字の跡が、薄い白い影になって重なっている。その上には、今日の予定が新しく書かれていた。

『九時 開場』 『十時 朗読劇』 『舞台袖 机二台』 『缶ジュース 冷蔵庫』

最後の一行だけ、怜の字だった。

私は黒板消しを手に取った。

名前や時間は消さずに、缶ジュースの一行だけを擦る。白い粉が指の間へ入り込み、黒板の表面に薄い雲を作った。文字はすぐに消えたが、その下から「展示」の輪郭が浮かび上がった。

消したもののほうが、しつこく残る。

私は黒板消しを置いた。

完全に消すのをやめて、黒板の中央へ新しい線を引く。昨日、律が書いた細い線と同じように、古い文字の跡を横切って、今日の予定を区切った。

『受付』 『展示』 『朗読劇』

字の大きさを揃え、間隔を測る。何度も書き直しているうちに、チョークの先が短くなった。短いチョークは持ちにくい。けれど、使い慣れたものほど指の形に沿う。私はそれを捨てず、黒板の縁へ置いた。

窓を開ける。

夜のあいだにこもった熱が、湿った風に押されて少しずつ逃げていく。外階段の手すりは朝露で濡れていた。高台の下には港が見える。倉庫の屋根はまだ灰色で、クレーンの骨組みが空へ細く突き出している。海は光を受ける前の色をしていた。

私は窓辺に立ったまま、鞄の内ポケットへ手を入れた。

指先が封筒の角に触れる。

水色の紙。怜が封を開けたときについた浅い傷。便箋を戻すときに、彼女の指が何度も撫でた場所。

あの日から、封筒は机の奥へ戻していない。家へ持ち帰り、机の引き出しへしまい、朝になれば鞄へ入れた。燃やすために学校へ持ってきたのに、今は、持っていることだけが目的のようになっている。

それでも、捨てる気にはなれなかった。

便箋を開けば、律へ、と書いた二文字がある。その下に、好きです、と続く。さらにその下には、迷惑だったら忘れてください、返事はいりません、できれば今まで通り話してほしい、と、互いに矛盾する言葉が並んでいる。

昨日までの私は、それを失敗だと思っていた。

告白としては弱く、お願いとしては重く、逃げ道だけが多い。何度読み返しても、自分の臆病さが文字の隙間から顔を出す。

けれど、紙を燃やすことをやめてから、別のものも見えるようになった。

私は律に近づきたかった。

好きだと伝えて、特別になりたかったのかもしれない。けれどそれだけではなく、舞台の準備で律が床に貼ったテープの位置を直し、黒板の前で短い指示を聞き、帰り道に今日の失敗を話すような時間を、これからも持ちたかった。

