5話 舞台係の一言

翌日の放課後、二年B組の教室には、朝から溜まっていた熱がまだ残っていた。

窓は開いている。けれど高台を上ってきた風は、教室へ入るころには力をなくしていた。カーテンが膨らみ、窓枠へ落ちる。そのたび、机の上のプリントが一枚だけ持ち上がり、すぐに元の場所へ戻った。

扇風機は首を同じ方向へ向けたまま、低い音を引きずっている。窓際には段ボール箱が積まれ、箱の側面に、油性ペンで「照明」「背景」「予備」と書かれていた。誰かが急いで書いた文字は太さが揃っておらず、最後の「備」だけが妙に大きい。

私は窓から二つ目の席に座り、膝の上で名簿を開いていた。

欠席者の欄を確認する。担当表と照らし合わせる。変更された箇所に赤ペンで線を引き、別の紙へ書き写す。そこまでしてから、また最初のページへ戻った。

昨日の夜、階段の踊り場で怜と別れたあと、私は家へ帰るまで一度も封筒に触れなかった。

触れなかったというより、触れるのが怖かった。鞄の内ポケットに入れていることは分かっている。歩くたび、封筒の角が鞄の布へ当たる感触まで伝わってくる。けれど確かめなかった。確かめれば、そこにある紙の中身まで、また目の前へ出てくる気がした。

代わりに、名簿の控えを何度も並べ替えた。

怜の名前の隣にある装飾補助という文字。律の名前の隣にある舞台係という文字。私の名前の隣にある記録・進行補佐という文字。

並びは変わらない。

紙の上では、昨日のことなど何も起きていない。

「雫、そこ、さっきから同じところ見てる」

怜が向かいの机に腰をかけた。

いつもなら椅子を逆向きにして背もたれへ腕を乗せるのに、今日は座らない。机の端に手をつき、私の名簿を覗き込もうともしない。覗き込まないことを意識しているのが、かえって分かった。

「確認してる」

「三回目の確認?」

「二回目」

「一回目も確認だったよね」

「一回目のあとに変更があったから」

「変更って、私の担当が装飾補助から装飾補助になったやつ?」

「欄の位置が違う」

「同じ名前が違う場所にあると、雫の中では大事件なんだ」

怜は笑った。

笑い声はいつもの高さだったが、すぐに途切れた。私が顔を上げなかったからだと思う。

怜は口元を閉じたまま、机の上に何かを置いた。

缶ジュースだった。

青いラベルの炭酸飲料。表面には、まだ細かな水滴が浮いている。昨日の階段で差し出されたものと同じ種類だった。

私は缶を見た。

「いらない」

「まだ何も言ってない」

「言う前に分かる」

「分かるんだ」

「それ、昨日の」

「昨日のは飲んだ。これは今日の」

「同じ」

「缶は同じでも、今日の雫は昨日の雫と少し違うかもしれないから」

私は赤ペンの先を名簿の余白へ置いた。

「そういう言い方、分からない」

「私も分からない。だから言ってみた」

怜は缶から手を離した。

以前なら、そのまま私の手元へ押しつけていただろう。受け取るまで離れないか、冗談を重ねて、私が折れるのを待つ。けれど今は、缶は机の上に置かれたままだった。

水滴が一つ、缶の底から机へ落ちた。

丸い染みが広がっていく。

「律は?」

怜が聞いた。

「舞台のほう」

「今日、打ち合わせ来るよね」

「来ると思う」

「そっか」

怜はそれだけ言って、教室の後ろを見た。

黒板には、昨日から残っている候補の跡がある。喫茶、朗読劇、迷路。誰かが上から白いチョークで新しい案を書き足したらしく、古い文字の輪郭と混ざっていた。消した跡の上に新しい線が重なり、読めるものと読めないものが同じ場所に残っている。

扉の外から、メジャーを巻き取る音がした。

「そこ、通る」

律の声だった。

教室の後ろから律が入ってきた。片手に舞台係のメモ帳、もう片方に使い込んだメジャーを持っている。腕には赤い腕章が巻かれていた。昨日と同じ制服なのに、彼女だけはもう文化祭の現場へ立っているように見えた。

