第3話 旧館の裏手

放課後の校舎は、まだ人の熱を抱えていた。
教室の戸を閉めても、廊下には笑い声が残っている。誰かが脚立を運び、誰かが模造紙の端を押さえ、遠くの音楽室からは、音の外れたギターが何度も同じフレーズを繰り返していた。文化祭の前になると、校舎全体がひとつの生き物みたいに動き出す。役割を持った手足が、それぞれ勝手な方向へ伸びていく。
私は封筒を制服のポケットに入れたまま、旧館へ向かった。
怜は少し離れてついてくる。近すぎず、遠すぎない。さっき私が「一緒に来てもいい」と言った距離を、彼女なりに測っているのだと思う。
そのことが、かえって落ち着かなかった。
いつもなら、怜は私の肩に腕を回すか、先に廊下の角を曲がって振り返る。歩く速さも、階段を上る段数も、何となく同じだった。けれど今は、私が一段上がるたびに、怜の靴音がひとつ遅れて聞こえる。
踊り場の窓から、港が見えた。
昼間は白く霞んでいた海が、夕暮れの色を吸い始めている。高台の下に広がる住宅街では、まだ明かりのついていない窓と、先に灯った窓が混じっていた。帰る場所を持つ人たちの一日が、あちこちで静かに続いている。
「雫」
後ろから呼ばれた。
私は振り返らずに足を止めた。
「なに」
「旧館って、ほんとに行くんだよね」
「行くって言ったから」
「いや、そうなんだけど。私、途中で雫が気を変えて、やっぱり教室に戻るとか、そういうのもあるかなって」
「怜は、私が気を変えるのを待ってるの?」
「待ってるっていうか、逃げ道を用意してる」
怜の声に、いつもの軽さが少しだけ混じった。
「逃げ道って、あったほうがいいじゃん。人生、一本道にすると転んだとき痛いし」
「今、冗談を言わないで」
「……ごめん」
怜はすぐに謝った。
あまりに早く謝られたせいで、私のほうが言葉を失った。怜はいつもなら、謝ったあとに「でも本当に転んだら痛いからね」と何かを足す。謝罪を重くしないための言葉を探して、笑いに変える。
けれど今は、何も足さなかった。
旧館へ続く廊下は、窓が少ないせいか、夕方なのに薄暗かった。白い蛍光灯が何本か点いている。一本だけ、端のほうが明滅していた。床のワックスは剥げた箇所があり、靴底が触れるたび、乾いた音が返ってくる。
新館から離れるほど、文化祭の音が薄くなった。
段ボールを引きずる音も、名前を呼ぶ声も、壁を一枚隔てた向こうのものになっていく。代わりに、古い校舎特有の匂いが強くなった。湿った木材、埃、使われていない教室に残るチョークの粉。それから、どこか金属の焦げたような匂い。
焼却炉が近い。
ポケットの中で封筒の角に触れた。封を開けた傷が、指先に引っかかる。怜の爪がつけた浅い傷だった。
何度も書き直した文字も、封筒の色も、選んだシールも、もう私だけの記憶ではない。怜はそれを見た。読んだ。私がどれだけ迷ったかを、紙の表面に残った濁りまで含めて知ってしまった。
焼却炉へ来れば、その事実も灰になると思っていた。
でも、灰にできるのは紙だけだった。
「雫、遅い」
廊下の先で、怜が振り返った。
私は立ち止まっていたらしい。蛍光灯の白い光の下で、怜の顔だけが少し遠く見える。
「ごめん」
「また謝った」
「何が?」
「雫が謝ることじゃないのに」
「でも、待たせたから」
「それはいいよ。私が先に歩いただけだし」
怜はそう言って、来た道を戻ってきた。歩幅を合わせるように、私の隣まで戻る。その動きがあまりに自然で、私は一瞬だけ、昨日までのことを思い出した。
小学校の帰り道、怜はいつも先に走っていった。角を曲がったあとで私がついてきていないことに気づくと、必ず戻ってきた。戻ってきて、何も言わずに私の鞄を持った。私が取り返そうとすると、「今日は私が持つ日」と勝手に決めた。
あのころから、怜は人のものへ手を伸ばすのが早かった。
私も、それを許していた。
許していたというより、許すことと親しさの違いを考えたことがなかった。
旧館の裏手へ出る扉は、鉄の取っ手がひどく冷たかった。私は手を伸ばしかけて、触れる前に一度止まった。新館の熱が背中に残っているのに、扉の向こうからは湿った夜の気配がにじんでくる。
怜が横で、取っ手に手をかけた。
「開けるね」
「……うん」
怜は確認してから扉を押した。