その願いに名前をつけるのが怖くて、私は「返事はいりません」と書いた。

返事がいらないのではない。返事をもらったあとも、関わり続けたいと思っている自分を、見られたくなかった。

鞄の中で、封筒の角を一度だけ撫でた。

教室の戸が、少しだけ開いた。

「おはよう」

怜が顔を出した。

髪は寝起きのままではないが、片側だけが外へ跳ねている。片手に小さな保冷バッグを持ち、もう片方の手には缶ジュースが二本あった。

いつものように先に笑おうとして、笑いきれないまま口元を閉じる。

「……入っていい?」

私は一拍置いた。

「うん」

怜は教室へ入った。

足音をわざと小さくしているのが分かった。普段なら、遠くから私の名前を呼び、机の横まで一気に来る。今日は教室の中央で立ち止まり、私の顔と、鞄と、黒板を順番に見た。

「朝から来てたんだ」

「怜も」

「私は、缶ジュースを冷やす係として来ました。昨日、黒板から消されたから、今日は実物で存在を主張しようかなって」

怜はそう言って、笑おうとした。

笑いは途中で細くなった。

私は黒板の端に残った「展示」の跡を見ていた。返事をしない私を見て、怜は保冷バッグの持ち手を握り直す。

「……今の、冗談にしないほうがよかった?」

「うん」

「分かった」

怜はすぐに頷いた。

その頷きに、いつもの勢いはなかった。私の返事を先回りして受け取ろうとせず、ただそこへ置いている。

怜は手に持っていた缶の一本を、私の机の端へ置いた。

けれど、私の手へは押しつけなかった。

青いラベルの炭酸飲料だった。表面には水滴がびっしりついていて、朝の光を細かく弾いている。缶の底から落ちた水が、机の上に小さな輪を作った。

「これ、冷たいうちに飲め」

「……うん」

私は缶を受け取った。

冷たさが掌へ食い込む。焼却炉の前で残った熱が、まだ皮膚のどこかにあるように感じられ、その熱と冷たさが同じ手のなかへ重なった。

怜は、私の指が缶を包むのを見届けてから、もう一本を自分の机へ置いた。

「開ける?」

「まだ」

「分かった」

「怜」

「なに」

「聞かないで、って言うつもりだったけど」

「うん」

「今は、聞いてもいい」

怜は目を伏せた。

「分かった。……聞いてもいいんだね」

「毎回確認しなくていい」

「それは難しい。今まで確認しなかった分、しばらく確認すると思う」

「しばらくって、どれくらい?」

「雫が、もういいって言うまで」

「私、たぶん言わない」

「じゃあ、ずっと?」

怜の声には、少しだけ笑いが混じった。

私は黒板を見たまま、缶の水滴を指でなぞった。

「ずっとは困る」

「じゃあ、適当にやめる」

「それも困る」

「注文が多いなあ」

怜はそこで口を閉じた。

自分で軽口を止めたのだと分かった。そのことが、胸の奥の硬いところへ、ほんの少し触れた。

教室の外から、誰かが走ってくる音がした。

「怜! 保冷バッグ、体育館にも持ってきて!」

男子の声が廊下から飛んでくる。

怜は戸のほうを振り返った。

「今行く!」

返事をしてから、私を見る。

「行ってくる。雫は、ここで名簿?」

「うん」

「何かあったら」

「呼ぶ」

「本当に?」

私は一拍置いた。

「呼ぶかもしれない」

「それでいい」

怜は頷いた。

以前なら、ここで「絶対呼んでよ」と念を押しただろう。あるいは私の机の上に勝手に何かを置き、「戻ってくるまで見張ってて」と言ったかもしれない。今日は何も触れず、ただ戸口へ向かった。

「怜」

「なに?」

「缶、ありがとう」

怜は振り返った。

笑おうとした口元が、今度は少しだけ自然に動いた。けれど、笑い切る前に、彼女はそれを抑えた。

「うん。冷たいから、気をつけて」

「炭酸に?」

「私に」

怜は言ってから、視線を外した。

自分の言葉がどこまで届いたのか、怖くなったように見えた。

私は缶を持つ指に力を入れた。

「それは、分かってる」

怜は何も言わなかった。

教室を出ていく足音が、廊下の向こうへ遠ざかる。すぐに誰かの笑い声が重なり、怜の声もそのなかへ混じった。けれど昨日までのように、場を埋めるための笑いには聞こえなかった。誰かに道を空け、段ボールを持つ手を支え、必要なことを伝えるための声だった。

私は名簿を開いた。

文化祭実行委員の名前が、順番通りに並んでいる。怜の名前の横には装飾補助。律の名前の横には舞台係。私の名前の横には記録・進行補佐。

その並びは、昨日までと変わらない。

けれど、名前の間にある白い余白を、以前ほど急いで埋めたいとは思わなかった。

欠席者の欄に丸をつける。担当変更を確認する。未定になっていた読み手の欄には、昨日律が書いた期限が残っている。

『昼休みまでに決定』

私はその下へ、小さく書き足した。

『決まらない場合は交代制』

文字は少し斜めになった。書き直そうとして、ペン先を紙から離す。

そのままにした。

完璧に揃っていない文字が、紙の上に残っている。けれど読める。意味もある。私はそれを、初めてすぐには直さなかった。

窓の外から、港のほうへ向かう船の汽笛が聞こえた。

低く、長い音だった。

誰かの家の窓に明かりがつき、倉庫の屋根が朝の光を受けて白くなる。文化祭の始まる時間が近づき、廊下の足音も増えていく。扇風機が回り始め、机の上のプリントを一枚だけ持ち上げた。

黒板には、消し跡の上に新しい文字がある。

古い輪郭は、まだ残っている。

私はその上へ、開場時間の最後の数字を書き加えた。数字の線が少し震え、薄い白い影と重なった。

鞄のなかの封筒には、まだ律の名前がある。

今日は、それを渡すとは決めていない。

ただ、燃やさないことだけは決めている。紙に残った文字も、そこで迷った自分も、誰かに見られたあとでなお手のなかにあるものも、急いで消さずに持っておく。

缶のプルタブへ指をかける。

ぷし、と小さな音がした。

炭酸の匂いが、湿った朝の教室へ広がる。

私はひと口飲んだ。冷たさが喉を通り、焼却炉の熱とは違う場所へ落ちていく。

戸口の向こうで、怜が誰かに名前を呼ばれている。

私はすぐには返事をしなかった。

けれど今度は、返事をするための言葉を探す時間を、隠すためには使わなかった。

← 横にスクロールして読み進められます

薄く残る文字 - 未定のまま、隣にいたい - 誰でも作家life