第6話 避ける距離、追わない距離

翌日から、私は怜のいる場所を避けるようになった。
避けるといっても、走って逃げるわけではない。怜が教室の後ろにいるなら、私は黒板の前へ行く。怜が窓際で模造紙を切っているなら、廊下側の机を使う。彼女が給湯室へ向かうのを見たら、私は名簿を抱えて先に職員室へ行く。
どれも、用事としては成立していた。
だから余計に、自分が何をしているのか分かっていた。
朝、教室へ入ると、黒板の端に新しい走り書きが増えていた。
『朗読劇 台本確認』 『舞台袖 机二台』 『缶ジュース 冷蔵庫』
最後の文字だけ、怜の字だった。丸みのある字で、他の予定より少し大きい。誰かが買ってきた飲み物を冷やしておく、というだけの連絡なのに、そこだけ妙に目についた。
私は黒板消しを取った。
予定表の文字は残し、怜の書いた一行だけを消す。黒板消しが触れると、白い粉がふわりと舞い、缶ジュースの文字はすぐに見えなくなった。その下には、昨日までの「展示」の輪郭が薄く残っている。消した文字のほうが、書き直した文字よりしぶとい。
「そこ、消すんだ」
背後から声がした。
私は振り返らずに答えた。
「もう必要ないから」
「今日の分、冷やすって書いただけなんだけど」
「冷蔵庫に入れれば分かる」
「そうだけど、みんなが知らないと、誰かが常温のまま飲むでしょ。ぬるい炭酸って、飲み物としてかなり悲しいよ」
怜の声は、できるだけいつも通りだった。けれど最後の「悲しいよ」が、少しだけ浮いていた。
私は黒板消しを置いた。
「ごめん」
「いや、謝るところじゃないし」
「でも、消したから」
「消したことじゃなくて、私が書いたから消したんでしょ」
答えられなかった。
黒板の端に、白い粉が細く残っている。私は指先でそこを擦った。粉が爪の脇へ入り込む。痛くはないのに、気になる。気になるから、さらに擦る。
「雫」
怜が近づいた気配がした。
「今日、放課後さ、体育館に段ボール運ぶんだけど。手伝える?」
「無理」
「まだ何も言ってないのに?」
「名簿の整理がある」
「昨日もあったよね」
「毎日あるから」
「そっか」
怜は笑った。
取り繕った笑いだった。声の高さは同じなのに、息が先に抜けていた。
「じゃあ、いいや。私だけで運ぶ。段ボールって、友達を失った人間にも優しい重さだし」
「そういうこと言わないで」
「ごめん。今のも冗談」
「冗談にしないで」
私はようやく振り返った。
怜は、手にしたガムテープを胸の前で握っていた。笑っているように見えたが、目は笑っていなかった。目だけが、私の返事を探している。
「じゃあ、何て言えばいいの?」
「知らない」
「雫が知らないなら、私はもっと知らないよ」
「だからって、軽くしないで」
「軽くしてない。軽くしようとしてるだけ」
「それが嫌なの」
言葉が出たあと、喉の奥が狭くなった。
教室の隅で、誰かが模造紙を広げた。紙の表面が机に擦れ、ざらざらと音を立てる。窓の外からは、体育館でリハーサルをしているらしい音が響いてきた。マイクの調整音、床を踏む足音、誰かの名前を呼ぶ声。人が多い場所では、ひとつの声がすぐ別の音に紛れていく。
怜はガムテープを机へ置いた。
「軽くしないと、私が何を言っても全部重くなる気がするから」
「重くていいこともある」
「うん。分かってる。でも、重いものを持つの、私は苦手」
「知ってる」
「雫は持てるの?」
「持てないから、紙に書いてる」
「紙に置けば、持たなくて済む?」
「……そう思ってた」
「でも、読まれた」
「うん」
「読まれたら、紙に置いていたものまで、こっちに戻ってくる?」
私は返事をしなかった。
怜は一度、目を伏せた。冗談を言うために開きかけた口を閉じる。
「ごめん。今のは、聞き方が悪かった」
「謝らないで」
「謝るなって言われても、謝ったことは消えないよ」
「そういうところ」
「何が?」
「謝ったあとに、すぐ次の言葉を足すところ。私が返事をする前に、怜が全部言ってしまう」
怜は黙った。
その沈黙が、教室の真ん中に置かれた。誰かが横を通り、二人を見て、それから何も言わずに窓際へ向かう。私たちが何を話しているのか、他の人には分からない。分からないまま、文化祭の作業は続いていく。