蝶番が低く鳴る。外へ出ると、風がうなじに触れた。涼しくはなかった。海から上がってきた風は、湿気を含んでいて、肌の上をぬるく撫でていく。
旧館の裏手には、文化祭で使わなかった木材や、破れた掲示板が積まれていた。雑草がコンクリートの割れ目から伸び、夕方の光を吸って黒く見える。壁際に置かれた焼却炉だけが、周囲から切り離されたように赤く明るかった。
鉄の蓋の隙間から、火が見える。
中では、誰かが先に入れた紙が燃えていた。白い紙の端が黒く丸まり、文字の一部が赤く透けている。炎は大きくない。それでも、焼却炉の前に立つと、顔や手のひらへ熱がまとわりついた。
紙の焦げる匂いがする。
鼻の奥に入り込んだ匂いが、何度も破った便箋の束を思い出させた。破った紙をゴミ箱へ入れるとき、私はいつも一度だけ、そこから目をそらした。自分で捨てるのに、自分の手で捨てたところを見届けられなかった。
「ここに入れる?」
怜が聞いた。
手には、いつの間にか軍手があった。文化祭準備で使っていたものだろう。片方の手袋の指先が黒く汚れている。
私は首を横に振った。
怜はそれ以上、勧めなかった。
ポケットから封筒を取り出す。水色の紙が夕暮れのなかで、ほとんど白に見えた。封筒の角を撫でる。浅い傷のところで指が止まる。
「これ、まだ燃やすつもり?」
怜の問いは、責める調子ではなかった。
だからこそ、答えに困った。
「分からない」
「うん」
「昨日までは、燃やせば終わると思ってた」
「今日も?」
「……分からない」
「私が読んだから?」
私は焼却炉の中を見た。
紙の端が崩れ、灰が小さく舞った。文字が燃えるとき、線は最後まで文字の形を保たない。黒い線が細く途切れ、そのあと赤くなり、何も読めなくなる。
「怜が読んだから、終わらなくなった」
怜の息を飲む音が聞こえた。
「そっか」
「責めてるわけじゃない」
「うん。でも、責めていいと思う」
「責めたら、私が楽になるの?」
「分からない。けど、責められないまま私だけが謝るのも、たぶん雫には嫌なんじゃないかな。私が勝手に悪い人になって、雫が勝手に許す側になるのも、変だと思う」
私は怜を見た。
彼女は焼却炉のほうを向いたまま、軍手を握っていた。笑っていない。顔をしかめてもいない。ただ、どこに視線を置けばいいのか分からないように、燃える紙の一点を見つめている。
「私、雫のこと、何でも分かってると思ってた」
怜が言った。
「小学校から一緒だったし、雫が何を嫌がって、何なら笑うかも知ってるつもりだった。雫は怒ると黙るんじゃなくて、怒る前に自分のほうを悪くするから、そこまで含めて分かってると思ってた。だから、雫が本気で止めたときも、いつもの照れ隠しだと思った。見せたくないんじゃなくて、見せたら恥ずかしいだけだって。恥ずかしがってる雫を、ちょっと笑わせれば大丈夫だって」
怜の声は、火の音に混じって揺れた。
「でも違った。雫は私を信じてるから何も言わなかったんじゃなくて、言えなくても、私なら分かると思ってたのかもしれない。私が分かってるつもりで踏み越えた。そこを、ずっと親しさで済ませてた」
「怜」
「うん。分かってる。今、また長く話してる。雫が聞きたいことじゃないかもしれない。でも、何も言わないで隣にいるのも、私はまだ下手だから。たぶん、また何か言ってしまう。だから先に言っておく。手紙を読んだことは、なかったことにしない。忘れたふりもしない。雫が私を前みたいに見られなくても、私が勝手に悲しがって、雫に慰めさせることもしない」
私は封筒を握った。
紙が掌に食い込む。
「どうして、そんなに戻りたいの」
「戻りたい?」
「前みたいに」
怜はしばらく黙った。
火の向こうで、白い紙が一枚、ふちから黒くなっていく。文字の一部が読めた。文化祭の確認事項らしい。担当、時間、集合。誰かにとって必要だった言葉が、熱のなかで順番を失っている。
「戻りたいよ」
怜は言った。
「でも、戻れないなら、戻れないまま隣にいたい。雫が今までみたいに笑わなくても、私の冗談に一拍遅れても、その一拍を待てるようになりたい。……それが、隣にいるってことかは分からないけど」
「分からないことを、すぐ言うんだね」
「分からないことを黙ってたら、雫と同じになるから」