律は机の間を歩きながら、積まれた段ボールの位置を一度見た。

「この箱、通路に出すぎ。あと二十センチ下げて」

近くで背景を作っていた男子が、「あとでやる」と答えた。

「あとでって、いつ」

「一段落したら」

「今やって。人が通れない」

「でも、今これ貼ってるから」

「貼り終わるまで人が通れないなら、貼ってる場所が悪い」

男子は不満そうに眉を寄せたが、律はもう別の場所を見ていた。積まれた椅子を数え、窓際の机の脚を確認し、床に貼られた黄色いテープの端を靴先で押さえる。

彼女の動きには迷いがなかった。

迷ったことがないのではなく、迷っているものをその場に置いたまま進んでいる。そういう速さだった。

「照明、昨日の配置から変わった?」

律が私の前で止まった。

「少し。体育館の舞台袖が狭いから、二組分を教室の後ろへ回すことになった」

私は名簿の該当箇所を指で示した。

「誰から聞いたの?」

「朝の連絡」

「朝の連絡、誰が出した?」

「実行委員長」

「記録にない」

「まだ書いてないから」

「じゃあ今、書いて」

律はメモ帳を開き、赤いペンを走らせた。文字が小さく、けれど線に迷いがない。私の赤ペンは書く前に紙の上で止まることが多いが、律のペンは止まる前に次の文字へ進んでいた。

「変更の時間も」

「時間までは聞いてない」

「聞いてないなら、聞いて」

「今?」

「今」

律は私を見た。

視線がまっすぐだった。

私はそれに耐えられず、黒板へ目を逸らした。すると、黒板の端に残った白い走り書きが見えた。

『朗読劇にするなら、読む人が必要』

昨日、床に落ちた紙片へ書かれていた言葉と同じだった。

律の字だ。

私はその文字を見つめたまま、赤ペンを握り直した。

「雫」

「なに」

「聞こえてる?」

「聞こえてる」

「じゃあ、聞いて」

「今、確認する」

「今って言ったら今。あとで、は予定表に書けない」

律はメモ帳を閉じた。

「それから、黒板の候補、誰が消したの」

「私」

「どうして」

「見づらかったから」

「見づらいのは、文字が多いからじゃない。決まってないものを、決まった場所に置いてるから」

私は返事をしなかった。

律は黒板のほうへ歩き、白いチョークを一本拾った。短くなったチョークの先を指で確かめる。粉が指先につき、彼女はそれを払わずに黒板へ向かった。

「喫茶は?」

「候補」

「朗読劇は?」

「候補」

「迷路は?」

「候補」

律は三つの文字の間に、それぞれ細い線を引いた。線はまっすぐではなかったが、迷いなく伸びていた。

「候補なら、候補って書けばいい」

「書く場所がなかったから」

「場所は作るもの」

「簡単に言わないで」

自分でも、声が強くなったのが分かった。

律の手が止まった。

教室の扇風機が、紙の端を持ち上げる。誰かが段ボールを折る音が続いている。怜は机のそばで、缶ジュースを見ていた。

律は振り返った。

「簡単だと思ってない」

「でも、何でもすぐ言えるから」

「すぐ言えるんじゃない。言わないと、あとで困るから言ってる」

「言って困らせることもある」

「ある」

律はあっさり答えた。

「私の言い方がきついのは知ってる。先に言ってから、あとで考えることもある。でも、黙ったまま誰かが困るのを見ているよりは、言って困らせたほうがまだましだと思ってる。少なくとも、何が起きたかは分かるから」

「分からないほうがいいこともある」

「それは誰が決めるの」

「……」

「黙っていれば守れるものがある、っていう考え方は分かる。私も昔はそう思ってた。でも、守ったつもりで、実際には誰にも触れられない場所へ押し込んでるだけのこともある。そこに置いたものは、なくなったわけじゃない。見えなくなっただけ」

律の声は、教室のざわめきの中でもはっきり聞こえた。

私は黒板の「朗読劇」を見た。

チョークの線の下に、消し残した文字の影がある。何度も消され、上から別の文字を書かれ、それでも完全には消えない輪郭。そこへ律は、新しい線を重ねている。

「雫、何か隠してる?」

律が言った。

心臓が、遅れて大きく鳴った。

「何も」

「その返し、隠してる人の返し」

「決めつけないで」

「決めつけてない。確認してる」

「同じ」

「違う。決めつけるなら、もう答えを出してる。私はまだ聞いてる」

律はチョークを机の上へ置いた。

「昨日から、私を見るたびに先に黒板か窓を見る。名簿の同じ欄を何度も直す。怜が近づくと、手元を隠す。舞台係だからって、人の立ち位置まで全部見てるわけじゃない。でも、避けられてることくらいは分かる」

