10話 未定のまま、隣にいたい

文化祭が終わった翌朝、校舎は急に広くなっていた。

廊下に貼られていた案内板は外され、床に残った養生テープの跡だけが、昨日まで人の流れを作っていた場所を示している。体育館から聞こえていた拍手も、教室を行き交っていた声もない。窓を開けると、海の匂いを含んだ風が、使い終えた紙と段ボールの匂いをゆっくり押し出していった。

黒板には、昨日の出し物名が残っていた。

上から新しい日付を書き足した文字の下で、消しきれなかった候補が薄く浮いている。喫茶店。展示。朗読。誰かがふざけて書いた、焼きそば屋。どの文字も、消されたはずなのに完全には消えていなかった。

私は黒板消しを持ったまま、そこに立っていた。

「それ、消さないの?」

後ろから怜の声がした。

振り向くと、怜は教室の入口に寄りかかっていた。昨日まで使っていた保冷バッグを片手に持っている。文化祭が終わったのに、まだ中には缶ジュースが何本か残っているらしい。保冷バッグの底で、缶が小さく触れ合った。

「全部は消さない」

「先生に怒られない?」

「たぶん、怒られる」

「たぶんなんだ」

怜は笑いかけたが、私の顔を見て、笑いを途中で止めた。

その止め方が、今はもう不自然に見えなかった。怜はまだ、気まずいときに冗談を言おうとする。けれど、言っていいかどうかを、前より長く考えるようになっていた。

「昨日の夜、寝た?」

「少し」

「それは寝たに入る?」

「三時間なら」

「私より寝てる」

怜は教室の後ろまで歩いてきて、机の上に缶ジュースを一本置いた。すぐに手を離し、私の返事を待つように一歩下がる。

缶の表面には、まだ冷たい水滴が残っていた。

私はそれを手に取った。

「ありがとう」

「うん」

それだけで、怜は少し息を吐いた。缶を渡すことが、謝罪の代わりにならなくなっている。渡したあとに、私が受け取るかどうかを待つ。たったそれだけのことが、昨日までとは違って見えた。

教室の戸が開き、律が入ってきた。

片手に舞台係の腕章、もう片方に昨日の見取り図を持っている。紙はさらに折れ、赤い線の上に新しい書き込みが増えていた。

「雫、それ返して」

「これ?」

「そう。私の」

私は鞄から見取り図を取り出した。折れた角を整えようとして、指で何度も撫でてしまう。

「ありがとう。昨日、助かった」

「別に。使ったなら、それでいい」

律は紙を受け取った。

「雫は、あれから何か決めた?」

唐突だった。

怜が缶ジュースの蓋を見つめる。私は黒板へ視線を戻した。律は、私が何を指されているのか分かっている顔をしていた。鞄の内ポケットに入れたままの封筒。律の名前が書かれた、何度も書き直された便箋。

「まだ」

「期限は?」

「決めてない」

「昨日、自分で決めてって言った」

「うん。でも、決めることも含めて、まだ決めてない」

律は眉を寄せた。

呆れたのかと思った。けれど、彼女は怒らなかった。手にした見取り図を一度折り直し、今度は無理に角を揃えず、そのまま腕章のポケットへしまった。

「それは、未定じゃなくて保留じゃない?」

「違うの?」

「似てるけど違う。未定は、まだ可能性がある。保留は、決めるのが怖くて止めてるだけ」

胸の奥が、薄い紙で擦られたように痛んだ。

「……どっちでもいいよ」

「よくない。雫は言葉を整えるのが好きなくせに、自分のことになると急に雑になる」

怜が小さく息を吸った。いつものように律へ何か言おうとしたのかもしれない。けれど、口を閉じた。

私はそのことに気づいた。

以前なら、怜が間に入ってくれることに救われていた。律の言葉を軽くしてくれることにも、助けられていた。けれど今日は、私が自分で返さなければならないと思った。

「怖いから止めてる。それは、そうだと思う」

律は黙っている。

「でも、怖いままでも、終わらせたくない。だから保留じゃなくて……未定にしておきたい」

「都合のいい言い方」

「うん。都合がいい」

「自分で認めるんだ」

「認めないと、たぶんまた紙に書いて燃やすから」

律の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「なら、燃やさないために何をするの」

私は鞄の内ポケットへ手を入れた。

封筒の角が指先に触れる。昨日までなら、取り出すだけで心臓が早くなった。今も早くなる。けれど、手を引っ込める理由にはならなかった。

私は封筒を出した。

怜がこちらを見る。律も見る。二人の視線が、紙の上に集まった。

封筒には、律の名前が書かれている。何度も消して書き直したせいで、宛名の周囲だけ紙が少し薄くなっていた。

「これ、律に渡す」

怜の指が、缶の側面で止まった。

律は封筒を見たまま、すぐには手を伸ばさなかった。

「今、読んでいいの?」

「ううん」

「じゃあ、いつ?」

私は息を吸った。

「私がいるところで。私が、読んでいいって言ったときに」

律は一度だけ頷いた。

「分かった」

封筒を差し出す。律の指が触れたとき、紙越しにかすかな熱が伝わった。焼却炉の前で感じた熱とは違う。逃げ場を塞ぐ熱ではなく、まだ手の中に残っている体温だった。

律は封筒を鞄へしまった。

「これで、期限は?」

「次の放課後」

「明日?」

「うん。明日、屋上で」

律は少し考え、それから短く言った。

「分かった。逃げてもいいけど、逃げるなら自分で言って」

「……分かった」

律が教室を出ていく。

残された黒板には、薄い文字がまだ見えていた。消えなかった跡は、失敗の証拠だけではない。何度も上から書き直された時間の形でもある。

怜が私の隣へ来た。

「今の、私が聞いていい話だった?」

「聞いてたでしょ」

「聞いてた。聞こえちゃった」

「同じじゃない?」

「違うよ。聞くつもりで聞くのと、聞こえちゃうのは、心の置き場所が違うから」

怜はそう言ってから、少し困った顔をした。

以前なら、ここで自分の言葉を笑ってしまっていたと思う。けれど、今日は笑わなかった。

「雫」

「なに」

「明日、屋上に行くとき、私も隣にいていい?」

私は缶ジュースを両手で包んだ。冷たさが掌に残り、指の間から少しずつ温度を奪っていく。

「屋上までは」

「そこから先は?」

「まだ決めてない」

怜は頷いた。

「うん。じゃあ、そこまで」

私たちは並んで黒板の前に立った。

怜は、消し残しの文字へ手を伸ばさなかった。私も、すぐには消さなかった。

窓の外で、港の灯りが昼の白さにほどけていく。祭りのあとに残った校舎は、何もなかったような顔をしていた。それでも、机の傷や紙の折れ目や、黒板の薄い文字は、昨日までの時間を隠さずに残している。

私は缶の蓋を開けた。

炭酸の抜ける小さな音が、誰もいない教室に響いた。

明日、私は律に手紙を読んでもらう。

その先で何が変わるのかは、まだ分からない。

分からないままでも、隣にいたいと思った。

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