怜が先に目を逸らした。
「じゃあ、黙る」
「できる?」
「やってみる」
「やってみるじゃなくて」
「……黙る」
それだけ言って、怜は机の上のガムテープを持ち上げた。
私はまた黒板へ向いた。
「雫、今日、缶ジュースいる?」
「いらない」
「まだ聞いただけ」
「聞かれると思ったから」
「そっか。じゃあ、いらないで覚えておく」
怜は離れていった。
その背中を見送ることはできなかった。見送れば、彼女がどこへ行くのか気になってしまう。気になれば、追いかけたくなる。追いかけたくなった自分を知られたくなかった。
昼休み、私は給湯室へ向かった。
教室にいると、怜の声がどこからでも聞こえてくる。机を動かす音に混じった笑い声。誰かにテープを渡す声。手伝いを頼まれて、すぐに「いいよ」と返す声。
声だけなら、今までと変わらない。
変わったのは、その声を聞いた私の身体だった。
笑い声がすると、肩が固まる。名前を呼ばれると、手が止まる。目が合いそうになると、窓や黒板を見る。私は怜を避けているつもりなのに、怜の気配を探している。
給湯室で紙コップを取ろうとしたとき、背後の扉が開いた。
「雫、いた」
怜だった。
私は紙コップを二つ取った。ひとつで足りるのに、二つ取った。
「何か用?」
「用がないと話しかけちゃだめ?」
「そうは言ってない」
「でも、今の言い方は、用があったほうが助かる言い方だった」
怜は冷蔵庫を開けた。中には、クラスで買った缶ジュースが並んでいる。青、橙、無地の銀色。結露した缶が互いに触れ合い、小さく音を立てた。
怜は一本を取り出し、私のほうへ差し出した。
「これ、雫の分」
「いらない」
「うん」
「……受け取らないから」
「分かってる」
怜は缶を引っ込めた。けれど、そのまま捨てることも自分で飲むこともせず、両手で包んでいる。
「私、追いかけないほうがいい?」
急な問いだった。
私は紙コップを流し台へ置いた。
「何を?」
「雫を」
水道の蛇口から、細い水が落ちていた。排水口の金属に当たり、一定の音を立てている。
「追いかけられてない」
「でも、避けてる」
「避けてない」
「今日、黒板の前に三回いた。私が後ろにいたから」
「黒板を消す用事があった」
「給湯室も?」
「紙コップを取りに来た」
「体育館の裏も?」
「名簿を届けに行った」
「私が体育館から戻った直後に、裏へ行ったのも?」
私は口を閉じた。
怜は笑わなかった。
「雫は、嘘をつくとき、いつも用事を作るね。用事があれば、その場所に行った理由になる。理由があれば、避けたことじゃなくなる。そういうふうに、自分の動きをきれいにする」
「きれいにして何が悪いの」
「悪いとは言ってない」
「言ってる」
「言ってない。言ってないけど、私には分かるから。雫が自分を隠すとき、どこへ行くか」
「分かったふりをしないで」
声が大きくなった。
給湯室の狭い壁に跳ね返り、自分の声が他人のもののように聞こえた。
怜の指が、缶の表面で止まった。
「分かったふりじゃない」
「じゃあ、何」
「分かろうとしてる」
「それが一番嫌」
「どうして?」
「分かろうとされると、分からないままの私が、また誰かの前に出るから」
「分からないままでいいよ」
「よくない」
「いいよ。私が決めることじゃないけど、分からないままの雫を、分かる形に直さなくてもいい」
「怜が、それを言うの?」
「言うよ。だって、私はずっと雫を直そうとしてた。黙ってたら笑わせる。困ってたら先にやる。言いにくそうなら、代わりに言う。全部、雫を助けてるつもりだった。でも、助けるんじゃなくて、雫が自分で決める前に、私が決めてただけかもしれない」
怜は缶を見下ろした。
「昨日、帰ってから、雫が私に言ったことを何度も思い出した。『触らないで』って言われたこと。あれ、すごく普通の言葉なのに、私には初めて聞く言葉だった。雫が私に向けて、ちゃんと線を引いたから。私はその線を、雫が忘れるまで待つつもりだった。でも、待ってるあいだも、近くにいたいと思ってしまう。だから今日、話しかけた。缶も渡した。けど、受け取るかどうかを決めるのは雫だって、今度は分かってるつもり」
「つもりなんだ」
「うん。まだ、つもり。分かったって言い切ったら、また分かったふりになるから」