教室の空気が、一箇所だけ薄くなった。

私は赤ペンのキャップを閉めた。閉めたあとで、また開けた。指が勝手に動く。名簿の端にある小さな折れを伸ばし、クリアファイルの角へ合わせる。

「避けてない」

「じゃあ、何」

「仕事をしてる」

「それ、答えになってない」

「答えを求められてないと思ってた」

「私は求めてる」

律は迷わず言った。

「私が何かしたなら言って。私の段取りが悪いなら直す。言い方が気に入らないなら、それも聞く。でも、何もない顔をして避けられると、どこを直せばいいのか分からない。舞台なら、立ち位置がずれていたらテープを貼り直せる。声が小さければマイクを上げられる。でも、人が何を考えているかだけは、黙られたら直せない」

律の言葉は鋭かった。

鋭いのに、怒ってはいなかった。だから余計に逃げ道がなかった。

怜が口を開きかけた。

「律、ちょっと――」

「怜は黙ってて」

律は怜を見ずに言った。

怜の肩がわずかに揺れた。いつもなら、そこで冗談を返す。空気を丸くする言葉を探す。けれど今日は何も言わなかった。机の上の缶を指先で押さえ、表面の水滴を拭っている。

私は怜の手を見た。

その手が昨日、封筒を開いた。

その手が今、缶ジュースの水滴を拭っている。

同じ手なのに、触れていいものといけないものを、あとから覚えようとしている。

「雫」

律の声が近くなった。

「名前、入るなら今のうち」

私は顔を上げた。

「何の名前」

「空欄の話をしてる」

律は私の膝の上の名簿を指した。担当表の末尾に、まだ一人分の欄が空いている。朗読劇の読み手候補として、誰かの名前を入れるために作った欄だった。クラスの何人かが声をかけられているが、返事を保留したままの人もいる。

「誰かがやると思う」

「誰かって誰」

「まだ決まってない」

「じゃあ、決まってないって書いて」

「それを書いたら、決まってないことが残る」

「残ればいい」

律はすぐに言った。

「決まってないなら、決まってないと分かるほうがいい。空欄は、誰も気づかない。誰も気づかないまま進めると、最後に空欄のぶんだけ誰かが走ることになる。だいたい、いちばん断れない人が走る」

その言葉が、胸の奥へ刺さった。

私は名簿へ視線を落とした。

確かに空欄は、何も言わない。何も言わないから、そこに問題があることすら見えにくい。けれど紙の上に残った空白は、文字より目立つことがある。そこだけ誰のものでもなく、誰かが埋めるまで消えない。

「雫、空欄を嫌うよね」

律が言った。

「名前のない欄とか、担当の決まってない場所とか。見つけるとすぐ埋める。でも、自分のことになると、ずっと空けたままにする」

私は息を吸った。

教室の熱が、肺の奥まで入ってくる。喉が乾いているのに、机の上の缶ジュースへ手を伸ばす気にはなれなかった。

「自分のことは、すぐに決められないから」

「どうして」

「間違えたくない」

「間違えるよ」

律は、ためらいなく答えた。

「私だって間違える。昨日も照明の位置を一つ間違えたし、今の言い方も、たぶん雫にはきつい。でも、間違えたら直すしかない。言わずに空けたままにしても、正解にはならない」

「直せないものもある」

「ある」

「言ったら、戻れないこともある」

「ある」

律は少しだけ目を細めた。

「でも、戻れないから言わないって決めるなら、それも自分で決めたって書いておいたほうがいい。何も決めてないふりをして、時間に決めさせるのは、私は嫌い」

その瞬間、怜が缶を机へ置いた。

「律」

声が低かった。

律が初めて怜を見る。

「何」

「それ以上は、雫が言いたくないことまで引っ張り出す感じになる」

「私は雫に聞いてる」

「聞かれて答えられるなら、もうとっくに答えてる」

「じゃあ、答えられないままにするの?」

「今は、それしかできないときもあるでしょ」

「怜がそれを言うんだ」

律の言葉に、怜の顔から色が抜けた。

教室の後ろで、誰かがガムテープを切った。べり、と粘着質な音がした。白い蛍光灯の下で、三人のあいだだけが妙に静かだった。

怜は一度、口元へ手をやった。いつもなら笑いを作るための仕草だった。けれど、手は頬へ届く前に下りた。

「……私が言うから、何」

「何でもない」

律は視線を外した。

「今のは、私が余計だった」

「余計じゃない」

私が言うと、二人が同時にこちらを見た。

視線が集まる。

私はすぐに窓へ目を逸らした。高台の下に見える港は、昼の白さを失い、倉庫の壁やクレーンの影が灰色に沈んでいた。水面は遠く、こちらの騒がしさとは関係なく揺れている。

「雫」

律が呼ぶ。

「何」

「今の、もう一回言える?」

「言わない」

「どうして」

「一回言ったから」

「一回で足りることと、足りないことがある」

律の声は、さっきより柔らかかった。

「でも、言い直すことはできる。私も、今の怜への言い方は悪かった。言いたかったのは、雫が答えられないことを責めるなってことじゃない。答えられないなら、答えられないと言う場所を作れってこと。黙っている人の代わりに、周りが勝手に答えを作るのが一番まずいから」