「それは、私への嫌味?」
「違う。違うけど、雫の真似をしたら、私たぶん何もできなくなる。だから、分からないまま言うしかない」
怜はそこで、初めて私を見た。
視線がぶつかった。
私は逃げたくなった。けれど、ポケットに封筒を戻す代わりに、指先でその傷をなぞった。
「私、怜に怒ってるのかもしれない」
「うん」
「でも、怒ってるだけじゃない」
「うん」
「恥ずかしい。律に好きって書いたことも、怜に読まれたことも、そのあと何も言えなくなったことも。全部、自分のことなのに、自分でどうすればいいか分からない」
「うん」
「うんしか言わないで」
「じゃあ、どうすればいい?」
「それを私に聞かないで」
「分かった。……でも、聞かないと本当に分からない」
怜の口元がわずかに動いた。
笑おうとしたのだと思う。
けれど、笑いにはならなかった。
焼却炉のそばでは、熱と夜風が交互に肌へ触れた。火の側にいる頬は熱いのに、風に晒されたうなじだけが冷えていく。私は封筒を焼却炉へ近づけた。
水色の紙の端が、熱でわずかに反った。
怜が息を止めた気配がした。
私はそのまま、手を下ろした。
「今日は、燃やさない」
「うん」
「燃やせない、じゃなくて、燃やさない」
言い直した自分の声が、思ったよりはっきりしていた。
怜は頷いた。
「それでいいと思う」
「怜が決めないで」
「ごめん。……雫が決めたなら、それでいいと思う」
私は封筒を胸の前で持った。
燃やさないと決めても、渡すと決めたわけではない。律に伝えると決めたわけでもない。手紙を残す意味まで分かったわけではなかった。
ただ、燃やす以外の選択肢が、自分のなかに初めて置かれた。
焼却炉の蓋の内側で、紙が崩れた。
火の形が一瞬だけ大きくなり、赤い粉が浮かぶ。怜は反射的に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。その手が私に触れない距離で宙に残る。
私はその手を見た。
「今、触ろうとした?」
「……うん。でも、触っていいか分からなかった」
「聞けばいいのに」
「聞いても、雫が困るかなと思って」
「困る。けど、勝手に触られるよりはいい」
怜は手を下ろした。
「じゃあ、今は?」
私は少し考えた。
考えているあいだ、怜は何も言わなかった。笑いも、催促もなかった。風が二人の間を通り抜け、怜の髪を頬から離した。そこに残った耳のかたちまで、私は初めて見るもののように感じた。
「……缶ジュースなら、受け取ってもいい」
怜の目が、ほんの少し開いた。
「それ、触っていいって意味?」
「そういう意味」
怜はポケットから缶を取り出した。冷えたアルミ缶の表面には、細かな水滴が浮いている。彼女はすぐに差し出さず、私の手の位置を確かめてから、ゆっくりとこちらへ向けた。
私は両手で受け取った。
冷たさが掌に広がる。焼却炉の熱を抱えた指先には、その冷たさが痛いほどだった。水滴が一本、缶の側面を流れ、手首へ落ちる。
怜は自分の缶を持ったまま、私の隣に立った。
肩が触れない距離だった。
けれど、離れすぎてもいなかった。
「開けないの?」
「まだ」
「炭酸、逃げるよ」
「逃げてもいい」
「そっか」
「怜は、すぐ逃がさないようにするね」
「何を?」
「空気とか、沈黙とか」
怜は缶のプルタブに指をかけた。
「逃げたほうがいいものもあるんだね」
「あると思う」
「じゃあ、今は逃がしていい?」
私は焼却炉を見た。
赤い火と、旧館の白い壁。遠くの新館には、まだ文化祭の音が残っている。港の灯りが一つ、また一つと増えていく。誰かの生活が始まり、誰かの準備が終わり、明日のために夜が静かに深くなっていく。
「……うん」
怜は缶を開けなかった。
ただ、私の隣に立ったまま、同じ方向を見ていた。
私は封筒をポケットへ戻した。机の奥ではなく、自分の身体に近い場所へしまう。もう一度、封の傷を指でなぞる。
紙は傷ついていた。
それでも、まだ形を保っていた。
旧館の裏手で、焼ける紙の音が続いていた。私たちはそれを聞きながら、何も言わずに立っていた。沈黙は長かったが、今度はどちらかが急いで埋めるものではなかった。
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