私は怜の手元を見た。
冷えた缶の水滴が、指のあいだへ落ちている。怜は拭わなかった。滴が手首を伝い、制服の袖口へ吸い込まれていく。
「怜」
「なに」
「その缶、置いていって」
「ここに?」
「冷蔵庫の前に置くと、邪魔になるから」
「雫の机に置いてもいい?」
「机の上なら」
怜は一度、私の顔を見た。私は視線を外さなかった。視線を外さないことに、少しだけ力が要った。
怜は缶を私の手のひらへ押しつけなかった。
流し台の横へ、静かに置いた。
「分かった。机には置かない」
「そうして」
「雫、今日の放課後、名簿を職員室へ持っていくよね」
「うん」
「私、体育館にいる」
「それが何?」
「何でもない。言っておきたかっただけ」
怜は冷蔵庫の扉を閉めた。
「追いかけない。雫が来ても、来なくても、私から呼びに行かない。でも、必要なら手伝う。必要じゃなかったら、勝手に手伝わない」
「……分かった」
「雫も、必要なら言って」
「言えるか分からない」
「言えるか分からない、って言ってくれればいい」
怜はそう言って、給湯室を出ていった。
扉が閉まったあと、私はしばらく動けなかった。
流し台の横に置かれた缶ジュースから、水滴がひとつ落ちた。白い床に丸い跡ができる。怜が拭わなかった水が、そこに残った。
私は紙コップを一つだけ持って、教室へ戻った。
午後の作業は、予定より遅れた。
体育館へ段ボールを運ぶ人が足りず、装飾係の何人かが手伝いに呼ばれた。私は職員室へ名簿を届けたあと、廊下の角で立ち止まった。体育館の扉の向こうから、怜の声が聞こえた。
「それ、二人で持って。角、危ないから」
誰かに指示している。
「こっちは私がやる。先に舞台袖を空けて。あとで人が通るから」
声は明るかったが、以前のように笑いを重ねてはいなかった。必要なことだけを言い、相手が動くのを待っている。
私は扉の前を通り過ぎた。
体育館へは入らず、旧館へ続く廊下へ向かった。そこに用事はなかった。用事がない場所へ行くのは、私にとって珍しいことだった。
旧館の階段を上り、三階の踊り場まで来る。夜ではない。窓の外にはまだ薄い夕方が残り、港のクレーンが灰色の空に細く立っていた。
階段には、昨日の缶ジュースが置かれていた。
正確には、缶そのものはなかった。誰かが回収したのだろう。けれど、段の上には円形の輪染みだけが残っていた。乾ききらない水分が、白い石の上で薄く光っている。
私はその前にしゃがんだ。
指で触れると、冷たくはなかった。
怜が追ってこなかったことが、少しだけ痛かった。追われなければ安心できると思っていたのに、追われないと、そこに自分がいないような気がした。
けれど、怜が追えばいいわけではない。
追えば、また怜が私の代わりに距離を決める。近づいていいか、離れていいか、話していいか、黙るべきか。私はずっと、その判断を怜の動きに預けていた。
だから今、追ってこなかった怜の背中を、私は自分で想像するしかなかった。
体育館に残っている怜。段ボールを運び、誰かの名前を呼び、缶ジュースを冷蔵庫へ戻している怜。私を気にしているかもしれないし、いないかもしれない。私は知らない。
知らないままでも、少し離れていることはできる。
その距離を、私は今まで測ったことがなかった。
階下から、怜の足音が聞こえた。
私は立ち上がった。
足音は一階で止まり、しばらくして別の方向へ遠ざかっていく。怜は三階へ来なかった。呼び声もない。
私は窓の外を見た。
港の灯りが、一つずつ点き始めている。こちらへ届かない光が、届かないままそこにある。私はそのことを、以前より少しだけ受け入れられた。
階段を下りる前に、輪染みをもう一度見た。
乾けば消える跡だった。
それでも、消えるまでのあいだは、そこに残っている。誰かが置いた冷たさが、誰かの手を離れたあとも、場所の上に形を持っている。
私はすぐには教室へ戻らなかった。
体育館へ行くことも、怜を呼ぶこともしなかった。ただ、手にした名簿を胸へ抱き直し、廊下の端をゆっくり歩いた。
追わない距離のなかで、私は初めて、自分の足音を聞いていた。
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