怜は何も言わなかった。

私は赤ペンを持ち直した。

「……私、空欄のままにしておくのが怖い」

「うん」

「空欄があると、誰かに見つけられる。何も決まっていないことも、決められないことも、そこに残るから」

「うん」

「でも、埋めればいいわけじゃない。適当な名前を入れて、決まったふりをするのも違う」

「そう」

律は頷いた。

「だから、決まってないなら、決まってないと書けばいい。決められないなら、決められないと書く。そうすれば、少なくとも今の自分がどこにいるかは分かる」

その言葉を聞いて、私は名簿の空欄を見た。

誰の名前もない白い場所。

そこには、何もないのではなかった。決められていないという事実が、はっきり形を持って残っている。

私は赤ペンの先を欄の横へ置いた。

『未定』

二文字を書く。

少し震えた。けれど、文字は紙の上へ残った。

律はそれを確認し、何も言わずに頷いた。

「それでいい」

「いいの?」

「今は。それが現状なら」

「決めるのを先延ばしにしてるだけかもしれない」

「先延ばしにするなら、いつまでか書く」

律はメモ帳を開いた。

「明日の昼休みまで。そこで決める。決められなかったら、別の方法を考える」

「別の方法って?」

「読む人を一人にしない。交代で読む。あるいは録音を使う。選択肢はある。空欄を埋める方法は、名前を書くことだけじゃない」

私は律の横顔を見た。

彼女は本当に、迷ったものをその場へ置いたまま進んでいる。迷いを消してはいない。迷いがあることを認めて、その周りへ線を引いている。

それは、私が知らない紙の扱い方だった。

「雫、今度は私から聞く」

律が言った。

私は身構えた。

「何」

「昨日から、私に何か言いたいことある?」

息が止まった。

律の目は、まっすぐこちらを向いている。逃げ道のない視線だった。けれど、手紙に書いた言葉を知っている目ではない。何も知らないまま、それでも私の沈黙を見ている目だった。

「ない」

答えるまでに、いつもより長くかかった。

律はその間を見逃さなかった。

「今の返事、未定にしておく?」

「……そうして」

「分かった」

律は本当に、メモ帳へ何かを書いた。

私はそれを見て、胸の奥がわずかに痛んだ。律なら、嘘だと笑うと思っていた。あるいは、答えを迫ると思っていた。けれど彼女は、私の返事をそのまま受け取り、未定の場所へ置いた。

怜が、机の上の缶を私のほうへ少しだけ押した。

「飲む?」

「まだいらない」

「分かった」

怜はそれ以上押さなかった。

律が段ボール箱を指差す。

「これ、動かす。怜、手伝って」

「了解」

怜はすぐに立ち上がった。箱の両側へ手をかけ、持ち上げる前に私を見る。

「雫、通る?」

「通る」

「本当に?」

私は一拍置いて、頷いた。

怜は箱を持ち上げた。重そうに見えたが、何も言わず、律の指示した位置まで運ぶ。律は床の黄色いテープを貼り直し、箱の角を線の内側へ押し込んだ。

「あと五センチ」

「細かいなあ」

「五センチが人を転ばせる」

「はいはい」

「はいは一回」

「はい」

二人のやりとりを聞きながら、私は名簿へ『未定』と書いた文字を見つめていた。

赤いインクは乾くまで少し時間がかかる。指で触れれば滲む。私は紙を閉じず、しばらくそのままにしておいた。

黒板の上では、律が引いた線が、消し残しの文字を横切っている。

喫茶。朗読劇。迷路。

どれもまだ完全には消えていない。けれど今は、その残り方が気にならなかった。消えないものの上に、決まっていないものの線を重ねる。そうして紙面も、教室も、少しずつ使える形へ変わっていく。

鞄の内ポケットで、封筒の角が腿に触れた。

私はまだ、律へ渡すとは決めていない。

けれど、決めていないことを、決めたふりもしなかった。

窓の外で、港の灯りが一つ点いた。

その光は教室まで届かない。けれど、届かない距離にあるものを、もう見えないものだとは思わなかった。

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